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大江 幸久 という 生き方 - その 1

更新日:2020年3月12日

TOKIKO インタビュー 15

Extraordinary Ordinary People / 人並み外れた身近な人々




2019 年 8 月 8 日。

中学 3 年生の娘を誘い六甲山(ろっこうさん / こちら)の山頂へ車を走らせた。

クラブ活動が忙しい娘が、その日の午前中だけ時間が空いていたので、その前日に思い立って、急遽決定した事だった。


私は、なぜかここ 1 − 2 年の間に、瀬織津姫(せおりつひめ / こちら)さまや国常立命(くにとこたちのみこと / こちら)さまといった神々のお名前が日常生活に頻出する様になってきていた。

国常立命さまにはすでに亀岡の出雲大神宮(いずもだいじんぐう / こちら)でご挨拶申し上げていたので、この日は瀬織津姫さまの磐座が鎮座する六甲比命神社(ろっこうひめじんじゃ / こちら)へ娘と詣でようと思ったのである。

瀬織津姫さまは、女性の為に働かれている神さまだとお聞きしていた。


ナビがある筈なのに、迷いに迷って予定よりも 45 分遅く到着した。午後からのスケジュールに間に合う様に大阪に戻れるのかという心配が募って、氣が動転した状態で神社に到着。狭い道の先の狭い場所に、日産セレナを乗り入れてしまった。


その同じタイミングで、 1 人の柔和そうな紳士がスクーターでやって来られた。ワンカップ酒や榊が幾つも入った袋を携えて、笹の生い茂る山道の参道へ入って行かれた。

その後を、足早に娘と追い駆けた。


どうも神社の”守りびと”の様に伺えたので、いつもの癖で、ついつい声を掛けてしまった。

すると、色々な説明に快くお時間を割いてくださった。

そして、判明した。

この方こそが、六甲比命神社の磐座(いわくら / こちら)を、瀬織津姫さまのものだと特定されたご本人だったと!


こうして、私は奇跡的なタイミングで、大江 幸久(おおえ ゆきひさ)さんとのご縁を瀬織津姫さまから授かった。


六甲比命神社の山道 / 拝殿前にて大江さんと娘と共に (2019-8-8)

私は拝殿に置いてある大江さんの印刷物を即購入した。

その日の夜、私は早速この資料を読み耽った。


まず目に飛び込んできた ”ホツマツタヱ” の文字。1 年半前に本屋で衝動買いしたホツマツタヱに関する書籍、半分読んで放ったらかしにしたままになっていた事を思い出した。

そして、読み続けていると、資料がピンク色の線でいっぱいになってしまった。



それから1ヶ月があっという間に過ぎてしまった。夏の展覧会の為に行っていたスウェーデン滞在から戻って来たタイミングで、私はどうしても大江さんにメールを送らなければならない氣がしてきた。

「もっと話が聞きたい〜!」



《・・・私は自分自身が、何も分からないまま(六甲比命神社に)参拝してしまったと思っていましたが、印刷物を読みながら、私が今まで興味があって調べた事、読んだ事、足を運んできた場所などが満載で、とても驚き、もしかしたら、ちゃんと理由があってそれらに興味を抱かされてきたのかと思えるほどでした。

ホツマツタヱ、空海、元伊勢・元出雲の神社巡り、廣田神社、日御碕神社、国常立命、小泉八雲、教育勅語、勾玉・・・などなど、私のここ最近の日常によく登場するキーワードが幾つも記され、ドキリとしました・・・》とお伝えし、インタビューを申し込んだ。


大江さんの印刷物、<六甲山 瀬織津姫・白山姫と若歌姫 和す・尽くす トノヲシテの復活!>

ーーーーー


大江 幸久(おおえ ゆきひさ)さんは、1961 年 4 月、鳥取県八上(現八頭町)生まれ


兵庫県西宮市在住。進学塾経営

ホツマと神話伝承研究家。”関西ホツマの集い” の代表

2011年、六甲山で瀬織津姫の磐座を特定後、御社の”お掃除係”をしている


著書に[八上 神秘の白兎と天照大神伝承](ブイツーソリューション)、[天照大神・瀬織津姫の因幡行幸](牧歌舎)、[トノヲシテ 瀬織津姫さま 言霊リメンバリング](ヒカルランド)、文監修DVD[六甲比命大善神社と瀬織津姫]がある。

 



