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光田 秀 という生き方


TOKIKO インタビュー 6

Extraordinary Ordinary People / 人並み外れた身近な人々


 

エドガー・ケイシーは、<神は人が耐えきれない程の重荷を負う事を許し給わない。試練や苦難の大きさは、そのままその人に対する神の期待と信頼の深さを語っている> と説いた。


約 1 万 5 千件に及ぶ、膨大な量のリーディングの記録を後世に残したエドガー・ケイシー(人物の概要)。彼は 20 世紀前半に、アメリカに於いて驚異的な霊能力を発揮して、光田 秀 さんの言葉を借りるなら、その業績は、 <人間の本性が永遠不滅の高貴な霊的存在である> 事を実証した事にある。


そして、光田 秀 さんは、エドガー・ケイシーによって解き明かされた数々の宇宙の摂理、人間存在の崇高な真理を ”福音” として伝道する役目を、ケイシー、更には神によって許された人だと強く確信させられた。


光田さんの青年期は、<実存的苦悩>に彩られている。

”人間存在の絶望感や虚無感” に囚われた小我と”大宇宙への畏怖” との狭間で、”死”を常に意識しながら、自分の命の意味を必死で模索した。哲学書などを網羅しながらも答えの見出せない長い暗黒のトンネルの中を、苦悶しながら歩き続けた。


その出口は、ある日突然の形で出現する。眩い光明に、一瞬にして照らし出された。

1 冊のエドガー・ケイシーの本との奇跡的な邂逅という形で・・・。

そして、その後の人生が、”人間存在の希望と喜び”に満ち溢れた光り輝くものへと激変していくのである。



私は、新宿の居酒屋で晩酌に預かりながら、光田さんから溢れ出る情熱と、心の静寂、そして万人に等しく向けられる穏やかな微笑みを心地良く感じながら、つい、話し過ぎてしまった。光田さんの瞳の奥に内在している、広く大きく深い叡智に受け入れられ、見守られている様な氣がして・・・。


光田 秀(みつだ しげる)さんは、日本エドガー・ケイシーセンターの会長


1958 年 12 月 15 日、広島生まれ。京都大学工学部卒業後、同大学大学院修了後、政府機関である東海村原子力研究所に 4 年間の勤務を経て、エドガー・ケイシーと深く関わる人生を歩み続けている。

ケイシーの業績と教えを全国に広める為に、執筆、翻訳、講演活動の日々は多忙を極める。

著書、翻訳書は多数。(文末に掲載)


 

【 今日は、昨日に引き続きご多忙の中、時間を割いていただき、本当にありがとうございます。ゆっくりお話ができるのを、とても楽しみにして来ました。よろしくお願いいたします。】


こちらこそ、またお会いできて嬉しいです。よろしくお願いします。


【 まずは、光田さんが出演されているエドガー・ケイシーがテーマの白鳥哲監督映画、『リーディング』のご成功、おめでとうございます。】


ありがとうございます。お陰さまで、素晴らしい映画となりました。


【私は、大阪での上映初日に行きました。】


ああ、十三での? あらまあ。へぇ、そうだったんですか。白鳥監督もおられた時ですね。


【 そうです。】


十三には、1 回行きましたね。十三で、しばらく上映が続いた後で、行きました。何度も何度も延長されて、素晴らしいですね。


【 素晴らしい限りですね。それがどんどんと広がって、今や、世界にも・・・という勢いですね。】


驚くべき展開で。英語版はもともと最初から作る予定でしてね。テーマであるケイシーがアメリが人ですし、ケイシー財団でたくさん取材をさせていただいたので。財団の方でも、最初から上映を予定していましたしね。


【 翻訳は、翻訳家でいらっしゃる光田さんがされるのですか?】


三浦知子さんが監修をされて、あとお 2 人に翻訳のお手伝いをしていただいています。


【 なるほど。ところで、プロジェクト自体は、どの様に始まったのでしょうか?】


良いご質問です。これは、本当に驚くべき展開でしてね。

まず、白鳥監督のプロデューサーで、映画の監修をされた三浦知子さんという方が、今は三重県に住んでおられて、彼女がたまたま facebook で「今から名古屋方面に行くのですが、どなたか名古屋で一緒にお茶しませんか?」という事を書かれたんですよ。

で、僕が facebook を開いたら、ちょうど三浦さんがそれをアップしたところだったので、僕はすぐにお返事をしたんですよ。「名古屋は無理だけれど、東京の新宿・渋谷近辺にいらしたら、ぜひお茶をしましょう」と。

そうしたら、三浦さんから「来週東京に行くので、じゃあ来週お茶しましょう」となりました。


【 そんな感じだったんですね。】


それがですね、僕が「せっかくですから、白鳥監督も一緒にどうでしょう」とお誘いしたんですよ。監督とは 、10 年くらい前に 1 回こちらに来られていて、それ以来会っていなかったもんですからね。それで、僕も奥さん(作詞家の吉元由美さん)を連れて行く事にして、4 人で会う事にしたんです。ちょうどお正月の時期だったので、「じゃあ、せっかくですので、明治神宮で参拝いたしましょうか」と、皆で本殿で参った後、ケイシーセンターは近いですから、ここに来た訳です。

白鳥監督は 10 年ぐらい振りにこちらに来られたのですが、その 10 年の間にケイシーセンターの方で健康法について纏めたものがあったのを監督が見られて、「ケイシー療法というのはここまで具体的で、実績があるんですね」と感銘を受けられたんです。「こんな重要な情報を知らないなんて、もったいない。是非。映画にしましょう」という事になったんです


【 素晴らしい展開の仕方ですね。何かの始まりは、いつもそういう日常の中で自然と発生するものですね。】


そうですね。そして、始めは 30 分の短編で作る予定だったんです。監督が「短編だったら、これくらいでできますよ」と予算を組んで下さって、まあ、それぐらいだったら何とかなるかな・・・という事で、「やりましょう!」と始まったんですよ。

そうしたら監督がアメリカの取材に行った時に、向こうの情報が膨大でしょう。それで、「これは短編では収まらない、中編で参りましょう」と。それで、その途端に予算がどんと増えて、ケイシーセンター単独の予算では賄えなくなったんです。皆さんに資金の援助をお願いしてね。

実際に監督が作り始めて、日本でのインタビューとかも撮り始めたら、「これほど貴重な体験例がたくさんあるのだったら、中編でも収まりきりません。ちゃんとした劇場公開用の長編でいきましょう」という事に最終的になったんです。


【 このプロジェクトの開始は、いつだったのですか?】


3 年と 10 ヶ月前ですよ。それから企画が始まって、劇場用に長編を撮る事に決まったのは、撮影を始めて 1 年ちょっとしてからじゃないでしょうか。

中編から長編に変わった途端、予算が膨大になってしまったんですよ。画像と音響の質をぐんと上げなければならなくなって。あと、再現ドラマにも、お金が掛かるので。


【 そちらの俳優陣も素晴らしかったですね。】


本当に。それで、皆さんにお願いしたら、ありがたいタイミングで予算が集まってね。

それで、今回は映画が好評だったんで、多言語化しましょうという事で。英語版は既にできていたんですけど、リクエストのあった中国語版とスペイン語版をとりあえず作りましょうとなったんです。それらの字幕とナレーションを入れるので 350 万円ぐらいでしょうかと。それでまた皆さんにお願いしたら、集まってね。


【 ちゃんとお導きやお力添えが与えられるんですね。】


そうなんでしょうね。

そういう訳で、これから監督のナレーション部分を誰かに吹き替えて貰うんですね。その後も、もしかしたら言語が増えるかもしれないですね。


【 スウェーデン語とかどうですか? ヒプノセラピーも認知度がないので、「それ何?」といつも訊かれているんですよ。エドガー・ケイシーも余り知られていないと思います。】


あらま。スウェーデン語、いいですねぇ〜。

ところで、関係ないんですが、スウェーデンは、やっぱり寒いんですか?


【 そうですね。1 ヶ月前( 10 月初旬 )に、まだスウェーデンに残っている主人が、雪景色の写真を送ってくれましたね。冬は、ストックホルムでマイナス 30 ℃になる事もあると聞きました。私は冬に行った事がないのですが、ストックホルムでは午前 10 時に日が昇って、午後 2 時頃日の入りの様です。】


ええっ! そうなんですか。僕はまだ北欧には行った事がないのですが、それは大変そうです。


【 ところで、でき上がった映画は、ケイシーの功績を余す事なく伝えていますね。光田さんがいつもおっしゃっている、”ケイシーの福音を全国津々浦々に広めたい” という情熱が、ケイシーの言葉を借りるなら、<宇宙は、あなたが必要とするものを、必要な分だけ与えてくださる>形でしっかりとサポートされているのを感じざるを得ません。それに、ケイシーの映画が、日本から本格的に発信されるというのにも、意味があるのでしょうね。】


そうですね。アメリカにも、ケイシーに関するドキュメンタリーはあったんですが、本国でも劇場公開用の長編映画は作られていなかったですからね。喜ばしい限りです。


【 光田さんが、ケイシーセンターの会長になられたのは 34 歳の時でしたね。その後はずっと、ケイシーと共に人生を歩まれていますね。】


そうですね。それ迄は、24 歳で大学を卒業して、東海村で原子力の研究所に入って、そこを 28 歳の時に辞めています。そして、28〜30 歳は、当て無しでした。その間に、ひたすらケイシーを読んで、研究する日々です。

本当は たま出版 に入りたかったんですけどね。編集長が僕を要らないと言ったんでね。2 年間ひたすらケイシーを探求しました。


【 蓄える時期だったんですね。】


ええ。本当はたま出版に入りたかったんですけどね。

30 歳になるちょっと前に たま出版 が、ある翻訳を私の友人に依頼したんですよ。彼ができなかったので、それを僕に回してきたのでやったら、編集長が私の翻訳を「稀にみる名訳だ」と氣に入ってくれてね。それで、30 歳にしてたま出版に入ったんですよ。

