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マイト・アデゴードという生き方

更新日:2020年3月12日


TOKIKO インタビュー 2

Extraordinary Ordinary People / 人並み外れた身近な人々


 

マイト・アデゴード (Mait Adegård) と私の出会いは、2001年。

共通のデンマーク人の友人宅で、盛大に行われたその友人の50歳を祝う誕生日パーティーでの席だった。60人近い出席者が、その方の邸宅に並べられたたくさんのテーブルに分けられて座り、私はデンマーク人ばかりのテーブルに振り分けられた。スウェーデン語とはまた違うデンマーク語が理解できず困っていたところ、私の目の前にいる年配の男性も、どうやら困惑している様子だった。「あなたはスウェーデン人ですか?」と声を掛けてみたその男性が、マイトのご主人だった。話していくうちに、彼らはストックホルムに住み、エーランドにサマーハウスを持っている事が判明した。それも、我が家から車で5分ほどのロングレェット村に。その村は、私達がいつもサイクリングで通る場所だったので、パーティーの数日後に寄ってみた。

その日から、私達は毎夏、何度も何度も時間を共有して、素敵な思い出を作り続けてきた。


マイトは、1949年6月13日生まれ。スウェーデン、ストックホルムの教師として、また教育委員会に携わり、教育現場に多くの変革を齎してきた。CISV (Children’s International Summer Village) のストックホルム支部長を務め、”国境を越えた教師団 ( Teachers Across Borders ) ”にも所属し、世界各地で子供達の国際交流や国際規模での教育現場の向上を支えた。現在は退職後、4人の孫の祖母として、自分の時間を楽しんでいる。


M.A.

【 私があなたに出会ったその時から、私はあなたに対して、家族に対して抱く様な親近感を抱いてきたんです。私はいつもどういう訳か、私と同じ様な感性や価値観などをあなたの中にも感じてきて、それが私達の友情を特別なものにしてきたと思っているんです。私にとってとても特別なあなたを、日本の読者に紹介できて、本当に嬉しいです。これ迄のあなたの人生の軌跡を、あなた自身でその読者に語ってください。】


私は、スウェーデンの首都、ストックホルムで生まれ育ったの。私は一人っ子だったけれど、当時は一人っ子というのは珍しい方だった。私の前に生まれる筈だった子を流産していた両親は、その後、私だけを子供にする事に決め、私は彼らの愛情を一身に受けて育つ環境を得たの。

私達はどこにでもある様な一般的な家族で、小さなアパートに住んでいたの。自分が幸運だと思うのは、私はそれほどの制限を両親から与えられなかったという事だと思う。私はとても好奇心が旺盛で、常に何かやっていたかったし、それらを何とか上手くやり遂げられるという自信を持っていたわ。


【小さい子供の頃から?】


そう。なぜかというと、私の両親は、世の親が大概は子供に対して設ける様な制限を私には設けなかったの。一人っ子という事もあったかもしれない。3歳の時から、私は自由に外をうろつき回っていたし、自転車も乗り回していたわ。母に「橋の向こう側には行ってはいけない」と言われても、私の好奇心が私を反対側に導いて、そこでたくさんの楽しい思い出を作ったり、新しい事を学んだりしていたの。

兄弟はいなかったけれど、それが原因で寂しいと思った事は1度もなかった。今でも親しく付き合っている仲良しの女の子が近所に2人いて、彼女達が私の姉妹代わりだった。その後成長しても、私にはとても近い親友が常に周りにいたの。私は、出会った人々といつもコンタクトを取り合っているけれど、私にとっては、友人関係を保っている事は、いつもとても重要な事だったわ。


私が10歳の時、私は大きな病気を患った。喉が腫れ、高熱にうなされて病院に連れて行かれたけれど、彼らは私の病気が分からず、よって、治癒の仕方も知らなかった。現在でもその病気の完治の仕方を知っているのかは分からないけれど、少なくともスウェーデンでは前例のないケースだった。かなり長い間病院に隔離されてたくさんのテストをされ、私の免疫システムがほぼ機能していない事が明らかになったの。まるで、エイズの様に。最終的には医師達が薬を見付け、私は生き残る事ができたのだけれど。


【10歳で完全に隔離されて、医師にも分からない病気と闘っていたのですね。】


私はまるで屋根裏部屋の様な隔離室に閉じ込められて、何ヶ月もの間、誰とも話ができず、会えず、両親にさえも全く会わせて貰えなかった。両親は私には全くそぶりは見せなかったけれど、私の命がもうすぐ尽きると信じて疑わなかった筈よ。今現在では、絶対に病院で子供をそんな風に扱う事はないわね。

私は自分の闘病の境遇を悲しく感じたし、どうやってこの部屋から抜け出そうかと考えたりした事もあるけれど、私は実際に逃げ出そうともしなかったし、在るがままの境遇を完全に受け入れていたの。なぜって、その不安と孤独の境遇が私を強くしているのを感じていたし、私は幼いながらも自分の状況を私自身がきちんとコントロールできると信じて疑わなかった。


【当時、あなたの病状についての適切な説明というのは全くなかったのですか?】


誰からも説明を受けなかった。けれども、スウェーデン全土やヨーロッパ各地から色々な分野の専門医師が招集されていた。「君の病気を治す為に、皆、全力を尽くすよ」という様な事を言われていたわ。最終的に何とか薬が見付かり、私は治った。でも、私は今でも自分の病名を知らない。

この闘病期間中、私は 5 - 6 ヶ月間隔離され続け、学校を休み続けなければならなかった。私の両親は、公立の学校に戻る代わりに、私を女子校に通わせる事にしたの。その学校に通う事で、新しい経験がたくさん待っていた。私はナーバスになる代わりに、とても好奇心を燻られた。新たな環境で、新たな友人を得始め、ここでどうやって自分自身を適応させていこうかと考えねばならなかった。

その学校で最も幸運だったのは、先生方がとても優れていた事。それに、現在のスウェーデンでは、男女を分ける教育方針はどちらかというと批判されがちだけれど、10代の初めは男子よりも女子の方がうんと早く成長をするし、別々の方が都合のいい様な事がたくさんあるでしょう。それから、それ迄の普通校よりも格段に教育の質が良かった。経験豊かな年配の先生が多く、その殆どが、生徒にできる限りの教養をつけさせようと熱心に指導をしていた。私はそれを感じ取り、できる限り自分の質を高め様と思わせられた。


【では、その時の経験があなたに教師の道を歩ませる為の大きな影響を齎したのですか?】


もしかしたら、そうかもしれない。でも、当時はそうでもなかった。少なくとも、教育者になろうとは考えていなかったから。

それに、当時はスウェーデンで色々な団体運動が活発化している時代で、私もかなり感化されて、体制に対して”反抗的”だった。教師にとっては扱いにくい生徒の多い、難しい時期だったと思うわ。それ迄は、身だしなみの整った生徒ばかりだった筈が、60年代の波に乗って何かを吸ってみたり、バイクを乗り回したりする生徒が増えてきた。社会的に大きなシフトの真っ只中だった


【あなたはそれを謳歌していたんですね。】


勿論よ。世間の価値観が急速に変化していた。新しい音楽、新しい可能性、全てが新鮮だった。

そして、私の両親といったら、私が何をするのも許容していた。自分を信じていればそれで大丈夫だと言われていた。それから、将来、夫に頼らなくていい様に教養を身に付け、自分の両足でしっかり立ちなさいとも。その事が、両親にとって、私に対して懸念する最も重要な事だった。両親の時代は、女性の立場がとても弱くて、仕事を得るのも大変だった。それに、私の一族には大学を出た人が1人もいなかった。私が大学教育を受けた最初だった。

付け加えると、私にはたくさんの親友がいた。私達はヒッチハイクをしながら一緒に旅に出たりしていた。

15 - 24 歳迄の 9 年を共に過ごしたとても素敵なボーイフレンドもいた。両親は彼の事をとても氣に入っていたけれど、常に私の事を心配していなくてはいけなかったと思うわ。私は彼のバイクの後ろに跨ってあちこち遠くに出掛けていたから。

小さい頃には原因不明の病気で死に掛けたりもしたし、私は随分と両親を心配させた筈よ。でも、同時に、彼らはとても幸せだったと思うの。なぜなら、私は自分の人生を満喫して、いつもとても幸せに生きていたのだから。