大江 幸久 さん インタビュー / その1 < "繋がる" 編 >



【 大江さんとは、とても不思議なご縁でお会いする事ができました。】


そうでしたね。8 月 8 日に、六甲比命神社でお会いしましたね。


【 そうです。実は、最近になって特に瀬織津姫さまとのご縁を強く感じる出来事が続いていたので、大津の佐久奈戸神社(さくなどじんじゃ / こちら)の方には、ご挨拶に伺ったのですが、敬愛する出雲大神宮の禰宜さまに14 歳の娘と六甲比命神社への参拝を進言いただきまして、あの日に初めて足を運びました。】


そうだったんですね。1 週間に 1 度はお掃除などに行くのですが、いいタイミングでした。


【 本当に。それで、その禰宜さまにすぐに大江さんとの出会いを報告しましたら、『この方は、魂に古代やホツマの記憶をお持ちなのではないでしょうか?』とおっしゃいました。】


いえいえ、そんな事は全くないんですよ。


【 でも、強い繋がりはお感じなんでしょうね。】


そうですね。それはあります。

私はもともとは出身が鳥取の八頭郡(やずぐん / こちら)というところなんです。鳥取市の南でして、古事記に詳しい方でしたらお分かりでしょうが、”因幡の白兎(いなばのしろうさぎ / こちら)”の舞台の 1 つなんです。


大国主命(おおくにぬしのみこと/こちら)が因幡の白兎を助けるんですが、それはある場所に行く途中の出来事だったんです。大国主命とその兄弟の八十神(やそがみ / こちら)がとても美しい八上姫(八上比売 / やかみひめ / こちら)に求婚する為に争う様に出掛けて行った道中だった訳です。

八十神の方は、白兎に塩水で体を癒せば何とかなるとかって適当な事を言って騙すんです。兎はそれによって体が腫れてきていた状態だったところに、大国主命は八十神たちの大きな荷物を背負ってやって来て、白兎に会うんです。大国主命は、真水で清めてガマの穂の包帯に包まれていれば治りますよと言って、白兎を助けた。

そうしたら、白兎が預言者の様に、『あなたが八上姫の心を射止めますよ』と言った通りに、大国主命は八上姫と出会われて結婚するんです。


【 ああ、そういう話だったですねぇ。】


大国主命が娶られたそういう美しい姫がいた場所が、八上郡(やかみごおり)という私の出身地なんですよ。


【 そういう特別な土地柄でしたら、小さい頃から神話などに親しんで成長されたんでしょうね。】


それこそ保育園の頃に、影絵なんかを通して因幡の白兎に慣れ親しんでいましたから、割と小さい時から、地元にはその様な神話があるんだなあと感じていましたね

小学校 6 年の時に、歴史とか自然に大変詳しい先生が担任になりましてね、その先生が郷土史に特に詳しくて、その先生に連れられて、色々な遺跡や神社やお寺に行く事がありましたね。その先生は当時、地元の日本海新聞という新聞に鳥取の昔話などの連載記事を提供されていたんですよ。


【 それは興味深いですね。とても楽しそうです。】


楽しかったですね。そういうのがきっかけで、興味を抱く様になりました。


【 それはそうでしょう。ちょうどそういう年頃でしょうし。】


大江さんのご著書の数々

そうなんです。特に生まれ育った地元の事ですからね。

ちょうどそういう頃に、友だちから地元に 白兎神社(はくとじんじゃ / こちら)というのがあると聞きまして・・・、これは私が書いて自費出版で出した本なんですが(と、著書を見せていただく)、因幡の白兎について触れています。


そんな具合で、小学生の頃から神話には興味を持っていたんですが、中学〜高校〜大学では、そういうものから離れていました。

社会人になってからもしばらく離れていたんですが、でも、35 歳を越えて、塾の先生をスタートした時から、神話がちょっと氣になり始めたんですよね


【 何かきっかけがあったんでしょうか?】


実は、大学では西洋の学問を学んだんですが、やっぱり私には難し過ぎたという感じがあったんですよ。よく分からない・・・という感覚です。


【 詳しく教えていただけますか?】


まあ、大学って、西洋のものを金科玉条のものとして学問体系としても成立させているんですよね。研究の対象としても確立されている訳ですよ。

日本の学問というのは、そういう意味でそれほどメジャーではなかったり、深く研究されていなかったりという側面があって、当時は日本に哲学があるなんていう事もそれほど知られてはいない時代ですからね。