32 歳の時だったかな、たま出版にケイシーの本を読んだ方の読者カードがたくさんあったんですよ。その方々に、アメリカのケイシーセンターに行くツアーを企画してあげたら喜ばれるかなと思って、それで、ツアーの受け入れを向こうと打ち合わせをしたら、そのツアーが実現したんです。


【 とうとう本場入りですね。】


そう。そして、ケイシー財団の方が、これほど熱意ある人達がいるのであれば、日本にセンターを創設したらどうですかと言ってくださって、34 歳の時に、遂にケイシーセンターが誕生したのです。


【 ご縁ですねぇ。自然の流れで繋がっていって、そうならざるを得なかった感じですね。】


驚くべきご縁としか言いようがありません。ケイシーセンターなんて発想自体がもともとありませんでしたからね。アメリカの会長に言われて、「ええ、そうですか? じゃあ、頑張ってみます」って具合でしたからね。

そのツアーには、日本から 55 人参加したんですけどね。


【 そんなにいたんですね〜!】


それがね、55 人で切ったんです。1 台のバスにしたかったので。1 台のバスに乗り切れるギリギリが 55 人だったんですよ。そして、帰国後に、その参加者達が、ケイシーセンターを立ち上げるコアのメンバーになってくれたんですよ。その時は任意団体ですけどね、準備委員会ができて、物件探しや会則の考案などをしていったんです。


【 光田さんの中では、機が熟したという感じはありましたか?】


いやいや、全然。実はね、僕の中では、団体の会長になるなんて氣が重かったんですよ。でも、そういう経緯でしょうがないかなと(笑)。

あと、そういう夢を見てね。コアのメンバー達が出てくるんです。

それはね、私にものすごく大きなトレーラーを運転しろというんですよ。極端に大きいんですよ。「こんな巨大なトレーラー、誰が運転するの?」って思っているんですけどね、「あなたが運転しろ」って(笑)。で、荷台にものすごい量の机や椅子など、メンバーが載せたい物が雑然と載っているんですよ。「無理。運転するんだったら、まずは片付けてちょうだい」って片付けて貰って運転し始めるんですけどね、案の定、ものすごく厄介な道を何回も通るんですよ。その度に、後ろのメンバーから「はい、そこ右切って、左切って」って声が掛かって、私はただ言われた通りにハンドルを切っていたら、何とかそこを通り抜けられる。最後は山の方に行って、湖にみんなで飛び込んでね。その水はワインだったと思うんですが。


【 それはまた、分かり易いメッセージですね。】


僕も、「どうやら、夢も僕に ”会長をしたらどうか” 」と言っていると思って決意しました(笑)。


【 良かったです。 それが、この場所なんですね。】


いえ、最初は横浜だったんですよ。私の叔父がビルを持っていて、その 3 階を好きに使っていいからと、タダで貸して貰って。コピーも使いたい放題で。電気代も請求されず。

叔父さんが、甥っ子が変な活動をし始めたと。それでちょっと助けてやろうかと思ったんでしょうね。ありがたい事です。


【 なぜ東京に移転したんですか?】


30 歳で たま出版 に入った時に、もう既に東京に暮らしていましたから。でも、東京で物件を見付けるのは大変ですから、横浜に通っていたんです。

僕の親戚がたくさん横浜にいたんです。生まれは広島なんですけど、親戚達がなぜか横浜にどさっと移住したので。しばらくしてから、東京の大塚に拠点を移して活動して、それからより都心に近くて活動し易い場所を求めて、最終的にここになりました。15 − 16 年になりますね。ここは場所柄が良くて、とても氣に入っていてね。


【 光田さんが長年追い求めていた <霊的理想> への道が、いよいよここで定まってきた訳ですね。紆余曲折があった様ですが、どの経験も無駄ではなかったという事でしょうね。】


後で振り返ると、無駄な事は、何 1 つなかったですね。


【 ここで、私の読者に、光田さんの生い立ちをご自分の言葉で語っていただけますか? 例えば、内的傾向にある天文少年だった 10 代の頃の事なども含めて、<霊的理想>に辿り着く道のりを。】


あの頃の事ね。了解です。

僕のお父さんは唯物論者だったので、小さい頃から唯物論の枠内でだけで人生を考える様に仕向けられたんですよ。小さい頃からよく言われ続けたのは、「人間は死んだらそれっきりだから」、「人間は死んだらゴミになる」ってね。「生きている間だけが全てなんだから、そのつもりで生きなさい」と


【 お父さまがその様な考え方を持つに至った理由というのもあるんですね。】


14 歳で満州に行かされてね。17 歳で終戦を迎えても、日本には帰って来れず、シベリアに抑留されたんです。


【 確か義勇軍でしたね。14 歳で徴兵されたのですか?】


徴兵ではないんです。まず、義勇軍に入っている人は、広島と長野の人が多いと聞いたんです。それぞれの県が、県民を満州に送る事を積極的にしたらしいのです。それには、学校の先生が割り当てられるのですよ。あなたの生徒から何人ぐらい出しなさい、と。先生が自分の生徒の中から行けそうな人を見繕うんです。長男は初めから除外です。次男以降で、それ相応の年齢に達している男子を口説くんですよ。

うちのお父さんも次男坊だったので、先生に言われて、やむなく満州に行く訳です。本当はもっと高等教育を受けたかったみたいですけれど。そういう個人の願望を通せる様な時代ではなかったですからね。行けと言われれば、行くんです。


【 何という辛い状況でしょう。もちろん親元を離れてという事ですよね。】


そうです、そうです。14 歳で親元を離れてね。下に弟が 2 人いましたが、小さ過ぎるので、まあ、一家を代表して満州に行ったのです。そこで、仕事をさせられたんです。鉄道を敷くとか、木の伐採とか、炭を作るとか、開墾するとか。

そして、終戦になっても日本に戻れず、シベリア抑留が待っているんです。


【 とても劣悪な過酷な環境下で、何万人もの日本人が命を落としたと聞いていますが。】


そうですね。とても劣悪な環境の中で、強制労働の日々です。お父さんと一緒に行った方々の 3 分の 1 ぐらいは亡くなったと聞きましたからね。毎朝誰かが死んでいると。それを、リアカーみたいなのに載せて、ゴソゴソと捨てに行くんです。

そして、そこで、徹底した思想教育を受ける訳です。


【 まあ、何という青春時代でしょうか。】


ねえ・・・。だから、神はいないし。


【 お父さまは、以前から無神論者だったのですか? それとも、やはり、その苛烈な経験を経て、よりその傾向が強固になったのでしょうか?】


そうなんでしょうねえ。「神がいるんであれば、どうして日本が負けた」とかね、「神が仏がいるなら、どうしてこんな酷い人生を経験しなきゃいけないんだ」とかね。

そして、お父さんが嫌だったのは、シベリア時代に、時どき占いとかコックリさんみたいなのがパーっと流行ったらしいんです。そうすると、「いついつに助けが来て、我々は日本に帰れるんだ」みたいなコックリさんが出るんだそうですよ。でも、実際にはそうならないの。

そうしたら、コックリさんをやった人は、ものすごく落胆して、亡くなったそうですよ。帰れる事をすごく信じてしまって、あと 2 – 3 週間頑張れば帰国できるという事を心の拠り所にして生きる訳ですけど、そうならない。「あのコックリさんは何だったんだ」という酷い絶望感ね。

それで、人が死ぬと、いち早くその人の衣服を剥いじゃうんだそうですよ。そういう生活の中で、人間の究極の現状を目の当たりにしてきたお父さんは、「人間は単なる肉体的存在だ」、「霊魂なんてある訳がない」、「まして、神や仏はある訳ない」と。

共産主義もそう言いますからね。何しろ、マルクス・レーニン主義をずっと叩き込まれる訳ですから。「宗教は阿片だ」とかね


【 洗脳ですね。その後の人生も、ずっとその思想を軸に生きていかれるのですか?】


そうそう。しっかりと刷り込まれて、21 歳の時に日本に帰って来ました。

シベリアから帰って来た人達は、”赤” だと言われて、就職先がなかったんだそうですよ。それで仕方がないので、お父さんは広島の山奥に入って、木を切って生活する事にしたんです。炭を作る為に。


【 技術は持って帰って来られたんですね。】


そう、シベリアで習い覚えたのをね。他にできる事がなかったので、木を切り倒す事と炭を作る事をね。

そして、うちのお母さんと知り合うのです。お母さんは、お父さんの妹の短大時代の同級生だった人で、「うちの兄はどうかな?」という事で出会ったそうです。

でも、お父さんもさすがに炭焼きでは一家を養っていけないと思って、材木業を起こして、光田木材という会社を創設したんです。そこに、我々が生まれてくる訳です。

僕は、だから、小さい頃から唯物論で仕込まれましたからね。ずっと僕は色んな講演会で言ってますけどね、僕の知っている限り、うちのお父さんは 1 回しか行ってませんからね、お葬式に。

 

【 それは相当徹底していますね。そのお葬式はお母さまのでしたっけ?】


そうです。自分のお母さんが死んだ時しか行っていないですからね。それ以外は、全部、うちのお母さんを代理で行かせてますからね。


【 神仏云々というより、人との繋がりも希薄なのですか? それとも?】


人との・・・、家族との絆はほどほどにありました。親戚付き合いもね。叔父さんとはとても仲良かったですからね。でも、霊魂とか、その類が全部ダメでした。

僕らが小学校の時とか、TVで心霊特集の番組とかやるじゃないですか。それを見ていると、「こんな下らない番組なんか見て!」とめちゃくちゃ怒るんですよ。「そんな霊とかいる訳ないんだから!」ってね。