【あなたの楽観的な性格は、ご両親の影響ですか?】


どうかしら? 私は生まれながらにしてハッピーな人間なんだと思うわ。


【あなたのご両親の性格は?】


母はとてもクリエイティブで、自分の限界をいつも高めようとしていた。若くして家を離れてストックホルムに出て来て、仕事を探した。

父は、とても大変な家族関係の中で育った。彼にはたくさんの兄弟姉妹がいた。彼の父親(マイトの祖父にあたる人物)は、いつも違う女性を身篭らせていた。祖父は、彼のところで働いていた女性(祖母にあたる人物)を妊娠させてしまったけれど、子供(マイトの父)を自分の子供として認めなかった。その後も同じ女性を妊娠させてしまうのだけれど、父が2 歳の時、母であるその女性は父の弟妹を妊娠中に自殺をしてしまった。それで、祖父にあたる人物は、父を自分の子供として認めざるを得なかった。話によると、父には8人だか9人だかの異母兄弟姉妹がいた。最初の妻との間に 4 - 5 人の子供がいて、父が生まれ、後妻との間に 3 - 4 人の子供がいた。後妻である継母は、私の父に相当辛く当たったみたいで、きっと彼の幼少期は地獄だったと思うわ。


【お父さまの幼少期の話は、ご本人から聞いているのですか?】


ええ、ある程度はね。詳しくは聞いていないけれど。けれども、父のそういう辛い幼少期の体験があるからこそ、私にはできる限りの事をしてあげたいと強く願っていたの。父は、とても優しく素敵な人で、家庭の安定を重視して、仕事に励み、飲酒も控え、貯めたお金を無駄遣いする事を嫌っていた。私の母は旅行に出たがったけれど、父はそれも好まなかった。その 2 人の価値観の違いが、2 人の間に溝を作っていったと思う。

母が 65 歳の時、父と離婚する事を決めた。別々のアパートに住んでいたけれど、それでもサマーハウスは共有し続けたの。離婚はしたけれど、いつも 2 人で何かをする機会を持っていて、私が結婚した後でも一緒に訪ねて来たりしてくれていた。2 人は敵対関係になる事はなかった。でも、やはり、彼らの離婚は、とても悲しい出来事だった。


【ご両親の関係から、あなたはどういう事を1番学んだのでしょう?】


最も大事な点は、私自身が自分の人生に責任を持つという事。どんな事があったとしても、絶対に他人に責任を押し付け、文句を言う権利はないという事。最終的には、全てが自分の選択によって起きているという事。

私達がパートナーとして誰かを選んだとしたら、私達はその人の人生の一部となるけれど、それはその人に頼る為ではなく、自分の考えや意見を持ちながら自分を信じ、自分の両足で立って寄り添い、相手のせいで自分のしたい事ができないとか不幸だとか言ってはいけないという事。誰かと一緒に生きているとしても、自分自身の幸せは、全て自分次第だという事


【世の中の多くの人が、その地点に辿り着くのにとても苦労しています。私の意見では、その地点に辿り着ける人はとても少ないと思います。自分自身が自分の人生の主導権を握っていて、自分の幸福に全責任があるという事に関して。なぜなら、全て他人のせいにしていたら、楽ですからね。そして、他の人が自分を幸せにする事を期待しているのも、楽です。】


本当にその通りだと思う。

只、おかしな言い方かもしれないけれど、同時に、他人を、自分の人生を豊かにする為に”道具”として使うというのは大事な事だとも思うの。自分の足りない部分を、他の誰かの力を利用させて貰って、付け足し、補うの。「この人は、興味深い人物ね。もっとその人の見ている世界、知っている事を知ってみたいわ」とか、「この人が、私に未知への扉を開いてくれそうだわ」とか、「この人は、私よりもこの点に於いて能力があるわ。なぜそうなったのかしら」などという風に感じる事で人との繋がりが始まったり深まったりするでしょう


【勿論です。でも、ある程度自分を知っていて、オープン・マインドでいる事も不可欠ですよね。だって、大概の場合、”他人と自分を比べる失敗”を犯す事によって味わう劣等感や自己不信が、自分の心を閉じてしまう事が多いですから。だから、他の人の中に素晴らしいものを感じても、自己卑下に陥ったり、相手を羨む事で終わってしまう事は多いと思うんです。その点、あなたは常にとてもオープン・マインドですよね。】


まあ、ありがとう!


【常に好奇心旺盛で、心を開いている事があなたの歩むべき方向を指し示してきたと思いますか?】


そうね。私の幼少期に両親が私に全幅の信頼をおいて私に制限を設けなかった事が核となっていると思うわ。大人として、制限や禁止事項を設けたりする事は容易くできるでしょう。性向、選択、成長に於いて。

私だって、時どきは家に居るように言い渡されたり、何かをしてはいけないと言われる事もあったけれど、特に私の父はそう言ったところで私をコントロールできない事を熟知していたと思うの。私を型に嵌めるのは無理だと理解していて、代わりに私を信頼する事にしたのでしょう。その事は、私達にとってとても大切な事だった。


【お父さまは、自分の困難な幼少期からの学びをあなたに生かしたのでしょうね。】


子供の頃はそう考えた事はなかったけれど、もしかしたら、無意識のうちにそうなっていたのかもしれない。でも、意識的ではなかったと思う。

私が成長してから、父はとても賢い人だったと思う様になった。彼は、3 つの仕事に同時に就いていたのに、後になって、そんな多忙な生活にも拘らず、夜間の英語教室に通っていた事を知ったの。父が英語を話しているのを耳にした事はないけれど、彼はとても素晴らしい英語の文章を書き残していた。

とにかく、父は私に彼のできる最善を尽くして、私に私の最善が行える様にしてくれていたと思う。父は、私が小さい時から、1 つ 1 つの段階を得て何かができる様になっていくのを見守るのを楽しんでいた。


【きっと、ご両親があなたが色々な事を楽しんでしている姿を見て喜んでいるのを感じて、あなた自身ももっと刺激を受けたのでしょうね?】


そういう風に考えた事もなかったわね。私は自分自身がいつも強い衝動に突き動かされて何かをしていなくては氣が済まず、自分自身を止める事ができなかっただけだと感じていたから。両親に禁止されていた渡ってはいけない橋を無断で渡ったり、バイクでのヨーロッパ一周の旅を反対されても何が何でも行ってしまったし・・・。だから、両親は私をコントロールする事を諦めるしかなかった(笑)。なので、両親と私の間のバランスを説明するのは、ちょっと難しい。私はとにかく、いつも自分のしたい事に対して首尾一貫していた


その後大学に通う様になった。でも、教師になる為ではなく、医師になる為に。外科医になりたかったの。でも、私はとても活動的過ぎて、医師になるには成績が不十分だった。私はスキーをしたり、乗馬に熱を上げたり、自然の中で何かをしているのが大好きで、それは私にとってとても重要な事だったから。

ある日、私は父の横に座って、色々な職場に体験申請を送る作業の真っ最中だった。その時に突然大学からの電話が鳴って「今、教職トレーニングセンターの方で教師になる為の枠が空いているけれど、あなたは適任だと思う」と告げられた。私は同時に、ドイツで医師になる勉強を続けようと決心を固め始めていたし、「教師にはなりたくない」と言ってしまった。電話の主は、「今すぐ返事をしなくていいから、明日の朝迄に考えておいて」と電話を切った。父は、「とにかく試しにやってみたらいいんじゃないか」って。半年してみて氣に入らなかったら、辞めればいい事だとね。18 歳だった。当時、私は実家の近くに自分のアパートに住んでいて、教職トレーニングセンターは徒歩 5 分の所にあった。


話は変わるのだけれど、そのアパートでの忘れられない思い出があるのよ。

私と友人はストックホルムの中心街、マリヤ・バリアにある大きなアパートをシェアしていて、大学時代の友人ばかりが 25 人集まって大きなパーティーをした。参加者全員が、前菜担当とか、メインディッシュ担当とか、皿洗い担当などと係りがあってね、真夜中迄ダンスをしたり音楽を掛けたり、はしゃいで過ごした。当時は男子全員に兵役義務があって、私のボーイフレンドは危機を知らせる為の閃光弾・・・、街の真ん中であれをたくさん打ち上げてね(笑)。翌朝に、同じ建物に住むおばあさんが私達のドアを叩いて、「昨夜、パーティーをしていたのはあなた達ね」って。私はナイトガウンで出て行って、足元には飾りに使った紙切れが散乱していたから、「違う」とは言えなかったの(笑)。その人のアパートに呼びつけられて、お説教をされた。後で、今の主人の学校の先生だったと分かって驚いたわ(笑)。

そんなハチャメチャで楽しい思い出を一杯作りながら、仕事もたくさんしたわ。学生時代に、毎週土曜日に病院でも働いた。郵便配達もした。なるべくたくさん貯金をしたかった。なぜなら、卒業をしたら、まずは乗馬の為にスコットランドに行きたかったから。週末や休暇中も、休暇する時間がなかった。


【病院勤務の事は知らなかったです。】


病院では、夜間勤務をしたの。重篤な患者の横に座って過ごした。未熟児のケースも多かった。点滴を受けている患者の側にいる事も。頻繁に確認して、データなどを書き込んだりしながら。本当にたくさんの事を学んだわ。その仕事はとても好きで、今でも病院に詰めている自分を感じる事もできるくらいよ。もしも自分が医師になっていたとしたら、間違いなく自分にとって適切な職場だったと思うの。病院にいると、家に居る様に居心地がいいのよ。不思議なのだけれど。


【 10 歳の時の大病の経験は、少なくともあなたに病院や医師に対するトラウマを与えなかったのですね(笑)】


本当にそうね!