だから、自然と西洋の学問が主流になるんですよ。私も西洋の学問の洗礼を受けた訳ですけれども、私には難し過ぎて馴染まなかったんですよね。

そういうイメージしか持てませんでしたね。


【 どういう点が難しいと感じたんですか? 感覚的に把握し切れないとかいう事ですか?】


まあ、私には、言葉が難し過ぎて頭に入らなかったのと、あと、”人工的”と形容したくなるぎこちなさを感じた部分もあったんですよね。

それで、果たして人が生きていく上で、そういう難しいと感じる事を一生懸命に頭に詰め込んでいく事でしか、平和な世の中というのは創れないものなのか・・・という様な疑問を持ったんですよ


30 歳を過ぎて学習塾で働きながら子どもたちを見ていて、何か基本的な指針といいますか、「どういう方向で育てていくのがいいのかな」・・・という事を考える様になってきていたんですよ。子どもたちの教育に関わる仕事に就いて数ヶ月経った頃には・・・。

そうすると、西洋の学問はもう一つだったけれど、そういえば日本の神道は勉強していなかったな・・・と


それで、本屋さんでそれこそ学研の ”赤い装丁の入門シリーズ” の[ 神道 の本 ]を手に取ってみたところ、けっこう面白いじゃないかと思って、読み始めました。


その流れの中で 鳥居 礼 (とりい れい / こちらさんの ”ホツマツタヱ” の本、[「秀真伝」が明かす超古代の秘密]とも出会ったんです。ホツマツタヱの解説書なんですが、この本がなかなか衝撃的だったんですよ


【 鳥居礼さんは、日本画家の方ですよね。作風が素晴らしくとても好きで、いつかお会いしたいと思っていたんですよ。】


ああ、そうなんですか。残念な事に、昨年ごろに、突然亡くなられましたよね。


【 本当に残念です。】


ヨーロッパやウクライナの方に行かれて展示会をされていましたね。

実は鳥居さんには、平成11(1999)年東京に行って直接お会いしました。


鳥居さんとは、家内との関係でご縁があったんですよ。

東京の(牧神)画廊での鳥居さんの個展の開催中に 出掛けてご著書にサインをいただいたんです。

平成 11 年の 9 月 23 日なんですが、その日は実は結婚記念日なんですよ(笑)。だから、「ある意味、ちょっと仲人みたいですね」って鳥居さんに言った事がありますね。


【 どういう事ですか?】


まずはこの鳥居さんの本との出会いが、1993 年の秋口にありました。それがきっかけで関心を持って、この本[秀真伝が明かす超古代の秘密]を時どき読み直してはいたんです。

その時はまだ独身で、知り合いの生命保険のおばちゃんが「いい人いるよ」という事で、紹介をしてくれるという話になったんです。

大江さんがホツマツタヱと出会うきっかけとなった鳥居礼氏の著書と、奥さまとのご縁を感じた京丹後市の比沼麻奈為神社。

その女性と初めて会う事に決まった前日に、この本を読んでいまして、ちょうど 豊受大神(とようけおおみかみ / ホツマによるとイサナミの父、つまり、天照大神の御祖父にあたる。東北にいたが、そこへ天照大神を呼び、幼少の時から成人されるまで教育を施したとされる)さまの 外宮(げくう / こちら)の元の場所の事が書かれてあるページだったんです。

その元伊勢の比沼麻奈為神社(ひぬまないじんじゃ / こちら)の事が載っていて、京都府京丹後市峰山町にある「この神社に行きたいなぁ〜」と強烈に思いながら、一生懸命読んでいたんですよ。


【 比沼麻奈為神社に猛烈に惹かれたんですね?】


そうなんですよ。

それがですね、彼女が加古川に住んでいるという事だけは聞いていて、その人と神戸の三宮で会ったんですけど、もともとは出身が京都の北の方だと言うんです。

なぜか私は何の根拠もなく「ひょっとして・・・」と思って、「もしかして、峰山町ですか?」って訊いたんですよ。

そうしたら、「そうです!」って言ったんで、とてもびっくりしましてね〜(笑)!