【 頭ごなしに怒られて、素直にそうだと従っていました?】


まあ、反発はしなかったですね。「本当はお父さんの言う通りなんだろうな。霊魂なんてないんだろうな」と思っていましたね


【 へえ、そうなんですね。心霊番組を見ながら・・・】


そうそう、心霊番組を見ながら、それはあくまでも怖いのが楽しみという感じで。ドキドキしながら、信じてなかった(笑)。

学校の先生だって、「昔の人は信じていたみたいですが、霊なんていません」とかって説明すると、僕は、「あ、そうなんだ」って。


【 もともと素直なんですね。】


ある意味でね(笑)。


【 それで内向的だったというのは?】


それで、小学校 4 年ぐらいの時に、買って貰って天体望遠鏡を覗き始めるんですよ。月とか木星とか土星とかを見ると、小学生ながらとっても楽しかったんですよ。月のクレーターとかも、小さい望遠鏡でもそれなりに見えるんですよ。木星の輪っかだってちゃんと見える。神秘的なのに驚いてね。宇宙はこんなに広いんだ、と。

最初は覗いて観測しているだけで楽しかったんですけどね、だんだんと宇宙のとてつもない広大さに不安を覚えるんですよね。宇宙はこんなに大きくて、人間はこんなに小さい、と。自分の人生に、何の意味があるのか、と。生きたって、たかだか何十年ですものね。よく生きたって、80 年かそこらでしょう。宇宙の年齢から考えれば、もう一瞬ですし、大きさからしても、こんなちっぽけな人間に何の意味があるんだろう、と。

「じゃあ、この宇宙の中で自分の人生に何か意義があるんだったら、何だろう」と答えを求めてみたけれど、全く見付からなかった。


【 全く、ですか?】


全く。余りにも小さ過ぎて。時間も短いし。マッチ擦ったぐらいですよ。


【 小学校の時からそういう思考ですか?】


そういう思考になっていったのは、中学校入ってからですね。

それから、うちのお父さんが自分が行きたかったからなのか、「大学は東大法学部」。東大法学部を卒業した人々がどんなに素晴らしい事をしてきたいのかを、僕にどんどん言って聞かせる訳ですよ。政治家とかね。”大学に行くなら東大法学部” 主義者でね。だから、それを目指しなさい、とね。


【 それも、わりと素直に従っていたのですか?】


しばらくはね。でも、自分の勉強のレベルを考えると、とてもじゃないけどそんな所には・・・と思ったし、それよりも、中学校卒業して高校に入った辺りから、はっきりと「僕の人生に意味はないじゃない」と思い始めて。「どうせ、人間死んだら”無”になるんだったら、何で生きなきゃならないの?」って。「肉体の死によって僕が宇宙の中に一切の痕跡を留めず ”無” になるんだったら、何で僕は東大法学部へ行かなきゃならないの?」って思いますよね。


【 思ったんですね。】


思ったんです(笑)。

うちのお母さんは山口出身だったんで、「東大法学部は難しいから、あなた、行かなくていいから山口大学の医学部はどう?」って言うんですよ。

「人生に意味がない」って思っている人間に、法学部も医学部もないんですよ。それで、だんだん苦しくなってね。

うちのお父さんは東大法学部とか言いながら、「人間、死んだらそれまでだ」と言い続けるしね。お父さんの晩年の好きだった言葉は、「人間死んだらゴミになる」ですからね。


【 ゴミなんですね。まあ、物質的な入れ物としての体は確かに残りますけどね。】


「死んだらゴミになる無意味な人間が、どうして人生頑張らなきゃならないの?」って思いましたね。頭の中はいつもしんどくて、苦しくてね。

でも、「僕が苦しむくらいなんだから、とっくの昔に哲学者は答えを出しているだろう」、「とうの昔に誰か同じ事を考えて誰かが真理を見出しているに違いない」と思って、高校の倫社の先生に、訊くんですよ。「僕、人生意味分かりません」って。「氣力が湧きません」って。

そうしたら、倫社の先生が ”デカンショ” を読みなさいって。要するに、デカルト、カント、ショーペンハウエルを読めば、答えが分かると。「ああ、”デカンショ” を読めば、解決するんだ!」と思って(笑)。それで、本当に読んだんですよ

デカルトは読める。デカルトはそんなに難しくないですからね。

ショーペンハウエルも、ほどほど読めます。

でも、最も重要だと言われたカントは、全く歯が立たなかった。


【 高校生で哲学書と格闘ですね。】


そうですねぇ。カントには有名な本が 3 冊あるんですがね、その 1 番重要なものに『純粋理性批判』というものがあって、東大の先生が 3 人掛かりで翻訳したものが岩波文庫から出ていましてね。何十刷りにもなっていて、皆がそれをずっと読み続けている。それを、この私も何とかと思って読んでみるんですけど、最初の 2 − 3 ページも読めなかった。もう、酷い落胆ですよ(笑)。


【 やっぱり、根っから素直で真面目だったんですね。どう考えても。】


どうなのか(笑)。「皆が読んでいる重要な哲学の本を、何で僕は最初で挫折するの」、と。「3 人の東大の先生の、もう何十刷りにもなっている大事な本を、何で理解できないの?」と、もう自分の頭が悪いとしか言いようがない訳ですよ


【 何だか、かわいそうですね。お気の毒に。】


でも、他の人がちゃんと読んでいるのにって。


【 でも、読み方というのも、読むレベルの深さや、理解の度合いも、結局人それぞれですしね。自分の人生経験と照らし合わせる事で文章との関係性も変わってきますしね。】


でも、何十刷りにもなっている訳でね。東大の偉い先生が 3 人掛かりで翻訳したから、絶対的に正しいものだと思っているじゃないですか。

だから、とにかく理解できないこの頭が悪いに違いない、「こんなボロい頭なんか、いらんわ〜!」って、本棚の角っこに頭をぶつけるとかね。柱の角っこに頭をガンってぶつけて、「もう、こんな頭、壊れてまえ〜!」ってね。やったんです。血ぃ、ダラダラ流してね(笑)。


【 相当辛かったですね。それで、どうなっていくんですか?】


カントが理解できないのは、きっとカント以前の哲学を知らないせいだと思って、カント以前の哲学書を順番に従って読めば、カントも理解できるかもしれないと考えました。

高校の図書館にあった『世界思想全集』というのが 30 冊ぐらいあるのを、最初から読んでいく事をするんです。第 1 巻から、ソクラテス、プラトン、アリストテレス・・・、と読み始める。で、魂が出てきた時点で、アウトなんですよ。

でも、最初の方は全て、魂が登場しますからね。一応、読むは読みました。どういう事を考えたのかを知る為に。でも、魂が出た時点で、それは僕にとっては ”アウトな哲学” なんですよね。

”魂の存在” を前提にすると、人生の意義はそれなりに出ますよ。何しろ、”永遠に不滅” なんですから。でも、それはあくまでも ”古〜い人の未開時代の古〜い哲学” ですよね。”現代人が相手にする様な、求めるべき哲学” ではない、と。だから、参考程度に一応読んだという感じでした


【 それでも、一応は全部読み進めていこうとするところがすごいですね。自分の中で否定しながらも、なぜ否定するのかを知る為にも、その根拠を頭ごなしに無視せずに目を通すという姿勢は大事ですね。】


まあ、何十巻もあったので、何でこれを思想全集に入れたかな・・・と思う様な、哲学というには、全然レベルが低過ぎだって思って腹の立つものもある訳ですよ。「こんな無駄な本を読むのに、1 週間も費やしたよっ!」と思う訳ですよ。分厚い本なので、時間も掛かりますから。


【 でも、逆に 1 週間で読めたんですね〜。】


まあ、でも、読みながら腹が立っていて、読み終わったらものすごく腹が立っている。自分の本だったら、破って捨てていますよ。燃やしてます。

でも、図書館の本なので破りも燃やせもできなくて、僕の怒りを表現する為に、本を思いっ切り齧って、歯型を付けて、で、学校の図書館に返す(笑)。


【 すごい(笑)。素直で大人しい訳ではなかったんですね。内側にふつふつと沸る魂の欲求を感じます。】


それでね、だんだんと現代に近付くにつれて、霊魂が否定される様になっていきます。そうすると、僕もだいぶ安心して読める様になっていくんです。「あ、そうよね、霊魂はやっぱりないもんね」と。現代哲学を読みながら、「ああ、やっぱり霊魂は存在しないのだから、結局は ”人生は意味がない” というところに、結論として落ち着くんだな」、とね

僕が最も好きというか共感したのは、本などでも書きましたけれど、バートランド・ラッセルでしょうね。<人間というのは、結局のところ、原子分子が偶然に結合してできた有機物に過ぎない> と言ったんですよ。僕らは単なる有機物。限りなく ”お豆腐” ですから。そのお豆腐が、何かの弾みで電氣的な刺激を受けて、ちょっと言葉を喋っている。死んだらお豆腐に戻るだけですから。

「あ〜、やっぱりそうだったんだぁ」と思いました。


【 そうだったんだ〜、なんですね。】


そう。そして、<この絶望の上に、我々は人生を建設するしかない> と。ラッセルさんもそう言われる。

でも、「絶望の上に人生を建設できる人もいるかもしれないけれど、僕には、人生を形成する氣力がありません」と・・・


【 うわぁ、そこ迄きていたんですね。崖っ縁でしたね。でも、自分の事を肯定された氣分にはなれますね。】


そう、肯定されたんですよ。「人生には、やっぱり意味はないよね」、で、「そうよ」と(笑)。

それで、「哲学者が ”人生無意味だ” とお墨付きを与えてくれたのだから、かくなる上は、もうこれ以上、自分が存在する意味はありません。しばらくはお父さんお母さんが悲しむかもしれないけれど、それでも数十年だけで、それも宇宙からしたら一瞬だから」、とね。