その病院は、カロリンスカ医科大でね、医師を育てる研究機関でもあったから、何かが起こった時にとてもオープンに色々な事を体験させて貰えたの。患者が亡くなった時の処置や、外科手術など、希望者は近くで見る事を許可されていた。「希望者はいる?」という風に訊かれて、私は自分の腕が勝手に上がってしまうのを止められなかったのよ。内心、怖い氣持ちもあるのに・・・(笑)。とても興味深かったわね。時には、こういう仕事の方を優先させて、学校をサボった事もあったわ。

学生時代に、教師として仕事をした事もあった。予備教師として。副担任などいない教育システムだったから、担任が病気になったりしたら、予備教師がセンターから派遣される訳。でも、本来は、資格がない時期は、教師として教えてはいけないのに、私は密かに潜り込んでいた(笑)。教師の仕事がどういうものなのかを理解するとてもいい機会だった。

現在の教師達は、指導する事に対して不安や恐れで一杯なのよ。でも、資格がない私だったけれど、私はいつでも準備が整っていた。「ここが今日のあなたのクラスよ」と言われたら、私は任務を遂行したわ。


【では、初めてその学校に足を踏み入れて、初対面の生徒達に 1 日勉強を教えるという状況だったりするのですね。どうやって自分を適応させるのでしょうか? 生徒達との信頼関係や主導権も必要でしょう?】


今考えたら、私はとてもいいやり方を取ったと思うわ。最初に何か生徒達が興味を抱きそうなものを読んでみたり、ちょっと変わった面白い質問をしてみたりして。子供達に、何を勉強していて、どういう風に学んでいるのかを確認しながら。なぜって、私がどうするべきなのかのメモがどこにもない場合が殆どだから。でも、1 番の要は、私が不安や恐れを抱いていない事ね。子供達は、大人のそういう気持ちを一瞬で読み取ってしまうのだから。


【先生の不安感や自信のなさは、子供達に ”先生を試す” 隙を与えますね。】


そうなの。でも、教師が自信に満ちていて、好奇心を持っていてちょっと楽しそうに見え、「さあ、あなた達が私をサポートしてね」というメッセージを出したら、生徒と教師の間のバランス関係が上手く成立するのよ。”一緒に今日を作り上げましょう” みたいな感じで。


【この時点で、あなたはもう教師を生涯の職業に決めていた訳ですか?】


そう。学生時代に既に教職を始めたいたからね(笑)。だから、卒業する時点で、理論としてだけではなくて、十分な現場での経験と知識がもうあったの。飛び入りで何度も現場で役割をこなして、それもなかなか上手くこなして、教職というものはなかなか面白く、やり甲斐があると実感していたし、グループを統率してく”権威”というものも、私の心を高揚させる事に気付いた。


【やり甲斐や心の高揚を感じる事は、どんな仕事に於いても大事ですね。】


そう。

どんな先生も、初めての懇談会というもはナーバスなものだと思うわ。私の場合も例外ではなかった。私は 22 歳で、生徒の保護者は自分より10 歳は歳上な訳。私にはまだ子供がなく、彼らは子供がいて人生の先輩。新任の私に対して保護者がどういう反応を示すのかドキドキしながらも、話すべき事やスケジュールを確認して、いよいよその時が来るの。そして、意外にも私の言葉を真剣に敬いを持って聞き入ってくれる。私は確固たる権限を持っている事を自覚させられる。それは、自分にとってとても驚きに満ちた体験だった。全員が私を敬って謙虚に耳を傾けてくれるのだから。同時に、私も保護者の言葉に耳を傾ける。生徒への相互理解を深める。

保護者に「うちの子は、あなたの事が大好きなんですよ。それに、自分が絶対に先生の 1 番のお氣に入りだと言っています」と言われた時、とても嬉しかったけど、同時に 1 人だけを依怙贔屓にしていると思われるのは困った事で、少し焦ったの。でも、どの親からも生徒が皆、「自分が先生のお氣に入りだ」と思っている事を知らされたの。私は、生徒との信頼関係を確認できて、とても嬉しかった。


【そういう風に、あなたは天職をスタートさせたのですね。】


そう。私は、教師という仕事がとても好きで、その後もずっと好きでい続けた。毎日があっという間にどんどん過ぎていった。


【あなたは、自分の仕事が楽しいという気持ちをたった 1 日でも失った事はなかったのですか?】


たくさんの人に、「先生って、大変でしょう」と散々言われてきたけれど、そう感じた事は全くないのよ。自分の権威も楽しんでいたし、生徒達が「次は何をするの?」と好奇心や探究心を示してくれる喜びを味わっていた。私は殆どの場合、3 年間同じ生徒達と過ごす為、子供達の事をとても親密に知る事ができた。私は大体が 10 - 13 歳の子供達の担当で、ティーンエイジャーとしてかなり子供達が変化する時期なの。

読み書きなどがもう既にできる段階の子供達が私の生徒なので、彼らの培った知識などをより向上させる事が私の仕事なの。より美しい字を書く事や、より適切な表現の仕方などを探求したりね。


【自分の経験から、学業や学校が楽しいかどうかは、先生にも大きく左右されると思うんです。】


それは、勿論でしょう。

私は、自分のクラスで、グループワークを重視していたの。グループで学んだ事をシェアしたりするのだけれど、全員がお互いを尊重し、相違を認め合うところから始めた。他の生徒よりも知能の発達が遅れている子なんかもいるけれど、私はお互いを尊重して好きにさせる事から始めた。社会的なスキルを培うの。

そして、必ず、私は的確なルールを設けた。”自分の弁護をする必要はない”、”お互いの観点や状況を相互理解し学び合う”、”お互いに正直な意見を言い合い、お互いを高め合うが、絶対に誰が正しくて誰が間違っているかを決めてはならない” ー なぜなら、皆が違った着想や概念を持っているのだし、同じ状況でも、受け取り方は人それぞれなのだから。


【あなたは生徒全員と平等に関わったのですね。性格や成績で評価する事なく。】


勿論。だから、生徒達は安心してクラスにいられた事でしょう。


【あなたの幼少期からの安定した自己が、子供達との関わりに於いて大きく影響していると思いますか?】


うーん。どうなのかしら。

どちらかというと、私たちは皆、成長過程で、そして人生を通して何らかのグループに属して生きていかねばならず、クラスやグループ活動に於いても、生徒達が安心感を持って過ごす事を重視していたと思うわ。自分が受け入れられていると感じられる事。私たちは全員が違う質を持っているとしても。

もしかしたら、それは ”プロフェッショナリズム” なのかもしれないけれど、どうやったらグループの中で、もしくはグループとして向上していけるのかを考えるのは自然な事だと思うの。そして、性質の違う子供達が同じ環境の中で共に学んでいく中で、何かを習得する為には、彼らがリラックスしているというのはとても大事な事だと思うの。子供達の中には、変化や刺激に不快感を持つ子もいるでしょう。でも、大事な事は、”皆が私に対して無条件の信頼感を抱けているとか” いう事に掛かってくる。

私は 1 週間の運び方を、けっこう入念に考えていた。例えば、月曜日は教室に入って来る 1 人 1 人の目を覗き込んで「おはよう」と微笑み掛ける。短いながらも、各生徒の心身の状態を確認できる。そしてまずは各自がやりたい事をして静かに過ごさせた。その事で、新たな週が始まり、月曜日に再び登校する事に対する安心感を持たせる。そして、色々な探求への土台が固まっている。それから彼らに、自分の時間を計画性を持って過ごせる様に具体的なスケジュールやアドバイスを与えた。そうする事で、私がかなりのコントロールを手に入れられるの。