【 すごい話ですね〜! 絶対に偶然ではありませんね。】


ああ、もうこれは神さまのお計らいだと思って、1 週間以内に「結婚しましょう」ってなったんですよ。トントン拍子で。

彼女の実際の出身地も、この神社から 4 kmぐらいのところで。

そういう経緯がありました。


【 "鳥居さんの本に出ていて興味を持った神社"が、奥さまとの運命を示唆していますね。す。必然だったんでしょうね。】


そういう事でしょうね。。

鳥居さんは画家なんですが、ホツマ研究の第 1 世代でしてね、ホツマ研究の第 1 世代というのは、お互いが ”我こそは” という感じで余り仲が良くなかったんですよ。第 1 世代は癖のある方が多かったんですがね、今は第 2 世代になってきていて、けっこう仲良くやりましょう・・・と、いい感じなんですよ。


【 大江さんは第 2 世代なんですね。私が本屋で急に氣になって 1 年半前に購入した[ホツマツタヱ発見物語]の著者である 松本 善之助(まつもと よしのすけ / こちら)さんはホツマを再発見して研究された方ですよね。】

そうです。


【 私は本屋で、ホツマも知らずにこの本を衝動買いしてしまったのですが、お陰で辛うじて話の流れが分かる程度の知識を持ち合わせる事ができ、それが大江さんに繋がる為の準備だったと思いました。】


それは良かったです。

松本善之助さんとは電話で比沼麻奈為神社の事についてお話しした事があります。「ちゃんと手紙に書いて送ってきてくれ〜!」と言われました(笑)。けっこう頑固オヤジみたいなところがありましたね。


【 頑固オヤジですか(笑)。でも、当時、誰もホツマツタヱを知らない様な状況だから、かなり強い信念を持っていないと成し遂げられない様な事をされたんですよね。古本屋で見付けた古書から、四国宇和島の小笠原家に辿り着く訳ですが、当の小笠原家も自宅にホツマツタヱの全巻がある事を知らなかったそうですからね。見えない力が働いているとしか思えない顛末ですよね。】


お導きでしょうね。

お導きと言えば、2014 − 2015 年の事なんですが、不思議なご縁を頂戴しまして、実際に瀬織津姫さまとお話をさせていただく事になりましてね・・・。


【 「どういう事・・・?」と突っ込みたくなる様な、かなりすごい話です。資料に書かれていた ”アマノコトネ” さんという方を通じて、なんですよね。】


そうです。”通訳” として。

実はね、アマノコトネさんとは、元出雲の出雲大神宮で出会ったんですよ。


【出雲大神宮なんですね。】


そうなんです。

2013 年に、出雲大神宮でホツマツタヱの集まりがありましてね、全国から研究者と愛好家が集まりました。

東京の研究者のいときょう(こちら)さんという方が主催でした。


【 いときょうさんなんですね! 温厚そうなあの紳士ですね。】


そうですね。

その時に、出雲大神宮をメインにしてホツマの研究発表などをした訳です。私も 1 人の報告者として話させていただいたんです。

そこにアマノコトネさんもいらっしゃっていて、挨拶をして名刺を交換しました。

その 1 − 2 年後にお声が掛かって、「瀬織津姫さまが大江さんと話をしたいとおっしゃっているんですが・・・」みたいな事を伝えてこられました


【 そうなんですか。それは、びっくりしませんでしたか? 神さまから話をしたいなんて急に言ってこられたら!】


「え、嘘でしょ」って思いますよね(笑)。「まさか、まさか・・・」と。

まあ、そういう次第でしたが、その連絡を受けた数日後に、そのまさかの瀬織津姫さまとの対話がスタートしたんですよ


【 そういう事は、それまでもあったんですか?】


いや、とんでもない。初めてですよ、そんな事は!

だから、最初はもちろん半信半疑でしたよ。


【 なぜ大江さんにお声が掛かったのかご存知ですか?】


結局、私が想像しますに、まあ、”六甲比命の磐座を私が特定した”という事でしょうね。

六甲比命神社の磐座と娘。(2019-8-8)

六甲比命講(ろっこうひめこう / こちら)という講の人たちがお世話をされていたんですが、10人ほどのメンバーの皆さんはご高齢で、頻繁に磐座に足を運ぶという事ができない状況でした。


【 六甲の山頂ですしね。】


お近くに住んでらっしゃる方々なんですけれどね。そうはいってもご高齢で、しょっちゅうは行けないという事で、私がお世話を買って出たんです。


【 大江さんが六甲比命の磐座を瀬織津姫さまのものだと特定した経緯は、大江さんの資料の方で読ませていただいたんですが、少し背景をお話しいただけますか?】


実は、私の 1 冊目の本は、私の出身の鳥取と、家内の出身の丹後の神話伝承について書いたんです。

大江さんの1冊目の著書[八上 神秘の白兎と天照大神伝承」(2007) と、そのインスピレーションになった石破氏著の[イナバノシロウサギの総合研究]