「じゃあもう、”自分は人生の意味を見切った” という証拠を残す為に、潔く死んでしまおう」と


【 ”証拠を残す為”に・・・。思考が学者肌ですね。】


そうですねぇ(笑)。それからは、もう、熱心に遺書を書く訳です


【 全部で何通書きました?】


書き殴ったのや、書き損じたのを入れれば、100 通はありますね。だいたい 2 − 3 日に 1 回は書くんですよ。場合によっては毎晩ぐらい。

でもだいたいね、数行とかでボツですよ。綺麗に書けない。氣に入る様に書けない。それで、色々な人が書いた遺書を参考にしてね。「ああ、こういう風に書けば、綺麗にいくな」とか、「こうすれば、後世の人、家族とが読んでも大丈夫だな」とかね(笑)。文章を一生懸命書きました。

あの頃はワープロがなかったから、ワープロがあったら、早く完成し過ぎちゃったかもしれない(笑)。手書きでやるしかない。字が汚いとか、文面が氣に入らないとかで、破ったのがたくさんありますね。


【 お話を聞くと、やっぱり最後は ”美しい形” を求めていたんですね。”最後の美学” みたいな。】


ああ、そうでしょうねぇ。


【 例え無に帰するとしても、こういう風に自分を覚えていて欲しいみたいな。】


そうそう、そうですね。そういう心情だったら、そうもなるわね、みたいなのもね。


【 完全な自暴自棄ではなくて、”自分なりの理想の形を見詰めた結論” みたいな。】


そう。


【 それで、どれぐらいの氣に入った遺書を完成できたんですか?】


2 通。文章は全然違うんですがね。とりあえず、ほどほどに満足できるものが。


【 遺書が完成しました。それで、どうされたんですか?】


1 通は封をして、2 階の天井裏に仕込んだんですよ。


【 何でまた、そんな誰も探し出せない様な場所に隠したんですか?】


家を解体する時に誰かが見付けてくれたらいいんじゃないかと思って。

そして、もう 1 通は、僕の勉強していた机の電氣スタンドをバラして、その中に仕込んだんです。


【 そんなの、絶対に誰にも見付けて貰えないですね。】


でも、掃除している最中に何かした弾みに壊れて、そこからパラっと(笑)ね・・・。そういうのがいいかな、と。10 年後ぐらいに。


【 びっくり箱みたいですねぇ。思い掛けなく発見されるのを良しとしたんですか。】


まあ、かなり発作的に自分が ”やる” んじゃないかと思ってましたので、これでいつその時が来ても大丈夫だなと。

あとは、余り痛くない方法ね。ちょっとぐらいはいいけれど、それほど血が出ない方法。迷惑が掛からない様なのがいいなと。それから、やり損じのない方法ね。うっかりして迷惑を掛けるのは嫌ですから、するからには絶対に上手くいく方法、余り見苦しくない方法などを考えてね。


【 それで、どんな方法が 1 番いいと導き出したのでしょう?】


それは言えません(笑)。

本当は、青酸カリとか睡眠薬が欲しかったんですが、手に入らないですからね。うちの近所には 1 つしか薬局がなかったですからね。冬山も鉄道も、色々なパターンを考えましたね。

まあ、できるだけ速やかに死のうと思ったら・・・、ええっと、これは言っても大丈夫?


【 私は構わないんですが、何か事情があるのでしたら、控えてください。】


いや、まあ、誰か真似をしたら嫌だなあと思っただけなので。


【 なるほど。】


当時考えたのは、XXに針を通せば、殆ど血が出なくて呼吸が止まるんですよ。その事を知って、それだったら見苦しくなく、瞬間で終わるな・・・とね。1 つの候補はこれ。

あともう 1 つの方法は、華々しく滝壺にでも・・・と。


【 本当に真剣に考えたんですね。切羽詰まっていたんですね。】


とにかく、死にたいけれど、人に迷惑だけは掛けたくないなと。1 番の理想は、寝ている間に死ぬ事で、寝ている間に心臓が止まってくれればそれがいいと思っていましたけれどね、朝起きたら、毎日、まだ生きてましたしね。まあ、でも、チャンスがくれば、GOしたかもしれません。追い詰められていましたからね

そうしたら、ある時、高校に行っていたら同級生が僕に言うんですよ。「昨日、お前が自殺する夢を見た」って。


【 高校生活では、暗く落ち込んで、明らかに人目にも苦悩が見えてたんですか?】


いやいや、僕は高校では明るく振舞っていました。だから、「なして、僕の暗い側面を言い当てられたのだろう」と思ってね。家ではものすごく暗いんですが、学校ではその素振りを見せずに、楽しそうにしてましたからね。その友達に、僕の自殺の夢を告げられて、「やめてくれよっ」って。それはちょっとびっくりしたんですよね。

あと、僕が死んだら、両親、特にお母さんは嘆くなあと思って、それがいつも心に引っ掛かっていました。どの道 ”無” だとは分かっているんだけれど。「どうせ ”無” なんだったら、うちのお母さんが死んでからでもいいんじゃないの?」っていう考えも起こってね。「どうせ ”無” だと分かっていても、お母さんがあと何十年も嘆き悲しむっていうのはどうなの?」って。お母さんが苦しむという事が、例え ”無” だとしても、躊躇させる理由だったですね


【 少しは残された家族のその後を氣遣うぐらいの余地はあったのですね。ご自分の正直な苦悩などの心境をご家族に打ち明ける事は考えなかったのですか?】


お母さんには、酷い事を言いましたよ。何で僕を産んだんだ、という事ですよね。

「僕は全然産んで欲しくなかった」と。「人生、意味が分かりません」と。「何で、意味の分からない人生に、僕を引き入れたんですか? 僕を産んで欲しくありませんでした」とね。これは、時どき言ってしまいました。どうしても、時どき出るんですよね。


【 お母さまは何か言ってらっしゃいましたか?】


言わない。悲しそうにうな垂れて。そっちの方が、辛いです。

あれだけは本当に酷い事を言ったと、今でも反省しています。あれだけは・・・。思い出すと、僕もちょっとね・・・、苦しい。


【 それほど苦しみ抜いたからこそ、後々のエドガー・ケイシーとの出会いは大きなインパクトがあったんでしょうね。】


まあね、お母さんを苦しめるのだけは辛いので、もうちょっとだけ生きてみようかな、と。それで、本当は高校で死にたかったんですけど、大学も受ける事にするんです。お父さんは法学部、お母さんは医学部ばかり言うんですけど、僕の中では、大学に行くとしたら哲学しかなかったですからね。で、もうちょっと研究したら、人間の存在意義が見えるかもしれないと思ってね。それで、行くとしたら、京大の哲学科だと。

でも、両親とも、哲学は絶対にダメと


【 理由を聞きましたか?】


理由は聞かなくても分かりますよ。僕の本箱は、危険な本ばっかりだったですから(笑)。今、もしも自分の娘の本箱に ”あれ” が並んでいたら、焦ると思う。

だって、『絶望とは』とか、『人生の絶望』とか、『自殺論』とか、そういう本ばかりが並んでますからね。

なので、高校時代、僕の部屋は 2 階にあって、木造家屋だったのでそこでゴソゴソすれば下の階によく響いた筈なんです。時どき勉強時間に、僕が全く物音を立てないで哲学の本を読んでいると、うちのお父さんがダダーッと階段を駆け上がって来て、僕の部屋をバシッと開けるんですよ。


【 何かを察知して・・・。】


僕が死んでいるんじゃないかと思ってね。それがね、週に 1 回ぐらいはありました。両親から「まさか死ぬつもりなんじゃないよね」と言われた事は 1 回もないんですけどね。でも、本箱の本を見れば、その氣配がある事は分かりますもんね。「こいつにはその氣があるな」というのは、お父さんにははっきりと分かっていましたね。

扉をバシッと開けて、それから僕を見て、何食わぬ顔で下に降りるんですよね。

まあ、そういう高校時代だったんですよ。


【 そこに、愛情を感じますよね。お父さまなりの表現をね。】


まあね。それで、哲学は頑としてダメと言われて、僕はもう既に人生に意味がないと思っていますからね、「法学部行って、どうするの? 誰か弁護する氣力、ないって」、「騙されてもいいじゃないですか、どの道 "無" なんですからね」、「どっちみち人生、意味ないですから、そんな目くじら立てて、訴える事もないでしょう」ってなるよって・・・と、お父さんに言いました。

そして、お母さんには、「誰か病氣で来ても、どうして病氣を治す必要があるんですか、そのまま死にましょうよ、どうせ生きていても無駄ですから」、「良かったら、私と青酸カリ飲んで死にましょうよ」、って言うよって。

もうね、弁護士とか医者とかは、自分の頭の中にはとてもじゃないけど入りませんって。

哲学がダメって言うんだったら、みんなで相談しましょうって。僕としては、とにかく京大に行きたかったんですよ。哲学科に行けないにしても、哲学の小径なんかを歩いていると、何か生きる氣力でも湧いてくるのかなぁ、と思いました。


そうしたら、お父さんの従兄が京大の法学部を卒業してたんで、僕の成績だと京大の工学部なら行けそうだって言うもんで、じゃあ、とりあえずそこを目指すという事になったんです。