私は、生徒達には自分達で責任を持って遂行しなければならないプロジェクトをたくさん与えた。それらを通して、彼らはみるみる成長していった。子供達はする事が増えたとしても、楽しんでいた。彼らにとって正しい学び方を与えれば、彼らは忙しくなったとしても、彼らの学びを楽しむのよ


【あなたは常に生徒側に立って、どういうアプローチが彼らの学びに対する自立心を掻き立てるのかを理解していたのですね。素晴らしい先生だった事でしょうね。】


私は、自分が優れた教師である事を知っていたわよ(ウインク / 笑)。


【プロフェッショナルとしての自信というのは、仕事の環境に於いて、大きな影響を及ぼします。】


私は、教師という自分の立場にも、真剣に取り組んだのよ。校長になった時、先生同士の勉強会も計画し始めた。教科ごとに、どの様にしたら指導方法をもっと向上させる事ができるのかを、先生方を集めて 1 年ごとに 1 教科ずつ詳細に研究する機会を作った。欲張って全教科をカバーしたとしても、”広く浅く”に陥るだけだから。


【生徒が学ぶ以上に、教師も学びを怠ってはいけませんね。あなたが校長になったのはいつですか?】


45 歳の時。私は教えるのが好きだったから、管理職には就きたくなかった。でも、前任の校長が私を指名した。最初は副校長として。でも、私に機会が与えられるなら、試してみようと決心したわ。チャレンジは好きだから。

チャレンジで言うなら、CISV (Children’s International Summer Villages) の話をしなければならないわね。


CISV について簡単に説明していただけますか?】


最初にCISVについて知ったのは、全く予期せぬ時だった。

CISV は、1950 頃に、ドリス・アレンによって創設されたの。

彼女はオハイオに住む心理学者で、彼女の息子が第 3 次世界大戦を懸念した事が全ての始まりだったと思う。彼女は息子の言葉をとても真剣に受けとめて、どうしたらそれを阻止できるか、どうやったらより良い世界を作れるのか。そして、戦争を起こさない為に、違った文化、宗教、背景を持つ世界中の子供達を一緒に過ごさせて友情を育ませる事が有効的だと考えた。そういう平和の為の組織を作ろうと

11 歳以上の子供達を対象にした。親元を離れて遠くまで旅に出るのに幼な過ぎず、また、家庭や社会からの様々な先入観や偏見もまだ強い影響を及ぼしておらず、オープン・マインドの年頃という事で。4 週間のキャンプに 参加し、新しい友人を作り、その友人達について深い知識と学びを得る過程を通して、自分自身と世界について新たな深い理解を得る。その結果として、絶対に友人のいる国に爆弾を落とす事など考えない世代が形成できる・・・と。

ドリス・アレンは、国連にも働き掛け、最終的にはユネスコの支援を受ける事ができた。彼女は最初のキャンプを 1951 年にスタートさせたの。ブラジル、メキシコ、スウェーデンの子供達から始まった。日本もだったかしら? 

それぞれのキャンプには、2 人の男子と 2 人の女子とチームリーダー 1 人の 5 人が 1 つの国から参加して、同じ地域に一緒に住むの。大概が学校だったりする。ゲームをしたり、参加者の国の伝統衣装や音楽などを紹介する時間があったり、とにかくたくさんの楽しい思い出を共に作るの。


【キャンプは4週間に及ぶんですよね。】


そう、約1ヶ月間よ。なかなか長い期間でしょう。その間、子供達は両親にも連絡をとってはいけない決まりなの。

私の娘をキャンプに送った時、彼女はとても楽しんで、家族を思い出す暇さえなかった。


【娘さんを送り出した時は、あなたはもう既にCISV に関わっていたのですか?】


実はね、私のクラスの 11 歳の生徒がある夏、親元を離れてオーストリアに 1 ヶ月も行くと言ってきたの。驚いて調べてみて、事情を呑み込めた。その当時はまだ自分の子供がいなかったけれど、子供ができた時の為に覚えておこうと思ったの。なぜなら、このキャンプへの参加は、12 歳になる迄に申請を終えていなければならないから。

だから、我が子が 11 歳の時(’87 )、ストックホルム支部に行ってみたの。そして、ついでに、私は教師であり、何か私にできる事はないかと尋ねた。いつも人手不足だった彼らはとても喜んでくれた。NPOなのだから。そして、その事が、娘を色々な国に送り出すのにも当然ながら役立ったという訳。


【支部の中心的立場になる迄に、それほど時間を要しなかったのですよね。】


教師をしながら、学校を終えた後の夜の時間帯に、そこで事務をする時間がどんどん増えていった。とても面白かったし、新たな友人も得て、私にとっては新しい物事の処理の仕方をたくさん習得できた。子供やその両親のインタビューを任される様になり、そのうちスウェーデングループの編成も私の仕事となった。私は、あっという間に氣が付けば中心的存在になっていた。

子供達が 13, 14, 15 歳になってくると、”インターチェンジ”の機会も持てる様になるけれど、これは、子供が他国のホームステイをし、その家族の子供が今度は自分の家でホームステイをするというシステムで、私はそれを任される様にもなっていった。このプログラムは、リーダーを含めて 5 人でその国に赴き、現地で 1 ヶ月間それぞれの家庭のお世話になり、その後は場所を逆転させるというものなの。まずはストックホルム地区で、そのステイ先などを調整し、そのうちスウェーデン全国の秘書とのやりとりも始まる。当時はインターネットがないから、夜中に手紙を書いたり電話をしたりで大変だった(笑)。

そのうち全国のインターチェンジを任される様になり、国際的な交渉などの出張が増えていった。まるで、私の上に荷物が降ってきたかの様に。そして、私は自分の立場をとても氣に入っていた。とても責任重大なハードワークだけど、そういう風に感じた事は全くなかったわ。


【あなたの好きなチャレンジだからですね。】


そう。私はチャレンジも、そこからの学びも楽しくて仕方がないの。新しい事をする事が


【新しいものを作りあげる事もでしょう?】


あなたがそういうのは、興味深いわね。

そういう事を、私の職場の同僚に指摘された事があった。彼の机はいつも綺麗に整理されていて、私の机といったらいつもたくさんのものが山積みになっていた。「どうしたらそんなに整頓できるの、素晴らしいわ」と言ったら、「僕は、わずかな仕事を片付けているだけで、あなたはどんどん新らしく大量の仕事を作り出しているからだよ」と返された(笑)。


数年の間、私はインターチェンジのリーダーを任されていた。資格のあるリーダーが足りていなかったから。キャンプ中の安全は当然ながら最重要項目で、子供達も親達も、団体やリーダーに全幅の信頼を寄せなければならない。


【どこの国へのキャンプのリーダーを勤めたのですか?】


最初の国はブラジルのサルヴァドールだった。サルヴァドールは、ポルトガル植民地時代の奴隷貿易の中心地だった。とても美しい海岸線なのよ。カポエイラや、アフリカ色の濃い文化、私達の国とは全然違うの。金持ちは大金持ちで、貧困層は限りなく貧困なの。日が暮れてきたら、外出は禁物だし。サルヴァドールでは、市民は自宅に閉じ込められた囚人の様な生活を余儀なくされていたわ。


【その最初のキャンプでもっとも印象深かった事は?】


私や子供達にとって、勿論その国自体も興味深いけれど、”自分自身について新たな学びを得る”というのは、掛け替えのない体験なの。特に、帰国した時に、新しい視点や価値観のレンズで自分の生まれ育った国を体験し始める。新たに得た自分独自の価値観に照らし合わせて、自国の文化や遺産、その国の在り方や機能の仕方など、新たに学び始める。


【自分の生まれ育った環境に感謝する気持ちも芽生えますね。】


その通りなの。子供達は私と一緒にブラジルで 1 ヶ月を過ごし、素敵な思い出をいっぱい作ったけれど、スウェーデンに戻って来て、改めてスウェーデンを体験する事で、安全に外出ができ、道端で遊べ、警備員や門扉や番犬も不要な自由を実感する。日常生活に於ける概念が根本的に違う。

