高校時代の恩師、T先生ご夫妻の阪神・淡路大震災
NY から大阪に帰省すると、ほぼ毎年のようにお顔を拝見しに行く場所がある。
私の高校時代の恩師、T 先生のご自宅だ。
千里高校で 2 年生の時の担任だった。高校 の3 年間、英語を教わった。
T 先生のご自宅は、兵庫県神戸市東灘区にある。
大阪府吹田市にある私の実家からは、J R東海道本線で 40 分も掛からない。直線距離だと、30 数 km ぐらいだろうか。
昨年も娘と一緒に遊びに出掛け、いつもと変わらぬ大歓待を受けた。奥さまの心尽くしのお料理が食卓に並べられ、舌鼓を打って大笑いしながらお話をしていると、必ず時間を忘れて夜遅く迄、ついつい長居してしまう。慌ててお暇するのが常となってしまった。
---
T 先生は飄々とした話口調が魅力的で、何かを否定的におっしゃる言葉を耳にした記憶が 1 度もない。
私は過去のブログ (こちら) にも書いてきたが、英語ほど嫌いな教科はなく、恥ずかしながら全く勉強しなかった為、高校 3 年間の英語の成績がずっと ”2” だったほどだ。何の根拠もないのに、「 私が海外に行く事は絶対にないし、英語が必要になる事はあり得ない 」と割り切り、初めから完全に見切っていた。
加えて、私は T 先生が担任だった高校 2 年生の頃から勉強に対する意義が見出せず、不登校の日々が増えていったが、T 先生はなぜだか一切の口を挟まず、いつも自然体で接してくださった。
いつも、在りのままを認めていただいているという安心感が、どこかにあった。
私の不登校や、私の英語嫌いと先生が担任で英語専科だった事には、一切の関連性はない。
高校 2 年のその年、大阪府読書感想文コンクールで優秀賞を受賞する奇利が起こった時、学業を怠るデタラメな生徒だった私に、「君は素晴らしい人だよ」と声を掛けてくださった。
私は、その先生の一言にどれだけ慰められ、勇氣付けられた事かと思うのだ。
その一言に支えられて、私は何とかやってこれたと言っても過言ではないからだ。
その後の人生の道のりのところどころで、先生が私に与えてくださった、おそらく何氣ないであろうその一言が、何度も何度も蘇っては、私を鼓舞し続けてくれた。自分を信じる事ができた。
だから高校時代から、感謝の氣持ちを目一杯込めながら T 先生への年賀状を、毎年欠かさず出した。
拙いながらも、自己表現を模索しながら文章を書き続けてきた。
そうして、先生のご自宅に遊びに行かせて貰い、先生のお顔を拝見しながら、30年前に先生からいただいた自己存在の肯定感の灯火を、毎回、心の中で確認しているのだと思う。
ーーー
2007 年 2 月、2 歳の誕生日を間近に控えた娘を連れて、初めて先生のお宅を訪ねた。
12 年も過ぎたというのに、1995 年 1 月17日に発生した阪神・淡路大震災 ( こちら ) の爪痕は至る所に見受けられ、2007 年当時もまだ、更地が目立っていた。
ご自宅前の道路に立って、「この辺は全部、潰れてしまってね。うちも潰れたから、建て替えたんだよ」という説明に耳を傾けながら、ゾクゾクした背中の感覚がまだ記憶に新しい。
整然と片付けられた趣味の良い日本家屋調の空間に、奥さまが彫刻を施された美しい木工家具が目を惹く。中庭に射し込む太陽光も柔らかだった。
九州男児らしく実直でにこやかな T 先生と、地元出身の関西人らしい剽軽で笑い上戸の奥さま。その夫婦漫才(?)の何とも素敵な様子に、こちらも心を開いてつい何でもぺらぺらと話してしまう。
でも、どこかしら背筋が伸びる。
私はその和やかな寛ぎの空間に在りながら、1995 年の年明け、その土地で起きた阿鼻叫喚の非日常的な出来事を頭の中で想像してしまう。そして、自分の想像力の乏しさに腹立たしさを感じ、呆れてばかりいた。
それは、先生もさることながら、明朗快活な奥さまのお人柄に因るところも大きい。
奥さまあっての T 先生の人生だな・・・といつも心の中で思うが、奥さまは大変朗らかで、何でもかんでも笑い飛ばしてしまう豪快さと、親身に人を慮る繊細な女性らしさを併せ持つ方で、私の目には、そのお姿がいつも ” 福の神 ” に見えてしまう。