幸い合格して、京大工学部に行き始めるんですけど、通う氣力がないんです。学校にも行かないで、ひたすら本を読む。哲学の本とか。

それに、幾らか宗教的な事にも興味を持ってね。ところが、宗教をやっても、宗教書を読んでも、でも、心が解決しないんですよ


【 全く光明が見出せなかったんですか? 全く?】


仏陀と同じ様な神通力を示している人はいないし、キリストと同じ様に不思議な治癒を起こしている人はいないし、あれはやっぱり ”インチキ” というか、作り話なんだろうなと思ってね。

で、20 歳の時には、もう他に解決策はないと思って、「あーっ」と悲嘆に暮れて、お母さんを悲しませるのが嫌で、何とか 2 年間頑張ってきたけれども・・・、この頭が邪魔するんですよ。


【 でも、”人生の意味” とか ”魂の理想” を追い求める道というのは、必ずしも宗教や哲学だけには限らないじゃないですか。】


でも、僕には、その時はそれしかなかった。それしか見えなかったんですよ。


【 それは、高校の倫社の先生の教えがかなり影響しているんですか?】


それだけではないですけどね。人生を一生懸命考えたら、僕の中では哲学に行かざるを得ないですからね。

そして、もう目が覚めた時から、ずっと頭が言うんですよ。「人生には意味がない」って。「宇宙の大きさを考えれば太陽系なんて取るに足らないし、太陽系の大きさを考えれば人間の生きる寿命なんてほんの一瞬に過ぎないのに、空間的にも時間的にも一瞬のこの存在に、何の意味があるの?」って、朝起きた時から延々と考え続ける訳なんですよ


【 何ともまあ、ある意味、健気な剛直さがあるというか、自虐的というか・・・。】


もう、分かんないです。脳みそが、それを僕に言い続けるんですよ。

もう、これを黙らせるには、死ぬしかないと思って。起きている間じゅう、僕にずっと拷問を加え続けるんですから。

「人生に意味がないって、決着が着いたんでしょう。それなのに、いつ迄も生きているなんて、ずるくない? 潔くないんじゃない?」って


【 言うのも自分、答えるのも自分なんですよね。】


そう。この思考が、僕をずっと解放してくれないんですよ。「こいつを黙らせるには、こいつに死んで貰うしかない」と。起きる度に、毎朝、「あぁ、また生きてるわぁ。どうして寝ている間に心臓が止まってくれなかったのかな」って。落胆して目覚める。

僕は、どの道、青白い顔をして、生きる氣力なしで、それこそフラフラ〜っとして辛うじて生きてましたからね


【 半分、黄泉の国に足が入っている感じですねぇ。常に死を意識しつつも、苦しみながらも生を繋ぐ生き方をした青春時代は、逆に言うと、貴重で大きな財産となったでしょうね。】


うん。まあでも、お腹が空けばご飯を食べるしね。「お前、飯食うな」と。寝るし。「お前、考えている事とやっている事が矛盾してるじゃないか」と(笑)。「”無” になりたいんじゃないのか?」と。あの頃は、自分でも振り返ると、壊れてましたよ

同時にね、「何で皆、生きてるの? よく生きてるわ」とも思ってましたね。「”アレ” について、疑問を感じないのかな?」って。「”アレ” について考えると、とてもじゃないけど生きられない筈なのに、何で皆、楽しく生きているんだろう?」って。それも不思議だったですね

哲学者の中には、僕と同じ様に病的に考えている人もいましたよ。今でもそういう人が何人かいて、そういう人達の書いたものを読みますけどね。「そうだよね、そうなるよね」、「そう考えざるを得ないよね。あなたは正しい!」、と(笑)。


【 そういう立場は、心底分かるんですね。】


共感してます。「そうそう、魂がないとなると、そうなるよ。よく頑張ってるよね」って(笑)。僕はそれに耐え切れずに、死のうとしましたからね。

自分の中では、哲学では決着が着いていましたけど、でも、「まだ哲学をしている人がいるというのは、何か新たなものを見付けた人がひょっとしたらいるのかなぁ? また何か新しい本でも出ているのだったら、読んでみようかなぁ」と、思ってね。それでいつも行っていた、京都の駸々堂という本屋の哲学書のコーナーに行ったんですよ。駸々堂の哲学書のコーナーは、ほぼほぼ僕の本棚ですからね。

と、そうしたら、何だか見慣れない装丁の本が置いてあるんですよ。哲学書の中に。たいていの哲学書というのは、お金が掛かっていて上製本なんですよ。なのに、なぜかその中に、まあ言ってみたらボロっちい(笑)本がペラっと混じっていてね、「ん? 何これ〜!」って思って手に取ったら、「エドガー・ケイシーの『転生の秘密』?」とね。

その本は、哲学書の所にあったので、当然哲学書だと思ったのね。それ迄に哲学書は一通り読んで、熟知していたのに、「未だかつて ”エドガー・ケイシー” という哲学者の名前は聞いた事もないわぁ」と、そこで読み始めたんですよ。(本棚から『転生の秘密』を取り出しながら)当時の本はもっとちゃっちい感じで、表紙にアンモナイトの写真が載っていたんですよ。

パラパラっと最初の方を読み始めたら、「ひえぇ〜!」っとなってね(笑)。

哲学書にしては、出だしから珍しいですからね。


【 何が目に飛び込んできたんですか?】


あのですね、これですよ。

「ほおぉぉ⤴︎」、「ふえぇぇ⤴︎」ですよね。

他の哲学書と比べたら、えらく違うわ思って、「ちょっと買って帰ろうかな」と。

夕方から読み始めたんですよ。もう、ぐわぁぁっと引き込まれて、あっという間に読み込んでしまって。読んでいる最中に、「何じゃこりゃぁ〜!」って、もう雄叫びですよ(笑)。

それ迄は、「”人間は単なる肉体的存在で、死んだら無になる”って聞いて、それが真実だと思っていたのに、ここに ”人間が死んだら無になる存在ではないと、理屈ではなく、現象として示した人” がいたんじゃないかぁ!」って(笑)。


【 今迄の人生、どうしてくれるんだ?、ですよね。でも、この本を最初に読んでしまっていたら、人生、全然違いますよね。やっぱり、最初に長い苦悩の日々があったからこそ、強烈に響いたんですね。】


そうね。インパクトが大きかったんでしょうね。恐らく、最初から魂の存在を肯定してこれを読んだ人は、「ああ、ふんふんふん」で終わったかもしれないですよね。

霊魂を全否定していた人間が、それこそ反駁の余地なく「どうだー!」と言わんばかりに示されて、「何じゃこれは〜っと!」とびっくりしながら読んだ訳ですよ。

そして、明け方に読み終わって、そしたら僕はそれ迄の ”暗黒の絶望の世界” から、”歓喜の 国” の住人になってしまってね


【 大逆転人生ですね。】


「人間っていうのは、”無” どころか、”永遠不滅の存在” ではないか! しかも単に ”永遠不滅” なのではなくて、”驚くほど高貴な存在” じゃないか。その上、この太陽系を超えて高い次元に我々が住み得る可能性がある!」 という事を、この 1 冊で知らされて、一夜にして、歓喜の住人になったんですよ

読み終わって、明け方に、狭い下宿を駆けずり回ったんですよ。

狭い部屋で、2 時間ぐらいは喜びに溢れていたんですけどね、その後は、ムッカァーっと激しく腹が立ってきてね、「なして、高校の倫社の先生は、”デカンショ” の前に、僕にエドガー・ケイシーがいるって事を教えなんだーっ!」、「危うく死ぬところとだったじゃないかーっ!」(笑)


【 全ては、この大きな覚醒の為への必然でしたねぇ。】


そう、それで、決心したんですよ。学校の倫社の先生が、エドガー・ケイシーを教える氣がないんだったら、というか、世間がケイシーを伝える氣がないんだったら、「僕が全国津々浦々、北は北海道、南は九州・沖縄まで伝えて歩こうっ!」、これが、20 歳の時の決意なんですよ


【 まさに、成人しましたね〜!おめでとうございます。】


一瞬ですよ。1 冊の本で、生き方が変わってしまった


【 ”その 1 冊” とは、恐るべき確率で出会う訳じゃないですか。それに命を救われるって、本当に天の采配を感じざるを得ませんね。】


哲学書コーナーに、この本が入っていた事自体がおかしい事でね。本来、きっとオカルトのコーナーに入っているべき本ですけどね、本屋の店員さんが、ジャンルが分かっていなかったんでしょうね。


【 光田さんの為に、天が人を使って間違えさせたんでしょうね。】


そうねぇ。僕はこれに救われて、それで自分の人生は確定ですよ。”ケイシーを伝える” しかないと。もうそれで、”自分の人生、悔いなし” だと。だって、私は死ぬつもりだったんですから


【 余生ですね。】


「ケイシーに人生を救われたから、今生は、ケイシーに捧げよう」と決意、それから、その決定からは 1 回もずれた事がないです


【 命の恩人なんですね。】


そうですよ。”忠犬ハチ公” の如く、慕ってますから。「あなただけです」と。


【 素晴らしいですねぇ。】


素晴らしいかは分かりませんけど(笑)、だから、大学を卒業する年も、就職先は、『転生の秘密』を世に出した たま出版と決めました。

忘れもしない、大学 4 年生の時に、京大の時計台の横に電話ボックスがあって、そこから たま出版に電話してね。「就職したいんですけど」と言ったら、受付の人が、その当時の編集長だった韮澤さんに代わってくれたんです。

「『転生の秘密』を読んで救われた学生です。ぜひ、そちらの営業部に入れてください!」と、頼んだんですよ。そしたら、韮澤さんに、「そんな人は要りません」と。それで、京大と言えば考え直してくれるかなと思っって、「京大の 4 年生なんですけど」と言ってみたら、「ますます要りません」って。