それから、私はこのブラジルの旅で、人生で初めて”ホームシック”を味わった。とても辛かったのよ。初めての事で、自分自身がどうやってホームシックを扱ったらいいのか分からない程だった。でも、子供達もホームシックに掛かっていた。家族を離れて自国から遥か彼方にやって来て、当時は電話も掛けてはいけない決まりだし、リーダーである自分に全てが委ねられている。


【おそらく、リーダーであるあなたは、あなた自身の不安や心配や辛さを子供達には見せれない立場なのでしょうね。】

その通りなの。私は常に自分が満たされていて、全てが予定通りで、全てが上手くいっているという事を示さねばならない。子供達は私を常に信頼できねばならない。時には、自分の主人や子供達の事に想いを馳せる仕草も見せる訳だけど ー 用意した家族写真のアルバムを子供達に見せながら少し話をして、それを閉じて眠りに就いた。


【自分の家族は恋しいけれど、でも、子供達と 1 ヶ月も親密に過ごしたら、家族の様な親近感も芽生えるのでしょうね。】


そうね。そんな感じで、タイにも行ったわ。その時は、娘も一緒だった。ニュージーランドのクライスチャーチにも。素晴らしい土地での忘れられない思い出がたくさん。

タイでは、現地のリーダーとベッドをシェアしなければならなかった。私達が到着して、ホームステイ先を確認するでしょう。現地リーダーが彼女の両親と住んでいる家が私と何人かの子供達のステイ先で、彼女が私の泊まる部屋を教えてくれた。50 cm幅ぐらいの階段を上ってとても小さい部屋の中に、とても小さいベッドが 1 つだけあるの。私はその部屋が私に充てがわれたものだと思っていたら、彼女は「私のベッドを一緒に使ってもいいわね?」と訊いてきた(笑)。その時、一瞬で自分の心を定めなければならない! 「勿論よ」ってね。スウェーデンの概念では、あり得ないでしょう。その後、何と、彼女はレズビアンで、同じベッドを彼女のガールフレンドとも共有しなければならない事が判明して仰天したけれど(笑)。彼女は私の横に薄い枕を置いてくれたけど、全員が鉛筆みたいに真っ直ぐの姿勢で眠っていたの。


【日本もですが、西洋ではもっと対人距離は必要ですよね。】


とにかく、私は、”受け入れれば大丈夫になる”という事を学んだと思うわ。利己的な感情などをただちに捨てて、委ねるという事。


【適応する。】


そう、受け入れて、自分を適応させる。それは、けっこう簡単だという事が分かった。そうしたら、問題が消えてなくなるの。必要以上の無駄な心配や悶着を起こさないで・・・。


【結局、どのぐらいの期間、その小さなベッドを 3 人でベッドを共有していたんですか?】


1 ヶ月間(大爆笑)! 滞在期間中の 3 分の 1 の時間は、そのベッド過ごした!

笑い話ならまだあるわよ。タイのリーダーは薬剤師で、インターチェンジ期間中もずっと働いていたの。期間中は、リーダーは基本的に子供達の世話の為に仕事をしない事が求められるというのに、彼女は毎日仕事に行く為に、タイの子供達まで丸々私に任せ放しにしたの。私は未知の国で、スウェーデンとタイの 20 人の子供達を 1 人切りで面倒を見なくてはいけない状況だった。でも、タイの親達が気軽に親身に助けてくれて、車を運転してくれたりして蛇農場、ラン農園、王宮や寺院に行ったりなど、毎日やる事に事欠かなかった。


【だいたい 1 人で計画して遂行していたんですね。1ヶ月間。】


そうするより他はないもの!(笑) そのうち慣れた。子供達も、必ず誰かと小さなベッドを共有しなければならず、最初はとてもショッキングだった様よ。でも、タイでは、常に他人と何かを共有するのは当たり前なの。


【私も、インドの旅で、2 等列車で小さな座席ベッドを地元の人達が 他人同士にも拘わらず、6 人ぐらいで 2 晩シェアしていたのを見て驚きました。個人が最小限必要な空間の概念は、国によって本当に大きく異なりますよね。】


私にとっては、海外での時間はそういう新鮮な驚きと発見で満ちていた。私は、そういう新しい体験がいつも楽しみだった。

教師、校長としても、私は常に先生方に新しい経験を得る為にリーダーを体験してみないかと勧めたりもしたけれど、興味のある人はいないどころか、私には勇気があって自分に重荷を課せるモノ好きの様に思われていた。自分ではそういう風に思った事はこれっぽっちもないのだけれど。


【今迄で最も大変なチャレンジは?】


(かなり長い時間考えて)私はとてもラッキーなのかもしれない。何が起こってもおかしくない様な状況がたくさんあった筈なのに、多分私はいつも計画を練ったり、上手く順応させたりしてきたのかもしれない。

私はいつも、かなり厳格なルールを設けてきた。職場や家庭で。CISVの子供達に対しても、キャンプに出る前は通常の倍のミーティングをして、相互理解を深め、ルールの確認を怠らなかった。ティーンエージャーを連れて行く時は、「飲酒、喫煙、性交渉の厳禁」を言い渡し、その事が現地でのハプニングをかなり防いだ。全員が理解して守るべきルールというのは、私達が思っている以上にとても大事だと思うわ。


【あなたはあなたのマインド・セットに長けていて、多分、子供達に適切なマインド・セットを与える事にも長けているのでしょうね。】


そうかもしれない。自分の目標や意志を明確に持っていて、安心感を失わなければ成就できる事が多い。リーダーとしては、私は安心感を常に感じでいて、あなた達も同じ様な安心感を抱いて大丈夫という事を感じさせる。

生徒達には常に、「私はあなた達を信頼している。私はあなた達の事が好きなの。私はいつでもどんな事でもあなた達を助けてあげる。ただし、私には正直に真実を話す事」とね。


【あなたの教師、リーダーとしてのプロフェッショナリズムを、どの様に家庭に適用させていますか?】


そうね。家族にも、ある程度の変わらないアプローチをしているとは思うけれど、家族に対しては、もっと感情的になるのを抑える事は難しい。プロフェッショナルな現場でプロフェッションを保つのは簡単だけれど、我が子に対しては、私のエゴも捨て切れない。

私が子供に対して苛立つ事があるとすれば、「彼らはもっとマシな行動を取れる筈なのに、もっとマシな考え方ができる筈なのに」と思うからね。多分私は、母親としてよりも、プロフェッショナルとしての方が成功しているのかもしれないわね(笑)。少なくとも、教師として「私だけがリーダーよ」と立場を明確にできる方が、楽だわね(笑)。


【今迄の人生で、何かを変える事が可能だとしたら、どうしたいですか?】


(少し考えてから)そうね。娘がティーンエージャーの時、私はとても悩んだ。

その理由は、彼女が”自分のベストを尽くし切れていない”とずっと感じていたから。”私が信じている彼女の能力”を伸ばし切れる程には勉強をしてくれなかったし、外見や社交を重要視する様になっていた。

説明するのは複雑で難しいけれど、私は娘がどういう訳なのか不安感を持っていて、”私が彼女に望む様な”自信を持っていない事に氣付いていた。その不安や自信の欠如を補って乗り越える為に、私は、娘にもう少し勉強して欲しいと思っていた。彼女は本来とても賢い筈だし、学校に通う時に、どの教科に関しても不安を感じなかったら、その氣持ちが学校での体験をもっと素晴らしいものにしてくれる事を私はよく知っていたから。その氣持ちが自信を齎してくれるでしょう。

主人の方は、私が娘を追い込んでいると感じていた。でも、私は母として、我が子の可能性を”知って”いた。彼女が将来のチャンスを失うと感じていた。その事が、私に焦燥感をいつも齎していた。


【お嬢さんと自分の人生を上手く乖離できなかったと感じているのでしょうか?】


ある意味、そうね。とてもパーソナルに受けとめてしまっていた。なぜなら、私は学校では生徒の可能性を最大限に伸ばして引き出せる能力があると自信を持っていたのに、我が子に関しては、生徒達に見出せる程の”学習に関する高い向上や成果”を確認できないと感じていたから。私は彼女との間に価値観の食い違いや、不十分な相互理解を感じていた。


【お嬢さんがあなたのプロフェッションに対して強く意識していた事も要因なのでしょうか?】


おそらく、それもあるのかもしれない。


【その事について話し合った事はありますか? 食い違いや不分な理解を感じた時に、その事について本音で話し合うのは大切だと思います。今でも遅くないかもしれませんよ。】