震災の思い出さえも、奥さまの舌に掛かると、” 何だか面白い体験談 ” へと変身? してしまう様な楽観さえ感じる。
いや、もしかしたらご本人にとっては、本当に ” 人生を彩るエキサイティングな体験談 ” に過ぎないのかな・・・と錯覚してしまう程である。
最初に T 先生宅を訪れた時から何年も経って、次第に、このご夫婦が乗り越えられた尋常ならざる人生体験を、私の一部として消化したいと切望するに至った。
ーーー
1995 年 1 月 17 日 、5 時 46 分。
T 先生ご夫婦は、一戸建て日本家屋 の自宅、1 階の和室で眠っていた。
すると、マグニチュード 7.3 の凄まじい揺れとともに、ミシミシッ・・・バキバキバキッという轟音が炸裂したかと思った瞬間に、いきなり家が上から降ってきた。
「地震で家が潰れたー!」と、瞬時に理解した。
パッと目を開けたら、体の上わずか 50 cm の所に天井があり、真っ暗な空が、視界の半分に見えていた。「空、見えてるやん、あらあ・・・みたいな」、と奥さまが笑う。
和室の障子やガラス戸、雨戸は全部閉まっていたが、まるで ”モーゼの十戒 ” みたいに、雨戸もガラス戸も障子も、屋内に向かってばっと倒れていたから、すっと逃げられた。
ガラスがバリバリに割れていた隣の客間とはまるで違って、その部屋のガラスは全く割れなかった。後で思えば、不思議な事だった。
T 先生に「 出るよ〜!」と一言、這いつくばる様にして奥さまはさっさと外へ出た。パジャマに裸足。まだ 1 月の寒空である。「 お前、逃げ足早かったな 」と先生に言われたと、また奥さまが笑う。
放し飼いにしていた犬は、氣が狂った様に走り回り続けていた。
娘達の部屋のある 2 階は、1 階部分が潰れてその上にぽしょっと落ちた感じで、幸いにも大きくは潰れていなかった。
先生が外から 2 階へ上がろうとしたところ、閉めていた雨戸が邪魔して 2 人の娘達の様子がすぐに確認できない。
焦燥感に駆られていると、閉じ込められている屋内で高校生の次女が「お姉ちゃんがどうかしたみたい! お姉ちゃんの声が聞こえない!」と言っているのが聞こえた。
「うわ〜! T(長女の名前)が死んだ、どうしよう〜! きゃあ〜!」と辺りかまわず喚き散らしていると、長女が、「お母さん、生きてるって、大丈夫やって」、と出て来た。
大学生の長女は和ダンスの下になったが、布団を被っていたせいで妹に声が届かなかったらしい。
和ダンスは 2 つを組み合わせた典型的な形状で、上部が飛び上がって、長女の上に落下。そのまま直撃されていたら頭が潰れて死んでいたかもしれないが、ベッドの支柱に引っ掛かって斜めになったお陰で幸運にも助かった。
高校生の次女は、冬休みを利用して行っていたイギリスから帰国したばかりだった。
家が激しく揺れていた時、まだ飛行機が揺れているんだなと夢の中で思っていたらしい。
奥さまは、支柱の多い所にいたら安全かと思い、娘達に「すぐにトイレに入りなさい!」と言ったところ、「お母さん、トイレがない」との返事。トイレは完全に崩壊していた。
後で、あの時、お手洗いで亡くなった人がものすごく多かったと聞いた。知り合いの中にも、朝起きてすぐにトイレに入っていて亡くなった方が何人もいる。
「お母さん、階段もないわ!」。階段が外れて斜めになっていた。
「本当に酷かったなぁ・・・」と、T 先生が呟く。
南側に家族全員がいて、道路は家の北側。
しかし、倒壊した家を越えられず、道路に出られない。皆で庭木を持ちながら、家々の間の塀の上を歩いて北側の道路に出てみたら、ご近所の家が全部潰れていた。
それでも、「火の手はなかったから、この近所はまだ良かった」のだった。
自宅から西の方角に住む友人は、家が倒壊した上に火事で全焼したから、何人もの人々が犠牲となったと言っていた。本当に悲惨だった。
当時、自宅とその友人宅の中間地点に、娘達がかつて通っていた第 3 小学校があり、彼女達が学校に行ってみたら、道路に人がいっぱい寝ていた。