もう、落胆でねぇ。「こんなに熱意のある僕を、採用してくれませんか? 入れてくれませんか?」。「要りません」って。もう、ビックリだね(笑)。自分では、絶対に入れて貰えるもんだと思っていたから。「私を入れなくて、誰を入れるんだ?」 みたいな。


【 まだ、するべき事があったんですね。】


入れないと思った時に、どうしようかと思ってね。だって、20 歳以降は、専門課程に入ってからも、ひたすらケイシーしか勉強していませんからね。成績、ちゃらんぽらんですよ。僕の学科は、京大の工学部、金属学科というところで、75 人いたんですよ。僕は成績が 72

番だったんです。まだ下に 3 人いたんじゃないのって言われるんですけど、彼らは留年しているので、卒業した中では、僕が最下位。全部ギリギリで単位を貰った人間ですからね。

もう、たま出版しか考えていなかったから、しょうがない、かくなる上は大学院に行こうと思ってね。 でも、先生に、僕の成績ではとても合格はしないと言われました。でも、受けるのは自由だと。

それで 8 月にある試験に向けて、 6 月から 2 ヶ月間とりあえず勉強するんです。でも、ほぼ 4 年間のブランクがありますから、皆に無理だと言われたんですけど、一応頑張ったんです。


そうしたら、試験の 1 週間前に、夢を見てね。それは、村上先生の試験だったんですけど、その試験問題が、丸々 1 問見えたんですよ。それで、翌朝、友達にその話をするんですが、誰も信用してくれない。「村上先生は、未だかつて、そんな分野から問題を出した事はない。傾向と対策からしたら、そこは全く出ない」と言われたんです。それで、「ああ、そうか」と、僕も勉強しなかったんですよ。

そしたら、今度は、試験の当日ですよ。明け方に、数学の証明問題を自分が解いている夢を見て、「おお、こんな問題が」と思いながら目覚めたんです。エドガー・ケイシーは、”夢というのはとても大事だから疎かにするな” と言っていますから、これも何かお知らせかもしれないと思って、朝、30 分間掛けて、その証明問題を暗記する事にしたんです。理屈では分からないので、暗記だけはして行こうとね。

それで、試験会場に着いたならば、決められた席に座って、前後左右の友達に言ったんですよ。「今日の試験問題、夢で見たよ。こんな問題だったよ」と。

最初の試験が数学でね、「用意、始め」で問題用紙を開いたならば、僕が夢で見た通りが出ていたんですよ。そしたら、前後左右が皆、驚きますよ、「うおぉ〜!」って(笑)。

僕は覚えたてだから理屈はともかく、暗記したまんまを書く訳ですよ。


【 すごいですね〜。】


でしょ。それで、3 時間目ぐらいが、村上先生の試験問題だったんです。でね、「用意、始め」で開いたならば、何と僕が夢で見た通りの問題が出てたの! そしたら、教室がどよめいたんですよ。だって、1 週間ぐらい前に、色んな人に夢の事を言いましたからね。試験官が「何騒いでいるんだ!」って言うくらい、どよめいたんですよ。

それで、合格発表の日、成績順に合格者の名前が出るんですけどね、発表された名前を上から見るんです。30 番ぐらいを見たところで、自分はもうダメだと。留年しようと・・・。そして、最後の 38 番というのを見たら、自分の名前が書いてあったんですよ。

その後、しばらくは、「最近は神様のお告げはないのか?」って、よく言われましたね。あと、「お前みたいにずるい奴はおらん」ともね(笑)。最低の勉強量で、一応、学歴だけは同じ様に見えるって。

まあ、そんな感じで、2 年間、大学院に行きながら、ケイシーをひたすら読み続けました。


【 大学院を出る時も、就職先の希望は たま出版だったのですか?】


そうなんですが、また韮澤編集長に、けんもほろろに断られると思って、そこは大学の先生に勧められた研究所に入る事にしました。茨城の東海村にある、原子力研究所です。そこで一応 4 年間、研究はいたしました。

それから、また夢を見てね。その夢をきっかけに、「研究所を辞める時期なんだ。ケイシーの研究で生きよう」と思って、28 歳で辞めて、ケイシーの研究生活に入ったんです。その後 2 年間を経て、30 歳で たま出版に入れて貰えて、翻訳をしたりする様になったんです。


【 ケイシーの研究というのは、既に日本語に翻訳されているものをベースにという事ですか?】


日本語訳のものは、大学院時代に既に読み切ってしまって、それも何回も読んだので、28 歳からは、洋書を読み始めました。これを全部、片っぱしからね(光田さんの写真の後方、本棚の上部にずらりと並んでいる黒い背表紙のもの)。


【 それは、リーディングの記録ですか? 取り寄せられたんですね。】


そう。研究所時代には取り寄せていてね。給料を貰っていたので、それでケイシーの本を買い漁っていてね。

これらの本は、テーマ毎に纏められているんですよ。リーディングの資料は膨大にありますからね。その中で、”瞑想”の本、”夢解釈”の本、”占星術”、”キリストの初期の話”、”感情のコントロール”、”エジプト古代”、あるいは ”超古代文明”などに分類されていて、それらを片っぱしから読んでいってね。

研究所を辞めるきっかけになったのは、『神の探求』を翻訳する為だったんですよ。最初は研究所に勤めながら翻訳をしようと思ったんですが、実際に手をつけてみたら、とてもじゃないけど仕事をしながら片手間に翻訳する様なレベルではないという事が判明して、もうこれは潔く会社を辞めて、翻訳に専念しないと、と思ったんです。

で、一応トライするんだけども、まだまだその頃の自分の英語力では難しいので、まずは下準備の必要がありました。中途半端なケイシーの理解では、それを訳せなかったんですよ。

『神の探求』という本自体は、とても薄いものなので、すぐに訳せると思ったのに、実際に始めてみると、とても難しい本でね。横のものを縦にする事はできるけど、それを読んでも理解できないんですから。


編集者が、『神の探究』という本を出す為だけに、かなりのリーディングをとったんですよ。大半がそれらの抜粋で、所どころに自分達のコメントを加えながら仕上げた本で、7 割が生のリーディングに近い形です。特に、アフォメーションというのは、キリスト教の色彩がものすごく濃くて、キリスト教を何も知らない僕には何の事だか分からないんですよね。


【 そうでしょうね。聖書の言葉とかも、物語や表現している独特の言い回しが理解できて初めて心に入ってきますよね。】


例えば、基本的なところで、”Oh Lord”って言われてもね、「誰ですか?」って。


【 ”主” ですね。まずは、そこからだったんですね・・・。前途多難な気配が・・・。】


(笑) とりあえず、横を縦には変換できるけど、意味が分かんない。訳者に! で、訳者に意味が分かんないものを、世の中に出したら、読者が余計混乱する、と思って。


【じゃあ、聖書を同時に研究しながらの翻訳だったんですか?】


まあ、とりあえず翻訳をした後で、「これは今出したらダメだ」と思って、聖書を研究しようと。その頃僕は、全然聖書も知らなかったし、教会に行った訳でもないので、普通に世に出ている聖書の解説書を幾つも読んだんですよ。ところが、それを読んでも、ケイシーのリーディングは分かんないんですよ。

例えば、ケイシーは聖書の中に生まれ変わりを認めますし、イエス自身が 30 回の転生をしていることが前提ですからね。


【あ、でも、もともとキリスト教自体、輪廻転生を教えていたのに、途中から削除されていますもんね。】


そうそう、そうなんですよ。でも、僕が翻訳をした頃は、それは分からないですからね。何しろ、普通の聖書の解説書を読みましたからね。

だから、「これはリーディングを元に聖書を理解するしかない」と思いましたよね。

ちょうどその頃、ケイシーの全リーディングが 1 枚の CD になったんですよ。それを僕が中身を解析して、ケイシーが聖書について語っているところだけを徹底的に抜き出すというプログラムを作ったんですよ。それを頼りに、創世記から黙示録までをずっと読む事にしたんです。


【 すごい〜!まあ、でも、本は読み慣れてらっしゃるから・・・。】


それは、数年掛かりました。そしたらね、聖書がものすごく面白い本なんですよ。それ迄、「何、これぇ〜?」って思っていたところが、「おお、そういう意味かぁ!」って、次々と分かる様になっていってね。聖書が分かる様になって・・・、と言っても、それにも 7 年ぐらい掛かりましたけどね。

で、その成果を元に、また『神の探究』を翻訳し直したんです。だから、上巻を翻訳するのに 15 年、更に、下巻を翻訳するのに 6 年、全部で 21 年掛けてね〜(笑)。


【 やり遂げられたんですね〜! 渾身の翻訳書なんですね。感服です。頭が下がります。

ケイシーは、悩める人や病める人を助けたいと思った時に”光”との出会いがありましたけど、光田さんは悩める自分をまず助ける形でケイシーと出会って、救われたご自身がケイシーのリーディングを福音として、”光”として、世の中の悩める人や病める人を助ける人生を歩んでらっしゃる。】


僕は、ケイシーのリーディングは僕にとっての”福音”だと信じていますね。

自分が救われたので、自分と同じ様に悩んでいる人がいたら、救いたい。うっかりすると自殺するかもしれないからね。そういう人達に、早くケイシーを伝えて、「人間は素晴らしいよ、驚くべき崇高な存在だよ」と思い出して貰いたい。


【 やっぱり、20 歳の時のケイシーとの出会いが、光田さんの人生最大の喜びでしょうか?】


もちろん、もちろん。


【 では、色々な体験を振り返って、最大の困難だったと思う事は、何でした?】


幾つかありますけどね。でも、とりあえずは、それらを克服した後に、大きな喜びがあったので、特別困難だったという事は、もう記憶の中には何もありませんね


【 だからこそ、全ての事を、笑って話せるんですね。】


そうそう。だから、過去を振り返って悲しむべき様な事は、何もないですからね。あんまりね。


【 私はいつもいつもヒプノセラピーのセッションで実感しているんですが、やはり困難の度合いが大きいほど、それが反転して大きな歓喜に一瞬に変容するのを目の当たりにしながら、人生の意味や体験の奥深さを噛み締めています。困難と向き合うプロセスを経て、見えてくる世界というのが全然違いますよね。】