彼女が学生の時にそれができなかったという点で遅過ぎたけれど、今でも遅過ぎるという事はないわね。彼女にも子供がいるから、それをするいい機会かもしれない。

とにかく、彼女は自分の人生を歩み、仕事も得てきた。でも、やはり、学歴を考えると彼女の人生をもっと充実させて更なる高みを体験させてあげる事ができた気がするの。


【そうかもしれないですね。でも、そうでないかもしれない。今の彼女があるのは、彼女の歩んできた道のりがあっての事でしょう。】


勿論よ。彼女はとても自立していて、明朗快活で素敵な女性なのよ。

でも、私と彼女の間だけでなく、私と主人の間の問題でもあったから、心に深く残っているの。もしも両親が同じ子育てや教育方針を持っていたら、うんと楽だし、子供にも安心感を与えてあげられるから。

けれども、そうでない事で、多様性や幅広い価値観を子供に教える事もできたのかしら。


【そうですね、両親の”問題の解決の仕方を”間近で体験する事で得る学びも大事ですね。】


それはとても大切な事ね。振り返ってみたら、全ての事が 全体としての大きな教訓や学びとして、後で理解できるものなのね。でも、繰り返しになるけれど、本当に大変な時期だった。


【もしかしたら、より深い相互理解に至る為の必須項目として、親子の間には何らかの問題解決の作業というのは必然なのかもしれませんね。どう思いますか?】


そうなのかもしれないわね。

今振り返ると、私がとても辛く感じたのは、互いの意見や価値観の違いや、口論以上に、例えば我が子が家を飛び出して行った後に、「あんな事を言わない方が良かったのかも」、「別の言い方があったのではないのか」、「どこで何を間違ってきたのか」などとあれこれ自問自答する時間ね。焦点が子供の事だけではなく、自分の在り方に向けられた時・・・。


【その延長線上で伺いたいのは、<あなたの魂を磨く為の必然として、どうしても乗り越えねばならなかった出来事>というのはありますか?】


うーん。(かなり長い間考えて)質問の意図が、多分よく呑み込めていないと思うわ。別の言い方で訊いて貰ってもいいかしら?


【勿論です。どんな人であっても、人生には必ず”これ以上先には進めない”とか、”解決できない”と思う様な大変な経験が大なり小なりあるでしょう。でも、”全くどうにもならない事”というのは、私の意見ではない筈なんです。その時に、その出来事の捉え方というのはその人次第になってきますよね。挫折や失敗や恐怖心などは一般的には”不幸な事”だと意味付けされる事ですが、それらを経験する事によって、それをデータや知識として活かせるチャンスも同時に与えられていると思うのです。例えば、それらの困難による絶望感や自暴自棄の中でもがきながらも、後々になって、あの体験のお陰で自分は大きく成長できたという事があるでしょう。私がこういう質問を意図的にしているのは、私のヒプノセラピストの立場から、何がその人に”人並み外れた”人生体験を齎しているのか知りたいからなのです。

でも、もしかしたらあなたは根っからの楽天家で、こういう出来事に”困難”という名前を付けないのでしょうか?】


とんでもない。側から見たら、私はとても楽天的に見えるらしいけれど、勿論、悲観的にだってなるわよ。でも、私の中の楽観的な部分と悲観的な部分が、バランス良く共存しているのかもしれないわね。それに、どんな問題にでも解決法というのが絶対あるのを知っている

校長として言うと、扱いが困難な問題がたくさん起きる。50 人の職員が自分の元でそれぞれの問題を抱えて働き、私が全てを統率していかねばならない。できる限り1 人 1 人と共感性を保って関わり、耳を傾け、広い視野で物事を見て理解する力量が求められる。そして、私が彼らの問題を継続させたり解消したりする権限だって持っている。その決断をし、相手に納得できる形でそれに対する根拠も提示しなければならない。そういう過程では、当然ながら職員が私に反対し、不信感を抱くのを感じない訳にはいかない。時には 50 対 1 の窮地に立たされる事もある。頂点はとても風当たりが強い。その状況では、私は絶対的に自分自身を信用するしかないのよ。そして、自分自身に対して、”真実”の謙虚な自分でいるしかできない。その自分の”真実”を保ってコミュニケートしていかねばならない。相手の信頼を得る為に。それは、時には長い時間を要する事もある。校長という管理職に於いて、私はとても大きな学びという財産を得た

付け加えると、教師の資質は様々なの。とても情熱的で、子供の資質を上手に伸ばせる才能をもった優秀な教師もいれば、自分に自信がなく経験不足で性格的な問題のある教師だっている。けれども、生徒は教師を選べない。どんな教師に教わるとしても、子供達には等しく素晴らしい学校生活を与えるべきでしょう。だから、私は、各教室で行われている事、起こっている事をしっかりと把握する事を重視した。校長としては、それが生徒や保護者に対する私の責任だと感じていた

社会的にも、「あの学校はいい」とか、「あの学校は教育水準がとても高い」、とか「あの学校の生徒はとても素行が良くしっかりしている」などという評価はつきものなの。学校に対する噂話には、それなりの根拠がある。

私は職員達に、プロフェッショナルとしての自意識と指導の向上を求める代わりにその開拓の方法には自由を与えた。同時に私は率先して政府に掛け合って、多くの補助金を得る事に成功していた。その補助金を、職員に学びのチャンスを与える数々のプログラムの為に充てていったの。職員達は、私の学校に在籍中は分からなかったけれど、他校に移ってから、私の学校の教育水準がとても高い事に氣付いて驚いたと言ってくれたの。在籍中は私に対して批判的だった教師達でさえ。

本当に疲労困憊していた日々もあった。働き過ぎてストレスの為に不眠に陥った事も。でも、私はやっぱりチャレンジをある意味楽しみ、自分の人生も楽しんできたんだと思うわ。

あなたが<魂を磨く為に>と形容した困難はたくさんたくさんあったけれど、多分私は楽しんでチャレンジし続けて乗り越える事の継続で、困難を困難だとは感じない様になってきたのかしら


【もしもあなた自身でこの人生設定をして選んで生まれてきたとしたら、その理由は何だと思いますか?】


色んな意味で”生物学的”な理由がある。それは、私が生まれた事も、子供達を産んだ事も含めて。それらの事の上に立って、自分自身の人生を、自分の”真実”になるべく近いところで生きなければならない。その生き方が、自分や家族に、友人、自分と関わり合いのある人々にとって少しでも意味のあるものである事を願いたい。そんなに大きな事を望まなくても、例えば自分の存在によって皆の人生や世界がほんの少しであったとしてもより良くなる様に

できる事。

当然、何か人類の未来に大きく貢献する偉大なものを発見したり発明したりする人々を羨ましくも思ったりもする。そういう事が、自分自身に大きな活力を与えると思うもの。人の為、世界の役に立つ大きな貢献をしたら、とても幸せだと思うもの。

でも、私のレベルでいうと、私は教師という自分の役割を誇り、その立場に感謝する事ができる。教師という立場でたくさんの人々と出会い、その人生と関わる事ができた。子供達の成長の姿を通して大きな喜びを何度も何度も噛み締めた

そして、もしも街中で昔の生徒に出会ったら、彼らは背中を向けて立ち去ったりはしないで、楽しそうに昔私達が共有した思い出を振り返ってくれる。生徒達を自宅に招いて聖ルシア祭なんかのお祝いをした時の事などをね。私はオープンに自分の家族を紹介し、生徒達を家族の一部として扱ったし、色々な事をそれぞれ生徒達とオープンに語り合ってきた。私のオープンな態度が、彼らに心をオープンに人と接する喜びを教える事にも役立ってきた。そして、彼らの多くが教師という職業に少なからず私の影響で就いているという事を耳にして、とても嬉しく感じている。


数年前に、私がリーダーで行ったCISVのキャンプの時のグループで集まろうという事になった。タイ人の女の子も今では成長して結婚し、その 1 人は現在住んでいるタスマニアから参加してくれた。その席で、男の子 ー 勿論今では立派な成人なんだけれど ー が突然予定にないスピーチをして、「あなたのお陰で私達は全員、掛け替えのない素晴らしい体験を共有でき、あなたのお陰でオープンに自信を持って人生を楽しむ力を得る事ができた」と感謝の気持ちを述べられた。