「 何でこんな道路に寝てはるんやろう 」と思ったら、全部、犠牲となった方の遺体だった。
風がだいぶ吹いていた。
亡骸を学校の体育館に安置していたらしいが、火の手に呑み込まれて、遺体が燃えてしまったらいけないと、全部道路に出したらしい。” だーっと並べてあった ”。
長女の友達の 1 人も、アパートが潰れて下敷きになってしまっていた。
名前を呼びながら友達を探していたところ、「 お前の下や、重たい 」と、足元から声がした。それで瓦礫などをどけようとしてみたものの、歯が立たない。機材や、重機がすぐに調達できる状況ではない。ものが全くないから手作業である。
手で一生懸命に除去作業をしていたが、火がどんどんと近寄ってきて、1 ブロック先まで迫ってしまった。
「もう逃げなあかん!」と周りの人に言われたが、逃げている場合ではない。下敷きになった友人が焼け死んだら大変だと必死だった。
すると、突然風向きが変わって、火の手が反対方向へ向いた。焼け死なずに済んだ。奇跡的としか言いようがない。
---
振り返れば、奇跡的としか言えない様な事が、既に前日から、いや、それ以前からもあった。
T 先生家の 1 階には掘りごたつがあった。
震災前日が長女の成人式だったので、彼女が着た晴れ着を客間の方に陰干しし、その掘りごたつに入って家族団欒を楽しみつつ、過ごした。
そして、こたつに入ったまま、そのうち4人とも氣分良くうたた寝をしてしまった。
夜中になって、「 こんなだらしない事していたらダメだから 」と娘達を各自の部屋に返した後、 T 先生がそこに夫婦の布団を敷いた。
いつもとは布団を敷く位置が若干違っていたが、とりあえずすぐに眠りに就いた。
そうして翌朝の早朝、その部屋の布団の上で被災した。
ところが何とも奇妙な事に、寝ていた部屋の中で、T 先生が布団を敷いたまさにその場所だけには何も落ちてこなかった。
「 すごいでしょ! あり得へんと思わない?」と奥さま。
奥さまのすぐ横に、形見に貰った母の洋服ダンスが置いてあり、そのタンスの上の部分が布団の真横に倒れた。そして、引き出しになっている下の部分にどーんと天井が落ちた状態だった。
もしも布団の位置がちょっとでもずれていたら、タンスが自分達の上に落ちて、更にその上に 2 階部分が崩れ落ちるところだった。「ベチャッて潰れていたわ〜!」と奥さまは明るく笑うが、先生夫妻の上には辛うじて 50 cm ほどのスペースしかなかった。
ちょっとでも手が出ていたら、手もなくなっていた程の距離だった。
本当に運がいいとしか言いようがない。
「 頭などを打っていなかったから、すぐに歩けたんだろうねえ 」、と先生。
「 あなた、何言うてんの? 頭に TV ぶつかっていたやん 」と、奥さまがすかさずツッコミを入れる。「 TV ぐらいやったら、しれてるよ」と、先生。
なぜか深刻な話で掛け合っている様子が微笑ましいが、実際には、ここにも不思議エピソードがある。
その TV も、何と部屋の反対側から飛んできたものだった。
奥さま曰く、「 主人には、予知能力なんかがあったと思う。父の作った額とかもあったんだけど、2 − 3 年前から主人が、『 地震が来て、この額が上に落ちたりしたら、僕、どうなるのかな?』って言い始めていて、落ちる訳ないやんとかってちょっとバカにしてたのよ」。
その上、枕元に設置した小机の上に小さい TV を置いていたのを先生はやたら氣にして、「地震がきて、この TV が落ちたら、僕の頭に落ちるなあ 」と言っていた。
「 アホな事言うわぁって言ってたら、本当に頭に TV が当たったのよぉ。部屋の向こうに置いてあった TV が飛んできて、血だらけになってるの 」と奥さま。
血が吹き出したが、当然ながらそのまま屋外に脱出した。
外は真っ暗だったが、すぐに明るくなってきた。
どこにも行きようがないし、崩れ落ちた 2 階へ上がってオーバーだけ引っ掴んだ。1 階にあったタンスは全て潰れて瓦礫の下敷きになってしまっていた為、処分しようとして 2 階のその辺に置いておいた古いハーフコートしかなかったが、とりあえずそれををパジャマの上に着て、裸足で歩き始めた。