うん、うん。誠に〜! やっぱり悩みは深くて大きい方がいいよね〜(笑)! そして、その変容は、一晩で。1 冊の本で。「この人生は、これをライフワークにしよう!」と


【 ご自分自身の設定だと思いますか?】


それは分からないけどね、僕はその時、決めたんです。


【 ケイシーを通して、その後、たくさんの出来事や人との縁があったと思いますが、印象深かった事はありますか?】


幾つもあり過ぎるけど、結婚する時とかね。うちの奥さんと知り合ったのは、夢がきっかけですもんね。

僕の友達で、ケイシーの夢分析をずっと研究している坂内さんの生徒の 1 人だったのが、僕の奥さんになる人で。ある日、坂内さんが僕と彼女を引き合わせるという夢を見るんですよ。坂内さんは、片方は作詞家として成功しているのに、もう片方は貧乏な翻訳者で、とてもじゃないけど釣り合わないと思って、その夢を見なかった事にするんですよ(笑)。

そうしたら、しばらくしてまた同じ様な夢を見て、引き合わせる必要があるのかと考えたんですね。


その頃、うちの奥さんも、夢を見るんですよ。決定的なのは 2 つぐらいあってね。

彼女に会ったのは 10 月下旬ぐらいだった。

そして、僕は出会ってからの僕の正月の初夢が、うちの奥さんになるべき女性を、広島の実家に連れて行くというものでね。その中で、実家は旅館みたいに大きいんですよ。で、なぜか彼女をお風呂場に連れて行くんですよ。そして、「我が家ではお風呂の残り湯を、洗濯なんかに使ってます」って説明して、幾つか部屋を見せた後に、両親が待っている居間に連れて行くという感じだったんですよ。

そうしたら、正月 2 日に彼女から電話が掛かってきてね、「光田先生、初夢を見たんですけど、解釈をしていただけませんか?」ってね。で、話を聞いたら、「知らない男性に大きな家に連れて行かれるんですよ」って言うもんだから(笑)、「ちょっと待ってください。あなたの見た夢を聞く前に、私の見た夢を先に言ってもいいですか?」と語ったら、見た夢がお互いに重なっていて、彼女が「えっ!」と驚くんですよ。

それで、「この人、全然タイプじゃないけど、夢は ”この人でいい” って言っている様な氣がする」って。


彼女はまたしばらくして、次の夢を見るんですよ。それは、古い木造の 2 階から外を見る。そこから湖の様なものが見えて、その湖から群青色の曼荼羅がぐーっと上がってくる。それで、ちょっと住み辛いけれど、この家に引っ越して来ても大丈夫なんだな、と自分で納得するんだそうですよ。そして、そこの家に住んでいる男性に、「ところで洗濯機はどこにあるんですか?」と訊いたらば、彼が、「うちは洗濯機は外置きです」と答えたそうですよ。で、「今時分に洗濯機が外置きなんて。冬場の洗濯は寒いだろうに」と思って目が冷めたんだそうです。

それで。また彼女から電話が掛かってきて、その夢解釈を頼まれる訳ですよ。「木造の古い家なんですけどね」と始まって、間取りを訊くと、「こんな間取り」と言ったのを聞いて、「あ、それはうちですね」って(笑)。

「本当ですか? 今からチェックに行きます」って、世田谷から横浜まで来たんですよ。それで、夢で見た通りだった。2 階から湖ではなくて、鶴見川という大きな川が見えるんですよ。


【 そこから、群青の曼荼羅が上がるんですねぇ。】


実は、そこは毎年花火大会が行われるくらい大きな川なんです。


【 ちなみに洗濯機は外置きなんですね。】


外なんですよ。それで観念したらしくってね。「タイプはこの人じゃないけど、魂は ”この人でいい” と言ってくれている」と・・・。


【 それは、髭がボウボウの時ですか?】


髭がボウボウの時(笑)。それでまあ、婚約をする事になり、彼女の両親に会う事になった時に、伸び放題だった髭を剃ったんです。彼女のお父さんが、髭の生えた人が好きではないと聞いたので(笑)。そうしたら、トントン拍子で。

出会って 4 ヶ月後に婚約をし、結納を交わし、2 ヶ月後にはハワイで結婚式を挙げたんです。


【 まあ、おめでたい!】


ありがたい!

こんなのが、ビッグイベントですからね。


【 正しい夢解釈のお陰なのですね。私も面白い夢を見たんですが、その解析は、じゃあ後で・・・。ところで、人生で、何かをやり直してもいいとしたら、何がありますか? これは、いつも皆さんに訊いているので。】


(しばらく考えて)ううん、大丈夫かな。やっぱり ”今” を肯定してしまったら、過去も全肯定ですものね。


【 やはり、全ての体験があった上での ”今” という事なんですね。】


そうね。僕、大学時代の学校の成績が非常に悪くてね。当時、成績の良い生徒が行く幾つかの研究室と、成績のよろしくない生徒の行く研究室とがある訳です。で、当然ながら、僕は後者なんですよ。

あの頃は、例えば、半導体とか、色々な最先端の材料を扱う研究室が 1 番華やかでね。僕の行く事になった研究室は、地味な所でね、学生の人氣がなかったんですよ。僕は成績が最下位だったので、選択の余地なしですから。何しろ、成績順に研究室に入りますからね。僕は、最後に余っている・・・というか、空いている所に入れて貰った。

でもね、そこで勉強した事が、後々にエドガー・ケイシーの重要な治療法の 1 つを理解するのに、極めて重要な学問だったんですよ。


【 それは、どういったものなんですか?】


ケイシーの神経系の病気を治す時に使う電氣療法があるんですけど、その電氣療法を理解する為に必要な学問を、ちょうど私は大学の時にやっていたんですよ。


【 わあ、そうですか。】


お陰さまで、成績が良かったら、僕はそれをやらなかったでしょうしね。成績が悪かったお陰で、それを必然的に勉強せざるを得なかった。勉強したお陰で、ケイシーの言っている事が分かる様になっていた。


【 まあ、本当に上手くできているもんですねぇ。】


驚くべき事に! あと、研究所時代でも、なぜか僕はウランに紫外線を当てて、その時出てくる蛍光を測定する事でウランの濃度を測定するという研究をするんですけども、ケイシーのガン治療法というのは、紫外線を当てて、物質を”励起(れいき)する”という方法 を用いる訳ですけれども、まさに僕が研究所時代にやっていた事が、ケイシーのガン治療法で生かされるんですよね。

色んな所で、無駄なく生かされる。だから、大学院時代の事も、研究の内容も、研究所時代の研究も、全てがエドガー・ケイシーをしっかりと理解するのに、ちょうど良かった。


【 まあ。全てが、”ローマ” じゃなくて、”ケイシーに通じている” のですね。】


だから、大学時代も、両親の反対もなく哲学科に行ったのならば、そうはならなかったんですよ。両親が一生懸命反対してくれたお陰で、僕は工学部に行き、ケイシーの装置の事を把握する事ができたんですよ。なので、否定する材料は何もない訳なんです。


【 全部、見事に丸く収まっていますね。】


ねえ。面白いですよね。


【 もしも仮に、ご自身で光田秀というキャラクター、家族、環境を選んで生まれてきたとしたら、それはこの人生で何を成し遂げる為なのでしょう?】


多分僕に期待されているのは、エドガー・ケイシーという偉大な人物の驚くべき功績と福音を、それこそ全国津々浦々に知らせていく事だと思っているんですけどね。そう信じて生きています


【 高尚なお役目ですね。では、”本棚や柱の角に頭をぶつけながら絶望感の渦中に生きていた若かりし頃の、まだエドガー・ケイシーと出会っていない頃の自分自身” に、"大きなお役目を嬉々として遂行されている今現在のご自身" から、何か声を掛けてあげるとしたら、何ですか?】


うーん。「しっかり絶望しなさい」と。「絶望すべき時は、しっかりと絶望しておきなさい」。僕は、あの時、絶望を味わい尽くしていなかったら、こうはならなかったですもん。「中途半端に妥協するぐらいならば、徹底的に絶望した方がいいよ」とね。「でも、ちょっと、早まらないでよね」ってね(笑)。


【ケイシーが、『目の前の機会を誠実に果たすなら、より大きな機会が与えられるであろう』と述べていますが、光田さんは、絶望感という大きな機会とも誠実に向き合い切りましたね。】


そうですね。インチキはしたくなかったんですもん。


【 苦しみから逃れる為、人生を諦める為ではなく、人生に誠心誠意向き合う為に ”死” という ”人生の最終地点” を見詰めていたと言えるのでしょうか?】


そうですよね。あのね、中途半端にしたくなかった。なあなあは嫌だった。本当かどうか確かめたかった。中途半端に生きるよりも、潔い終わりを意識したし、確かめないで適当な職業に就くよりも、結局ダメならダメ、いいならいいと、とにかくはっきりさせておきたかった。はっきりしないうちは、人生を決定できなかった


【 光田さんの場合は、本当に極限まで思い悩んで、いよいよ最終段階の秒読みの様な崖っ縁で ”光明” に照らし出されるじゃないですか。本当に中途半端が似合わない人だなと、今日、思いました。】