【特別で感動的だったでしょうね。】


とても特別で、とても温かな気持ちになった。


【そして、あなたには世界中に”彼”らがいるのですね。】


(笑)本当ね。


【ところで、あなたが情熱を傾けていた<ストーリー・ライン>について、何か付け加える事はありますか?】


そうね。私は”国境を越えた教師団 ( Teachers Across Borders ) ”にも属していたの。

数年前に、カンボジアの会議に招かれた。そこで同職者を対象に講演を依頼されたのだけれど、内容は私に委ねられていたから、<ストーリー・ライン>について話をした。

<ストーリー・ライン>はイギリスのグラスゴーで、1960 年代に始まった。”活動的学習”が理念なの。

カンボジアは、教育システムが整っていなくて水準が低く、教育の改革を推進中だった。親がいなかったり孤児だったりする生徒が多く、教育の前に家庭環境に恵まれない子供達がとても多い。多くの組織が現地でボランティアとして援助をしていたの。

私はアメリカのグループと会議の 1 週間前から現地の学校などを巡って状況を確認していて、私の持っているどんな知識が役に立つのかを考える時間があった。現地の教育方針は、先生の言う通りを生徒達がおうむ返しに繰り返すだけで、自分で考える力は軽視されていた。

<ストーリー・ライン>はそれとは掛け離れていて、教育現場で、如何なる科目に於いても、生徒達がグループの中で自分の声を持ち、自分で考えて問題を解決していく方法なの。社会科だったら、史実だけを学んでも記憶に定着しないけれど、こういう事件が起こって、こういう立場の人がその問題を解決するのに置かれた環境下でどういう考え方をしたのか、なぜそうなったのか、その出来事によって更にどの様な事に発展していくのかを自分の立場で、時には役割分担をして吟味する事によって、その史実が自分の一部となるの

社会が多くのグループで構成されていて、そのグループの中で様々な問題を解決しながら最善の選択を求める様に、クラスに於いてグループの中で自分の問題解決の方法を考え、お互いに意見を交換し合いながら学ぶべき事を頭と体で理解を深めていくので、そのプロセス自体が自立を促す教育なの。

現地でただちに実践する必要はないけれど、その方法を少しずつ取り入れていく選択肢もできる様になるかもしれないでしょう。理論があれば、実践も可能になるのだから。だから、現地の先生方に<ストーリー・ライン>の授業を体験して貰った。

私にとっては、この旅の全てがチャレンジに満ちていて、とても興味深かった。私はチャンスが目の前に現れたので、飛び付いてしまった訳。その結果、自分自身にとってもたくさんの氣付きや学びを得る事ができた。


【あなたは幼少期からの持ち前の好奇心と、向上心を常に持って、新しい未知を開拓していますね。素晴らしいと思います。あなたは、自分の知識を他者に役立てる事で幸せを感じるのでしょうね。】


まあ、ありがとう。私は理想主義者なのかもしれないけれど、同時にとても利己主義者だとも思うわ。私は自分の人生にたくさんの事を欲しているだけねのかもしれない。でも理想とエゴのバランスは必要だと思うわ。

もっと知識を得られるなら、もっと他の国を体験できるなら、もっと自分が楽しめるなら、多分私は他人に何かを与える為ではなくて、自分の為に機会を求めていると思うの。


【私があなたを見ていていつも思うのは、あなたは本当に素晴らしい教育者だという事です。教育は、就学期間中だけに限った事ではないでしょう。学校の科目を勉強する事以上に、一生涯、私たちは何かを学び続けていかねばなりません。だから、学校でいい成績をとる為以上に、学ぶ事に対する楽しみや情熱を持つ事の大切さを教えられる方がよっぽど役に立つと思うのです。だから、あなたが貪欲に知識や経験を求め、学ぶ事と同時に教える事に喜びを感じている姿を示す事は、子供達にとってどれだけ素敵な事なんだろうと想像してしまいます。あなたの持っている情熱は素晴らしいギフトだなあと。】


そうね。<情熱的でいる>というのは、私自身について最適な表現の様な感じがするわ。そして、それは本当に素晴らしい感覚なの(笑)! あなたの様な私に対する表現を聞いた事がないけれど、あなたの言葉は”正確だ”と感じるわ。


【教育現場の真っ只中にありながら、教師として”人生の楽しみ方”を身を以て教えられる教師は、とても少ないと思うのです。少なくとも、私の人生にはそう多くは登場しませんでした。とにかく、あなたの情熱は、あなたが関わった生徒達に人生を楽しむ為の情熱のエネルギーとビジョンをふんだんに与えたんだと思うのです。】


私が副校長をしていた時、校長に言われた事があってね、「あなたが先生方のコーチとして先導していく為に覚えておかねばならない事があるよ。君には明確で大きなビジョンがあるけど、彼らにはそれが欠けているっていう事を」ってね。

わたしは自分の感情を隠せない。ポーカーフェイスができないから、周りの人達が私の氣持ちを読み解くのがとても簡単でね、私が心を踊らせている時は特にそうな訳。その事が、私をより良い状況に導いてくれた氣がするの。ワクワクしているだけで、どういう訳かとても興味深い人々に出会い続けるのよ(笑)。


【全くあなたらしいとしか言い様がありません(笑)。あなたがいつもワクワクと楽しそうで、とてもオープンだから、あなたの中に入っていくしかないでしょう。あなたを好きでいて、信頼する事ほど容易い事はないぐらいです。】


まあ、嬉しい。お互い様ね。

情熱的な氣持ちをいつも抱いていたいけれど、悲しい事に、常に情熱的でいさせてくれる事ばかりじゃないのよね(笑)。


【人間ですからね〜。ところで、教師以外にあなたに適切な職業があるとしたら何でしょう? 教師はあなたの運命だったと思いますか?】


私は論理的で科学的な視点に立つ教育を受けたから、運命というのは信じていないけれど、私は自分をとても幸運な人間だと思っているわ。目の前に次々に現れる踏石に足を乗せ続けてきただけだから。紛れもなく絶好のチャンスとしか言い様のない事が本当にたくさんあったから。


【直観力に優れていた、という言い方はできるのでしょうか?】


そうね。もっと本能的なものかしら。一瞬の衝動に駆られる様な具合で。そして、適切な判断力があるのかもしれない。なぜそう言うのかというと、振り返ってみて、自分自身にとってのそれほどの悪い石には足を掛けなかったと思うから。それは幸運な事ではあるけれど、同時に、自分の状況を適切に正当化する能力も持ち得ていたからだとも思うのよ。

私はいつも色々と体験したがって、オープン・マインドでいながら、若い頃からヒッチハイクなどで世界中を旅して回ってきた為に、自分の周りの環境を認識し、何かが起こった時などに自分にとって有益か無益か、安全か危険かを瞬時に識別する能力を培ってきたのだと思うの


【ストリート・スマート(street-smart / 体験によって得た生きる術)ですね。】


そう。旅に出ていると、予定外の事が常に起こり続ける。予期せぬハプニングや、新しい人との意外な出会い遭遇など。最も旅によって培ったものは、人を見る目かしら。それに、私は教師になる以前に、病院や地下鉄でチケット販売などの別の仕事も数々経験した。色々な職種の多くの人々との交流が常にあった。色々な人々のマインドを読み取る能力は自然と身に付いていったと思うわ。そして、常に安全を確認する事。これは、父の影響だと思う。

色々な条件が重複して、私は常に広域の視野を持てていた

例えば、その視野のお陰で、私は上司と常にいい関係を保っていた。同僚が上司に対して文句や陰口を呟く様な時も、自分が上司になった時も、私は変わらずその視野で肯定的に自分と状況の関わり方を保ち続けていれた。そして、何かの変化が必要だと感じれば、それは私自身が変革を齎すのだと決めていた

でも、独りよがりに陥らない様に、私は余暇には常にイギリスの教育現場についてや、大きな変革を齎した人物についてなどの本を読む事で勉強を怠らなかったし、CIVS や<ストーリー・ライン>などを通して世界中で知り合った数多い人脈を活用して意見を交換したりお互いに学び合う事も怠らなかった

その交換の中で、この世界で今求められている事についてとても深く考慮させれててきた。なぜ、人類はこれほど迄に多種多様な問題といつ迄も向き合わされているのか、他の解決の為のプロセスはないのか、学校の学習環境をどうしたらより良い場所にできるのかなど。当然ながら、国によってその学習環境は違う。だから、私は積極的に世界各地の会議に出席したり、学校見学をして回った。


【自分の目で確認するのですね。】


そう。例えば、デンマークやフィンランドやイギリスなどの近隣諸国でさえ、社会の構造が違い、教育方針もその国の概念に基づいている事も同時に理解しなければならない。だから、フィンランドの教育が優れているからといって、ただちにそれを丸々輸入する訳にはいかない。