先述の通り、一家 4 人で民家の塀の上を伝って表に出たら、あちこちから「助けてください〜」という声が聞こえてきていた。
先生宅のある通りの家々は、まさに壊滅状態だった。
ただ、隣のマンションだけは倒壊せずに済んでいた。
そこの住人は 1 階のエントランスに集まっていて、全員けがなく無事だと確認して合っているところだった。
誰かがラジオを持って来ていて、その時は「 神戸で大きな地震がありました。負傷者が 200名で・・・」と報じていた。「 200? それはないわ 」。「負傷者が 200 って、あり得へんわ。全部家ないし・・・」。「 死んだ人で 200・・・、それもないわっ」。
それは、地震直後のニュースで、その後どんどん数字が大きく膨らんでいくばかりだった。
そのマンションの人に、「スリッパだけ、4 ついただけない? お金は後で払います」とお願いしたら、「 いや、持って行ってください 」と快く手渡してくれた。
全員スリッパだけを履いて、歩いて 10 分の距離にある、建て直したばかりの奥さまの実家に行こうとしたところ、ちょうどその実家に住む奥さまのお兄さまが様子を見にやって来て、「うちは大丈夫だから、一緒にうちにおいで」と言ってくれた。ありがたい事だった。
震災当日の早朝迄は、確かに存在していたご近所は、自宅も含めて全壊だった。
全部失くなって、瓦礫と化した。
命を失った方は、この町内だけで 80 名近くにのぼった。
「 でも、すごいのよ 」、と奥さま。何日かしたら、郵便局の人が、バイクで郵便配達に来た。あんな途方もない大災害の直後だというのに。
配達のバイクはすぐそこの通りまで来て、左右を見渡して、「こりゃ、あかんわ」と思ったのか、U ターンしてすーっと去って行った。郵便物を配達すべき家が 1 つもないのだから。
「 日本の郵便局は凄いなと思ったわ。だって、東灘郵便局よ。こんな惨事のただ中でも仕事するんだなって、感心した。ビックリしたわ 」。
奥さまの実家には、親戚がたくさんいた。
奥さまの 5 人兄弟のうちの 3 軒が潰れて、 3 軒ともが実家に寄せて貰っていたから、同居の人数が多かったが、震災後 2 日ほどはまだ余震もあって、実家から出ないで過ごした。
その後は、娘達は友達の家に行ったり、学校でお手伝いをしていた。
T 先生のご自宅はバレンタインの日に取り壊した。震災から 1 ヶ月以内だった。
身を寄せて貰っている実家から、面影を留めない自宅に通っては片付けをした。
取り出せる物を出したいと思って知り合いの建築業者に頼み、職人に来て貰った。2 階の床板を全て切断除去し、1 階に置いていた大事なものを取り出した。まずはアルバム、貴重品など。
貴重品は、新しく銀行口座を開き、借りた貸金庫に全て預けに行った。カオスに紛れて泥棒が横行しているという噂を小耳に挟んだからだ。
車はもちろん使い物にならなかった。しかし、電車は、少し向こうまで歩いて行ったら、普通に機能していた。大阪方面からの電車は、JR 芦屋駅までは動いていた(現在の最寄駅の 1つ手前に当たる)。
T 先生が勤めていた、私の母校でもある千里高校の卒業生の方で、ある事情から T 先生がお世話をしていた Gさんのご両親が、「 お風呂に入りに来てください 」と言ってくださった。
G さんのお母さまが、震災のニュースを聞いて、千里高校の事務所に ”気が狂った様に” 先生の安否を訊いていたらしい。「 T 先生はどうしてますか? 生きてますか?」と。
そして、震災から 1 週間目にやっと先生に連絡がついた。その方は、直ちに大阪府高槻市のご自宅に T 先生一家を招いた。
その日、電車で JR 高槻駅に降りたら、駅前にデパートがあった。下着などの買い物に寄ったら、そこの店員が、「被災者の方ですね、このデパートを出たら、裏に店があって、そこは安いですよ」と教えてくれた。
新しい下着を調達して訪ねた Gさん宅で、1 週間振りの入浴が叶った。お湯が真っ黒になった。