きっかけになったのは、1999 年に出版された 石破 洋(いしば ひろし)さんという島根県立大学の教授の著書([イナバノシロウサギの総合研究]/ こちら)で、因幡の白兎についてはもう 1 つ別の全然違うストーリーがあるという事を発表されたのが、大々的に地元の新聞に載ったんですよ。


私がそういう事に関心を持っている事を知っていた私の父がその新聞記事をファックスで送ってくれました。

記事の方はそのままになっていたんですがね、2005 年 12 月 31 日に父が脳梗塞で倒れまして、それからは頻繁に鳥取に見舞いに行く様になりました。

見舞いに行くついでに、氣になっていた関連の神社や遺跡を回ったり、図書館で調べたりして、調べた事などをブログに書いていったんです。


【 へえ〜。お父さまが色んな意味でお繋ぎ役だったのですね。】


そうですね。

そのブログが 1 年でけっこう貯まったので 1 冊目の本を作ろうという話になったんです。


【とても精力的にお書きになっていらっしゃったんですね。】


はい。

実は、大江 幸久 というのはこの本を出すのにあたって付けたペンネームなんですよ。

自分の本業とは全然違う事をしているので、使う様になったんです。畑違いな事をやっているので。

大江は、私の出身の地名です。もともと 大江 と名乗っていたのは間違いないんですが。

"幸久" というのは、”幸” が母の名前から一文字と ”久” が父の名前から一文字とってきてくっ付けた、親孝行な名前なんですよ(笑)。


【 そうなんですね。】


それからまた書き続けて、それらを深めていった内容と、プラス自分が現在住んでいる阪神間の、芦屋や西宮や神戸の事も ホツマには舞台として登場してきますので、それが氣になって調べ始めていた事を 2 冊目の本の中で言及しています。


【 本というものを意識したら、情報収集ももっと幅広くなっていくのでしょうね。】


そうなんです。この本を出版した後から、急にもっと氣になり始めたんです。

ホツマ の中には、天照大神さまが瀬織津姫さまに、『和歌姫(わかひめ)と共に廣田(ひろた)行って、”女(メ)の道”を守りなさい』と命ぜられた、とあるんです。”女(メ)の道” というのはつまり ”女性の心” なのです。

廣田というのは、まさにこの辺りでして、それで、どうも瀬織津姫さまはこちらの方にいらっしゃったんだなあ・・・、そして、おそらくはこちらの方で最期をお迎えになったんだろうなあ・・・と推測する訳ですよね。


【 なるほど。】


すると、当然お墓になるところ、”奥津城(おくつき)”もこの周辺にあるんじゃないのかな・・・と。

じゃあ、何かその謂れのある様なところがどこかにあるに違いないと思ったんです。

最初は、廣田神社(広田神社 / ひろたじんじゃ / こちら)、その神南備山(かんなびやま / 神の鎮座する山の意)は甲山(かぶとやま / こちら)なんですよ。それで、その周辺を探してみたんですけど、特にこれだという風にピッタリくるものがありませんでした。

大江さんが、六甲山と瀬織津姫さまの関係について深く調べ始めるきっかけになった本,[ 西宮神社 ]

そうこうするうちに、この本、[ 西宮神社 ]を偶然手にしたんです。

この53ページに、六甲山がかつては廣田神社の領地だったと書かれてあって、引っ掛かったんです。


【 その事は一般的に余り知られていない事だったんですか?】


余り知られていない事ですね。それで、「えっ」とびっくりしまして・・・。

私には先入観があって、六甲山といえば石の宝殿の菊理姫(菊理媛神 / くくりひめ / こちら)さまだと既に思い込んでいたので、なかなか瀬織津姫さまとの結び付きが想像できなかったんですよ。

それでネットで早速調べてみたら、神社や磐座を研究している人がチラッと情報を載せているそれらしい場所というのが出てきましてね。でも、それ以上の事は深めていませんでした。

六甲比命神社の心経岩(左)と雲ヶ岩

あと、地図なんかを見ていても、心経岩と雲ヶ岩は必ず出てくるんですけど、肝心の磐座は隠されているんですよ。

今はナビでも出てきますが、当時は全く出てこないし、訪れる人もまばらでした。


【 六甲比命講の方は・・・】


年に 1 − 2 度です。護摩行をしていましたが、それもだんだんできない様な状況になっていましたね。大変だったんですよ。


【 磐座が瀬織津姫さまのものだと特定したのが 2011 年で、翌 2012 年には祠開きだという事ですが、本当につい最近の事だったんですよね。】


そうです。2011 年 7 月 31 日ですから、ネットで発見して 3 日後の仕事が休みの日曜日に単独で行きました。

下の方から上がって行って、あの大きな磐座を見た時に、「ああ、ここだ。絶対に間違いない!」と、初めて目にした時に確信しましたね


【 ここしかないと・・・。】


そうです。六甲姫が菊理姫さまでないなら、瀬織津姫さまでしかない・・・と思ったんです。

それから更に調べていって。


【 普段から直感力が優れているんですか? それとも、分析力?】


私には、特別な霊感の様なものは一切ありません。分析力といえば、そうなんでしょうか?