あのね、お正月に撮った写真があってね。お母さんもそれをアルバムに入れていなかったの。僕は、それを初めて見たんです。

実家の家を処分する時に、お母さんが隠していた写真があってね、それは、僕が 12 月 15 日に誕生日を迎えて 20 歳になって初めて撮った家族写真なんですよ。広島の実家に帰った時の。両親と妹 2 人と僕との家族 5 人で撮ったんですが、それは、僕もちょっとびっくりしましたよ。

もの凄く激しい目付きで、カメラを睨んでいましたね。


【 へえぇ。その時の心境というのは思い出せますか?】


はい、分かりますよ。「なぜこんな意味のない事を、またするんだ。意味がないって事が、まだ分からんかいなぁー!」という目だったですね。もうね、冷たい顔をしていましたね。カメラを睨み付けてましたね。お母さんも、その写真を家族のアルバムに入れられなかったんでしょうね。


【 でも、処分できずに、お母さまはその写真をとっておいたんですね。】


とっておいたの。隠してあったの。で、両親が亡くなって家を処分する時に、妹がその写真を見付けてね、「お兄さん、こんな写真が出てきましたよ」って。


【 20 歳の時の自分と改めて対面した時、どう思いましたか?】


「自分は、こういう顔をしていたんだ・・・」と。「あの頃は」。

激しく人生を憎んでましたからね。生きている事を憎んでましたからね。生きている事が許せなくて、自分の命を憎んでましたからね。あの頃はね。


【 大変な宿題に取り組んでいる最中の。】


あの頃はね(笑)。なので、今は、その反動。いつも、ちゃらんぽらん(笑)。


【 バランス。】


バランス、バランス。


【 もしもまた、お父さまに再会するとするじゃないですか。光田さんの人生の歩みをご覧になられているとして、その時、どんな言葉を掛けてくれると思いますか?】


お父さんが? お父さんが話し掛けるのかなぁ?

まあ、僕が死んだとして、お父さんが出て来てくれたなら・・・? いやあ、そんな事今迄、考えた事もなかった〜。


【 じゃあ、初体験ですね。試しに考えてみましょう。】


死んで、お父さんが待っていたとして、出迎えに来たとして、はっと目が合ったとして・・・ねえ。うーん。


【 例えば、光田さんは、長い苦闘の末、輪廻転生を受け入れて、人生や自分の永遠の魂に対する安心感や信頼感を取り戻せたじゃないですか。】


あのね、うちのお父さんが話し掛けてくると言うよりは、僕が思うのは、僕がお父さんに向かって、ニヤってすると思う。


【 ニヤっ、なんですね。お父さまは、人生の最後迄、結局は輪廻転生の概念を拒み続けて亡くなられるんですよね。ずっと、人生に虚無や絶望を感じながら?】


きっとそうですね。


【 かたや、その影響下にありながら、必死で自分の人生の方向性をや魂の理想とするものを見付けようと悶えながら、大きな希望と夢を抱くに至った息子・・・という、ある意味両極端な親子関係ではないですか。だから、再会した時に、一体どの様な会話を交わすのだろうか?、と私が勝手に好奇心を抱いている訳なんですけどね。】


僕はね、「やっぱり霊魂はありましたね」と、まずは言うと思う。ニヤっとしながら。で、お父さんは、「ほんまやね」って言うんでしょうね。「そうだったね」って。

そして、この親子関係を結んだ僕達は、それで良かったな、と思っていますね


【 お父さまも同意されていると?】


良かったと思います。何だか訳の分からない息子が出てしまってね。思い通りにならない息子がね。「やれやれ」と何度も思ったんでしょうけどね。ねえ。

・・・考えた事がなかったな〜(笑)。


【 エドガー・ケイシーが、<人間というのは、神の身体の中の必須の部分として、神との共同創造者となるべく神のうちより投影され、自らの霊性を自覚する ”魂”、魂の力を形にする ”精神”、自らの行動を選択する ”自由意志”を持っていて>、<その ”自由意志” は人間だけが完全に持っているし、人間だけが神に反逆もし得る>と述べています。

光田さんの波乱万丈の人生物語に触れさせていただいて、その事を身を以て体験し、魂の理想獲得の境地に至られた光田さんの魂は、まさに <自分自身でありながら全体として 1 つ> であり、宇宙や神の摂理と調和している事を強く感じました。】


でも、神に反逆さえもできないんですよ。何しろ、神は存在していない事が前提で生きていましたから。


【 神を否定していると言っても、一応、否定の対象になる概念として、神は確かに心のどこかには存在していたのではないかと思うんです。他の誰よりも、痛烈に神を否定する事で、常に意識し続ける訳ですから。だから、光田さんの神との繋がりや、関係性というのは、実は人生の初めから、ものすごく強かったんだなあと、まあ、勝手に想像しています。神という言葉を使わないのであれば、”宇宙の創造主” とか、”生命を生命たらしめるもの”と言いましょう。ケイシーのリーディングを通して、これらに開眼していって、その知恵や英知を自分のツールとして、ご自身や他者や世界を導くという宇宙や神の摂理と完全に一致した日常を送っていらっしゃる。】


できるだけね。そうありたいと思っています。


【 その知恵や英知を”福音”として情熱をもって世界に伝えていこうという意志をもった時点で、完全にケイシーの分身ですね。】


まあねぇ(笑)。ケイシーのやりたかった事を引き継いでね。嬉しいですね。ありがたいです。


【 ケイシーの創り上げたサークルを、光田さんが更に大きなサークルを創り、たくさんの人々がまたどんどんサークルを広げていっていますね。】


そうそうそう。そうですね。そして、<僕の人生は完全に神の偉大な配慮のうちに在る>、と完璧に信じています。色々な面でね。神は、全てを掌握して、驚くべき仕方で導いてくださっていると。僕には分からない仕方でね。それがあるタイミングで、「おお、それがそういう事だったんだ」と次々諒解させていただける

とき子さんにも会えて。


【 ありがとうございます。感謝しています、本当に。長いお時間も割いていただいて。】


いえいえいえ。何でもどんどんと訊いてください。


【 <人の能力や才能は、その人の掲げる理想の高さまで引き上げられる>。私もこの事を信じて自分の人生を誠実に生きたいですね。】


素晴らしいでしょう。小賢しい事を考えれば、小賢しいレベルに迄しか上がらない。

僕のケイシーとの出会いは、<存在する事の圧倒的な神秘と崇高さ、喜び、希望>の啓示で始まりましたからね、僕はそこを人々に伝える。そして、これは万人に共通する事だと思うんですね。<存在する事の喜び>を周りに伝えていく


【 そこですよね。何の為の ”生” かというのは、誰しもがおそらく、一生のうちに 1 度は考える事だと思うんですが、苦難の時も全て含めて、”生命の讃歌” というか、”愛” というかを、自分の存在を通して自分の表現で周りに伝える、という事・・・】


誠に。


【 何かと誘惑の多い、邪まな考えも起こし易い 3 次元世界に生きながら、そうであったとしても、”自分軸” をしっかり見付けて魂を高める喜びの中で生きる道を、皆さんに、まあ、特に個人的な話になると、自分の娘なんかには見付けて欲しいなぁと、光田さんのご著書、『眠れる預言者 エドガー・ケイシー』を読みながら、強く思いましたね。

あの本は、それこそ、ケイシーのリーディングを基盤として、様々な英知が凝縮されているじゃないですか。例えば、キリスト、仏陀、占星術、星間滞在などなども含めて、ものすごく幅広く網羅していますよね。】


そうそう。遠大なビジョンで、人間の可能性をね。


【 改めて、ケイシーの功績は偉大だなあと思いました。同時に、その宇宙的スケールの英知を伝道するお仕事をされているというのは、素敵ですね。これからもどんどんと伝えていかれる事を、応援しています。

では、最後に、次世代へのメッセージを、何かお伝えいただけますか?】


<人間の本質が、永遠不滅な高貴な魂である>という事を、具体的な現象として示してくれたエドガー・ケイシーは極めて稀有な人だと思っているんですよ。その人の情報をしっかりと探求すると、病氣の治療法が分かったり、精神的な悩みの解決法が分かったり、霊的な探究法が分かったりします。

そういった意味で、ケイシーが残した情報というのは、現代の福音だと私は信じているんです。その福音に多くの人が触れて、ご自分の人生を高める材料にしてくだされば、とても嬉しい。ぜひ、探究してください。

そして、あなたの崇高な存在を通して、生きる喜びを人と分かち合って、この世界を豊かにしていってください


【 今日は、昨日に引き続き、長い間ありがとうございました。ご縁に深く感謝します。】


こちらこそ、ありがとうございました。



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”   エドガー・ケイシーのリーディングに、「人は、その人生で何を理想として掲げたか、またその理想に対して何を為してきたかを造り主に釈明しなければならない」という言葉があります。つまり、私たちは自分の持ち得る最高の理想を見出し、その理想に対して人生を活かしている限り、何ら恐れるものはないのです。

それ以上の生き方はできないのですから。

しかもその鍵は私たちの内にあるのです。人生の扉を開く霊的理想をぜひ自分のものにしてください。                               

                                    光田 秀 ”


 

写真 1) 光田 秀さん (2018-11-7)

写真 2) 白鳥 哲 監督作品、『The Reading / リーディング』の劇場公開用ポスター (2017)

写真 3)『転生の秘密』(ジーナ・セミナラ著 / たま出版)

写真 4)『転生の秘密』の冒頭

写真 5) 光田 秀さんとケイシーセンターの方々(中央お 2 人)と。 (東京都渋谷区、2018-11-7)


 

日本エドガー・ケーシー・ケイシーセンターのホームページ:https://edgarcayce.jp/


『The Reading / リーディング』に関する情報(白鳥 哲 監督のホームページから):

http://officetetsushiratori.com/readings/

 

光田さんの著書、翻訳書、並びにケイシー関連の本は、こちらから:

https://edgarcayce.jp/?books














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