学びの事で言うと、副校長時代に、ストクホルムが教育者のレベルを向上させる為の予算を組んで、博士号取得を希望する教師に大学院の授業料を免除する通達を出したの。ところが、驚く事に教職員の中に希望者がいなくて、私が喜んでその機会にあやかり、更なる学びを得る事ができた。この機会にはとても感謝している。私は教育現場で十分な実績を得てきたけれど、再びアカデミックな環境で教育理論などについて学び直す機会ができて、実体験と知識の上に、更なるコミュニケーションの為の道具を手に入れた。そして、更なる権威も手に入れる事で、教職界で生きていく安心感と自信を固める事に繋がった。自分の足場が頑丈だという事は、誰の目にも明らかに映るものなの。自分の考えや意見には確固たる根拠がある事を示すのは重要な事でしょう。

そして、そういう学びのチャンスの為にエネルギーを消耗するのではなく、私はいつもエネルギーを得てきたのよ


【何かをしながらエネルギーを補強するのですね。】


そう。そして、私は子供達にもいつも言ってきたのだけれど、人生で何をするかは問題ではないという事。どんな仕事に就いていたとしても、自分がその仕事に対して自分のベストを尽くすという事が大事なんだよ、と。ベストを尽くして、精一杯をやり遂げたという気持ちが、私達を満足させる

もしも、自分の持っている力の半分しか出さなかったら、出せなかったら、後悔にしかならない。不平不満を言いながらやって、ベストを尽くせる事は絶対にあり得ないの


【半端な氣持ちは誤魔化せませんね。】


どんな仕事でも、誤魔化せない。誰をも騙せない。自分に関しては絶対的に騙せない。もしも中途半端な氣持ちでしか仕事と関われないのであれば、とっとと辞めてしまった方が身の為だと思う。人生を無駄にするのは、自分にとってとても申し訳ない事だと思うの。

若いうちは、「この仕事は私には適していない」と思う事もあるでしょうが、どんな事をしていても、継続していれば必ず学びは得られる事を知って、楽しんで仕事と関わっていかないと損だと思うわ


【あなただからこそこの世に貢献できる事は何でしょう?】


(少し考えて)私が自分自身について氣に入っている事は、あなたが指摘してくれた様に、情熱を常に持っている事。そして、私は多くの生徒の人生や教師にインスピレーションを与えられてきた事。

中でも最も誇れる事は、全ての生徒達に平等の価値を見出して、それを示してあげれた事。<彼らが誰であるか>という事に重きを置いて、あるがままを受け入れ、全員に平等な安心感を与えてあげられた事かしら

それから、小さいけれど確実な原動力の一部となって教育現場やたくさんの人々の人生の重要な歯車となれた事

付け加えると、色々な経験を経て、物事を整理したり準備したりする高い能力を手に入れた事。アイディアから計画を立てて練り、何かを編成していく。自分の決断力を頼りながら。

家庭に関しては、ちょっと緩いけれど(笑)! でも、教師や生徒達に、充実した時間の使い方を教える事はできた。限られた時間、限られた人生を、どうしたら最大限に活用できるのかは、日常に於ける何でもない様な事の積み重ねで大きく左右されるでしょう


【あなたの立場から、何か次世代に向けてのアドバイスやメッセージはありますか?】


繰り返しになるけれど、あなたの時間がどれだけの価値を持っているのか理解して、その時間を最大限に有効活用して欲しい、という事でしょうね。あなたが何をするのも自由だし、どういう風にそれをするのも自由だけれど、多くの事は思っている以上に時間を要する。

小さい頃から時間の有効活用を少しずつ身に付ける事で、あなたはその能力を自然と向上させながら人生をより充実させる事ができる。あなたのするべき事は、A 地点から C 地点に行くのか、A 地点から N 地点に行くのかを決め、有効活用する為に整理した時間に乗って楽しむ事。

そして、”ヘリコプターの視点”を持つ事。身の回りの些細な事にばかり目を向けず、自分のいる地点や状況を俯瞰できる事。そうすると、物事が起こっても他人の介入があっても慌てなくてもいいわ。それは、あなたにストレスからあなたを解き放つ余裕という自由を与える

ストックホルムの教育員会で働いていた時は、身に染みて感じた。自分の理想ばかりではない仕事を請け負わされたち、自分より能力のある職員が自分のしたい仕事を受け持ったり、予算が全く予想外の方向に流れていったり、市の校長達との意思疎通に悩んだり、政治家が教育現場に対して向ける関心・無関心など、自分の思い通りにならない事ばかりが常に起こっている。その時、「ああ、これ以上自分ができる事はない」と受け入れる事で心も軽く、その中で自分のできる最大を尽くすの。


【他に付け足したい事はありますか?】


あなたの心の欲する事をして欲しい。あなたが幸せを感じる事をして欲しい。それは決して難しい事ではないという事を知って欲しい。自分達が純粋に幸福感を味わえる事を選び取る自由が初めから与えられているという事を知って欲しい。


それに氣付ける人はそう多くはありません。あなたならどうする事を勧めますか?】


誰もが幸せになる選択肢を持っている。でも、それに氣付く為には、あなたの幸せを他人に任せず、自分自身でマイナス思考や悪いエネルギーを捨て、状況をしっかり把握して計画性を持ち、時には軌道修正しながら様々な体験を積み、楽しみを見付けていかなければならない。あなた自身が自分の幸せに責任を持てば、あなたを幸せにするビジョンを持ち、あなたはそうなるしかなくなる。そして、その幸せを、他人にも分けてあげられる


【今、あなたは退職して、エーランドで過ごす時間も増えましたが、これからの予定は?】


正直なところ、ちょっと道に迷っている最中なの。

本当は、一生涯ずっと働いていたいのだけれど、法律で 67 歳以上は働けない事になっている。私は自分の仕事を愛していたし、ストックホルムや、スウェーデンの教育現場でもっともっとやっていきたい事があったから。

でも、私が退職しなければならない年に、娘が 2 番目の子供を出産して育児にも手が掛かるようになってきて、その状況が仕事への情熱や執着から私を解き放つ手助けにはなったと思うわ。

だから、育児を手伝いながら(ストックホルムでは、マイトとお嬢さん一家は、道を隔てて目と鼻の先に住んでいる)、自分の新しい道を見付けねばならなくなった。それはちょっとストレスだった。なぜなら、はっきりした道筋が目の前に見えなかったから。

けれども、じっと座って何かが起こるのを待っているのは好きではないの。何かをしながら、自分で扉を開けていくのが私なの。そこで、私は娘に「私はあなたの子育ての手助けをしていくけれど、私の余生をあなたに捧げる事もできないわ」って伝えた。そして、私はもっと多くの時間をエーランドで過ごす様になった。その事で以前よりもストレスが減り、心に余裕が出てきたところなの。

だから、私に新しいエネルギーを与えてくれる事をこれから見付けていくわね。

健康を保ち、旅を続けたりするもの勿論だけれど、私は何か自分の人生にとって意味のある事と関わっていたい。そうでなかったら、とても空虚で退屈


【あなたが何を見付けていくのか、楽しみにしています! またシェアをしてくださいね。今日は私と話をしてくれてありがとうございました。】


こちらこそ、話を聞いてくれてありがとう! ずっと話し続けてしまったわ! 自分自身についてこんなにも語った事がないから、とても新鮮だった。

インタビューを受けてみて、今感じている事は、あなたがインタビューのタイトルに付けた < Extraordinary Ordinary People / 人並み外れた普通の人々> というのがとても的を得ているという事なの。

私自身、それほど特別な人間ではないし、華々しい業績がある訳ではないけれど、それでも私も確かに他の人に役立つかもしれない知識を得てきて、確かに何かを成し遂げてきたんだという実感を噛みしめられる。とんでもない偉業を成し遂げるだけが人を”人並み外れた人”にするのではないのだと思った。私の様な普通の何でもない様な人が、ほんのちょっと世間に役に立つ何かをする事で、そしてそういう人達がたくさん集まる事で世界はうんと良くなっていける。

そして、もしも全員の意識が高まって、全員が”ほんのちょっとの何かしらの役立ち”をする事ができたら、この世界は本当に素晴らしい場所になるに違いない・・・と思ったわ。















写真 1 )エーランド島のロングレェット村にある、マイトのサマーハウスにて。(2018-7-15)

写真 2 )マイトと私。(2018-7-15 / H. Frode 撮影)

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