振舞われたカニ鍋がものすごく美味しかった。その家にスペースがあるから、住んでもいいとさえも言ってくれた。
Gさん宅には,その後、3 回ほどお世話になった。
詳細は書けないが、高校生の時分、T 先生の献身的なサポートを受けた Gさんは、先生にだけは心を許し、状況がとても良くなったのだそうだ。
震災直後に、必死に先生の消息を尋ねた Gさん一家とは、現在も交流があるという。
そのお話を聞きながら、私も当時の自分自身の状況を重ねてしまった。T 先生によって救われた生徒は、私だけではなかったんだなと。そして私も、まだ繋がらせていただいている 1人なのだった。
「人生、何がどうなるか分からないものよね 」と、ご夫婦で頷く。
私も、向かいから相槌を打つ。
携帯電話がない時代で、公衆電話から千里高校と先生の九州の実家にだけは、その日のうちにすぐに電話した。無事を伝え、しばらく休む事を知らせた。学校どころではなかった。
T 先生の教職復帰は 1 週間後ぐらいだった。
高校の別館の中に、ミーティングルームやバスルームがあり、そこでお風呂に入ったりした。
車で 30 分程の山の上にある芦屋カントリーのゴルフ場の浴場も、1 日に 100人ぐらいに限定してではあるが、無料で開放していたので、時々お世話になった。
真冬の寒い時期であった事もあり、ありがたさが心底、身に染みた。
家を建て変えたのは、翌年 1996 年の 4 月。
その一角では、T 先生宅が 1 番早かった。
しかし、突然、区画整理に掛かった。震災の混沌の中で、道路整備を名目に土地の 3 割を神戸市に無償で提供せねばならないかもしれないという話が持ち上がり、奥さまは市の説明会などに足を運んでは、反対運動をし、”市と闘った”りもした。
震災前は JR 芦屋駅まで歩いて行っていたが、そのうち、近所に最寄の甲南山手駅が新設された。
崩れ去った過去の記憶の上に、どんどんと新しい家々と新しい顔ぶれが、新しい街並みを形成していった。
ーーー
「あの時に、人間というのが良く分かった」、と奥さま。
自分の事も良く分かった。
思い上がっていたなと思った。
自分が人のお世話になる状況など、考えた事すらなかった。
人のお世話は好きであるが、まさか自分が人のお世話になるなんて考えた事がなかった。
こんな事があるなんて、夢にも思わなかった。
自分ができる時にできるだけ人の役に立とうと普段から心掛け、当時も色々な事をしてきた。
それに対して、感謝を示してくれた人もいた。” 倍返し” してくれた人もいれば、” 100 倍返し” してくれた人もいたし、逆に全く何もしないで知らん顔の人もいた。
「 ああ、こういう時に、人間の本性って分かるもんだな 」、と思った。
高校で T 先生が顧問をしていたクラブの教え子達が頻繁に訪ねて来ては、必需品をあれこれと調達してくれた。今でも感謝している。
色々な物を送ってくださった人もいた。とても趣味のいい新しい物を送ってくださる人もいて、ありがたかった。
” 何でもいいからあげとこう ” という感じの事もあった。使い古しのベタベタのオーブンが送り届けられた時は、”もう捨てようと考えていたけど丁度いい具合に送れる所があったわ” とでも思われたのかと動揺し、欠けた食器などを受け取りながら、「 何も無くなったとはいえ、こっちには選ぶ権利もないのか 」と、少し寂しかった。
” こんなんでも送っといてやれ ”、と思われる様な境涯なんだな・・・と。
週刊誌の取材も受けた事があった。
もともと家があった場所に門扉は残っていて、梅だけは以前と変わらず綺麗に咲いていた。
捨てる筈だったハーフコートを羽織った”着たきりスズメ”の様な格好でスリッパを履いた奥さま。化粧気はなく、手入れのできないままの髪の毛の様相で、「ここにうちがあった」と説明していたら、取材に来た人が「えー!」とものすごく驚いて、”まさかこの家の奥さんがこの人?”みたいに、腰を抜かしそうになってしまった。
「ここがーっ!」と驚愕の一声を発していた。
さもありなん、「情けないけど、こじきの様に見られても仕方ない」と思った。