【でも、きっと元来、神さまとの縁が強く、”因幡の国” 鳥取から六甲のお近くに呼ばれてきた感じがしますね。】


それは、きっとそうなんだろうなぁ・・・と感じますね。


【 瀬織津姫さまを表に出す役割があっての事でしょうね。】


まあ、確かにそういう事は感じていますね。

私の出身が八上郡だと言いましたけれど、実は八上郡は瀬織津姫さまをお祀りしている神社が、全国で最も密度の高いところなんですよ。1 番多いんです


【 まあ、そうなんですか?】


はい。

都道府県単位でいうと、岩手県が 1 番多くて、40 社近くあります。その次は静岡県。鳥取はその次で 3 番目なんですよ。20 数社ですけれどね。

その 20 数社の 3 分の 2 くらいが、何と八上郡にあるんです。


【 ええ、そうなんですか。】


八上というのはそんなに広くはないですからね。岩手県は鳥取県の 5 倍ぐらいの面積がありますからね。

だから、密度で言うと、間違いなく私の郷里・八上郡は全国で最も瀬織津姫さまをお祀りしている・・・という事に氣付きまして。

この事は、1 冊目の本を書いた時に氣付いたんですよ。「これは何かがあるなあ」と思いました

右: 大江さんの2冊目の著書[天照大神・瀬織津姫の因幡行幸](2010) と、左: ”瀬織津姫さまとの対談本”である3冊目、[トノヲシテ 瀬織津姫さま言霊リメンバリング](2016)

だから、2 冊目は ”こういう” 題名([天照大神・瀬織津姫の因幡行幸])にした訳です。


【 この頃にはホツマツタヱの研究もだいぶ進んでいて、男神・天照大神さまとその妻である瀬織津姫さまとの関係もはっきりしていたんですね。】


それはもうはっきりしていましたね。ホツマの本との出会いが 1993 年でしたしね。

やっぱり、"偽書" 扱いをされていましたからね。付かず離れずという感じでしたね。当時はなかなか研究する人も多くはありませんでした。

ある意味、オカルト扱いじゃないですか(笑)。


【 そうですよね、きっと。”怪しい文字”ですしね(笑)。】


公にする事も憚られる空氣感がありましたよね。ホツマの事はほとんど一言も触れる事さえしない様に、意識しながら本も書きましたね。

でも、その間にいつの間にやら「ホツマ、ホツマ」と世に出てくる様になりましたね。

ホツマツタヱが書かれたヲシテ文字、48音

【 私も、いつの間にやら見聞きする様になりました。】


そうですね、”アワ歌(こちら)” が一人歩きする様になって、その”アワ歌” がけっこう全国の多くの皆さんに受け入れられる様になってきました。

そして、その”アワ歌”の出処は・・・と言うと、ホツマなんですよ。

そういう感じで、ホツマも一般の人にもだんだんと受け入れられる時代になってきましたね。


【 急激な展開ですよね。】


そうなんですよ。本当にここ数年の間に、急激に起こった変化だと思います。

それは、本当にありがたい展開ですね。


【 私の事で言うと、さっきも言った様に、何氣なしに立ち寄った本屋で何氣なしに手に取った本が、松本善之助さんの ”ホツマ” の本でして、直感に従ってそれを購入したのが約1年半前なんです。でも、付箋を付けながら半分ほど読んでみたものの、「私にはまだ早いな」と思って途中で読むのを止めて、それ以来ずっと放置状態だったんですよ。

それで実を言うと、この本で1番惹かれた箇所というのが、この、文字表の部分だったんです。一応アーティストなので、これらの形に惹かれました。ホツマのヲシテ文字は、48元素で構成されていて、もともとの形は<ウツホ・カセ・ホ・ミツ・ハニ>の5元素で、そこに<ハジメ(タネ)>が加わったものが<ア・イ・ウ・エ・オ>だという説明がものすごく興味を抱かせてくれました。】


なるほど。文字から入ったんですか?