震災からの日常は、常に新常識の上塗りを重ねる様な日々だった。
「 色々な事があったなあ。人生初の事ばかり・・・」と、T 先生がしみじみ呟く。
今迄、当たり前と思っていた全ての事が一瞬でひっくり返ってしまったのだから。当たり前ではない事が、当たり前。
「 亡くなった方が大勢いるし、東北でも大変な事が起きたし、他人事で片付けられる事はないわ。本当に、私達は運が良かった。家が潰れただけだった。何も文句を言えない。贅沢は言えない」。
本来なら死んでいて当たり前だったから、この人生で何かをしていかないといけないなと強く思う。あの体験は、絶対無駄にしてはいけない。
「教訓やね」と、T 先生が一瞬、唇を結ぶ。
やはり、できる時に自分が率先して人様のお世話をさせていただき、謙虚で思いやりの心を持ってその人の心情を考えていかねばならないと思った。
「 今、日本ではどこにいても、いつ、何があるか分からないよね。一寸先は闇だからね・・・」。その事を痛感した。
でも、その闇の中で見たものは、あるいはそれ迄はただ見えなかっただけだったのかもしれない。自らがその渦中に立たなければ見えない世界は、どこにでもある。
その世界に足を踏み入れた者だけに、見る事、知る事を許される叡智や真理といったものがあるのではないだろうか。
T 先生は感慨深げに続ける。
「 家族が 1 人でも命を落としていたら、えらい事だった。生きているありがたさを痛感した。よく立ち直れたもんや」。
子供は強いなと思った。柔軟に、逞しく状況に適応していく。
当時高校生と大学生の娘達は、学業を諦めて働かねばならないと感じた様だが、強い意志を貫いて奨学金や助成金などを受けたりしながら、それぞれ医師と教職の道をひたむきに歩んだ。
震災を経て、心配性にはなりもしたが、家族間の絆は強まった。
毎週金曜日は、必ず先生宅に、長女一家と次女一家が集結して、笑いの絶えない賑やかな食卓を囲んでいる。
生き残れた幸せ、生きている幸せ、生かされている幸せは、一寸先にあった闇の中に陥る事で実感を伴い、大きく育まれたのだろうかと思う。
否定でも風化でも忘却でもなく、在るものへの感謝と喜び、思い出との共生の中で。
突然自らがその闇の世界の住人になってしまった時、その世界は、自ら光を見出す事で明るさを取り戻し、光り輝いていくのかもしれない。
ーーー
T 先生の新しい自宅家屋は、天変地異の上に建っている。
せっせと蓄え積み上げてきた、家族のたくさんの思い出の品々が、夢や希望や日常の安心感と共にいったん自然に還った。
心の平穏のよすが、常識や価値感などの概念、エゴやプライド、運命を、いったん天に預けねばならなかった。
生きている幸せ、命のありがたさを骨身に感じながら、その中で、家族が寄り添って生き抜いた。そして、全ての体験が、知恵、叡智となって輝いている。
T 先生の新しい家屋は、光に溢れている。
次の世代に繋ぐ確固たる家族の絆、人々に惜しげもなく与えられる柔らかで自然体の優しさや幸福感が溢れている。
家族や友人や教え子が集い、笑い声が響く。
そして、私は、T 先生と奥さまの夫婦漫才の様なとりとめのない掛け合いを楽しみに、娘を引っ張って行く。最後はいつも、奥さまの手料理とウィットの効いた話術との前にひれ伏しながら、笑いの渦に心地良く吸い込まれていく。
”福の神”にあやかり、T先生のお元氣な姿を瞼にリセットして、その光の空間を後にする。
T 先生ご夫婦には、快くインタビューに応じていただきました。
この人生で素晴らしいご縁を賜りました事、T 先生には、思春期の迷いの時期にも温かな眼差しで見守っていただき、生涯通して支えとなる大切なお言葉を私の不安定な心の中に希望の光として灯してくださった事への感謝の氣持ちを、改めましてここに記したいと思います。
そして、いつもいつも大きく広げた両手で歓迎してくださる奥さまには、つい何度も甘えさせていただきました。私の娘にも、まるで血の繋がったおばあちゃんの様に接してくださり大変嬉しく思い、深く感謝しています。
Comments