【 そうなりますね。それで、私はホツマツタヱの古文書を昭和の時代に古本屋で発見して研究し、四国の小笠原家のホツマツタヱ全巻に行き着いた松本善之助さんの、<コトバは明らかに神であり それは四十八神であった 『アワ(天地)の歌』がこれである コトバは 見にみえないものと 見にみえるものとを統合する統一体>という言葉に導かれましたね。

8 月 8 日に六甲比命神社で大江さんから直接購入した資料を帰宅後読んでみたところ、瀬織津姫さまはもちろんの事、ホツマツタヱ、空海(くうかい / こちら)、元伊勢・元出雲、廣田神社、日御碕神社(ひのみさきじんじゃ / こちら)、国常立命、小泉八雲(こいずみやくも / ラフカディオ・ハーン / こちら)、教育勅語(きょういくちょくご / こちら)、勾玉などの、ここ数年の私の人生のキーワードとものすごく被るので、とても氣になって大江さんに連絡を差し上げてしまいました。でも、余りに勉強不足なので、また大慌てでホツマツタヱの本を引っ張り出した次第です。大江さんは、ホツマツタヱの研究もだいぶ深めていらっしゃるかと思いまして・・・。】


そうですね。私の師匠は、清藤先生という方でして、新長田で毎月ホツマの勉強会をやっております。

関西ホツマの集い” というのもまた別にあるんですが、これは年に 4 回で、そのうちの 1 回は、ホツマ関連の土地への旅行です。旅行中心の活動がメインです。第 1 回目の旅行は、私が計画して比沼麻奈為神社(奥さまのご郷里)にしました。

清藤先生が創られたんですが、今は私が代表になっています。

”関西ホツマの集い” は、平成 13 年(2001年)に廣田神社の参集殿で結成されました。

私が振り返りますに、これはきっと瀬織津姫さまのお働きがあってできたものなんだなと思います。


【 廣田神社なんですね。】


そうです。廣田神社にしても、この年は特別でして、創建してからちょうど 1800 年(神功皇后摂政元年 / 西暦201年)に当たる節目の年でした。

この時に清藤さんが急に思い立って始めた事です。


【 清藤さんというのはどういう方なんですか?】


元は会社勤めのサラリーマンをされていて、体を悪くされた事があったらしく、”操体法(そうたいほう / こちら)” というのをされていたんですよ。その ”操体法” を確立された方のお墓に行った時に、そのお墓にその文字が彫られていて、「これは何なんだろう?」と疑問に思った事から関心を持たれたそうなんですよ。


【 それって、古いお墓なんですか?】


操体法の創始者(橋本敬三 / 1897 - 1993 / こちら)はそれほど昔の方ではないので、80 年代頃には存命されていたと思いますよ。その方のお墓にホツマの字が彫ってあったという事で、西宮の弁護士さんと 2 人でそういう集まりを創ろうという事で、廣田神社で始まったのです。


【 曰く付きの場所ですよね。】


そうですね。


【 天照大神の荒御魂が御祭神だと一般的には伝えられていますが、実は瀬織津姫さまをお祀りされているとお聞きしました。】


そうなんですよ。でも、廣田神社は、神社本庁所轄の神社ですので、はっきりとは言えない立場なんですよ。[古事記][日本書紀]から外れる事は表には出せないんですよ

ですから、"天照大神之荒御魂" を祭神名として出しています。そして、主祭神の御名は括弧して ”撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)” として紹介しているんですけれども、瀬織津姫という名前に関しては、その弁護士さんが廣田神社の土地の問題が起こった事があって、廣田神社の中に入って資料などを見ている時に、古い由緒書きをご覧になったんですよ。

そこにはちゃんと瀬織津姫さまの名前が書いてありました。


【 ええ! そうなんですか!?】


はい、そうなんです。それをご覧になってね。


【 この話は書いてもいいんですか?】


もう時期的にいいと思いますよ。大丈夫でしょう。

各地域には郡誌とか町誌というのがありますが、この辺りの古い郡誌というのは、”住吉郡誌” というのになりますが、そこにもちゃんと瀬織津姫の名前が出ています。

だから、何か意図してお名前が消されてしまっているところがありますね

伊勢神宮でもそうですから。伊勢神宮の荒祭宮(あらまつりのみや / こちら)も、天照大神の荒御魂をお祀りするとしかでていません。”向つ姫”というお名前も余り前面に出していませんね。

神道五部書の方でも荒祭宮の祭神の”又の名前”、”又の名前”、”又の名前”・・・という形で色々と書いてある訳ですよね。『天疎向津媛命 (あまさかるむかつひめ)、又の名を瀬織津姫”』とかね。

その中に、八十禍津日神(やそまがつひのかみ / こちら) という風にあります。”禍津神(まがつかみ / こちら)”というのは、本居宣長(もとおりのりなが / こちら)の解釈によると悪神ですよ。デビル。


【 ええ、そうなんですか?】


そうです。そんな名前までも付けられちゃってね・・・。『天疎向津媛命(あまさかるむかつひめ)、又の名を瀬織津姫”』とかね。

石川県の金沢に、瀬織津姫神社(せおりつひめ じんじゃ / こちら)があるんですが、そこの御祭神は 大禍津日神(おおまがつひのかみ / こちら)となっているんですよ。瀬織津姫って神社名に付いているのに、その御祭神は悪神になっているんですよ。酷い話ですよ。


【 でも、そういう本当の神話を捻じ曲げたのが 藤原 不比等(ふじわらの ふひと / こちら)だという事ですが・・・。】


実はそれより以前。武内 宿禰(たけのうちのすくね / こちら)の時代のようです。


【 武内宿禰の時代ですか?】


はい、そうです。

実際は竹内文書(たけうち もんじょ / こちら)を書いたのは 平群真鳥(へぐりの まとり / こちら)でして、平群真鳥 が悪い事をしたというのは、[日本書紀]にもしっかりと書かれています。当時の 武烈天皇(ぶれつ てんのう / こちら)さえも自分の部下扱いで自分があたかも天皇であるかの様に宮中で偉そうにしていたと書いてありますね。


【 そうなんですね。】


相当悪さをして、川や海を汚して、ただ一箇所、福井の海だけは汚せなかったという事もあったそうです。

その後、武烈天皇に子どもがいなかったので、途切れ、応神天皇(おうじんてんのう / こちら)の 5 世後の人が福井にいるという事で、継体天皇(けいたいてんのう / こちら)が継がれて、継体王朝となるんです。今の天皇家の元です。


【 なるほど。】


まあ、瀬織津姫さまから直接お聞きした事によると、武内 宿禰 の時代の事に関しては、私の本の中には ”今村さん” という方との対談という形にしてあるんですよ。

それは 武内宿禰 の時代に日本の歴史が塗り替えられ、政治が歪められ、神託を歪められた・・・という事ですよね。そして 神功皇后 はいい様に使われた。そして 仲哀天皇(ちゅうあいてんのう / こちら)は 何者かによって殺された。

本の中では少し曖昧にして書いていますが、対談の中では瀬織津姫さまはかなり断定的におっしゃられました。


【 そうなんですね!】


その 1 つの証拠が、廣田神社の由緒書きにきっちりと残っているんですよね。オフィシャルなサイトに載っていますよ。

大正天皇(たいしょう てんのう / こちら)のお妃がお調べになった事なんですが、廣田神社に今、瀬織津姫さまの御神鏡が御神体としてあるんですが、その御神鏡がもともとどこにあったかと言うと、宮中の賢所(かしこどころ / こちら)です。

つまり、天照大神さまの御神鏡と瀬織津姫さまの御神鏡はかつてはちゃんと並んでいたという事ですよ。

それは、応神天皇の御代、つまりそこから取り出して、引き離して廣田に持って来たという事です。そういう事が、人の手によって勝手にやらかされたという事ですよ。


【 伊勢神宮も 20 年毎に遷宮されるという事のもともとの意味が、天照大神と瀬織津姫の並祭を、片方の社殿を排して祭神を抹消しようとする意図の元に 7 世紀前後に "遷宮制度(式年遷宮 / しきねんせんぐう / こちら)" として取り決められたという風に書かれていましたが。】


そうですね。それは藤原不比等がやらかしたのかもしれませんが、御神鏡をあの時に動かしたのは武内宿禰の時代の事、そして ”天照大神之荒御魂” や ”八十禍津日神” という ”悪神” の名前が瀬織津姫さまに付けられたのもこの時代だという事でしょう。


【 その理由は、この本に書かれていますか?】


理由というか、瀬織津姫さまがおっしゃるには、天照大神さまが統治されていた時代もいつの時代も、結局は政治家や権力の中枢に集まってくる人の中にはかなり腹黒い人が多いという事なんですよ。現代の政治を見ていても、完璧そうですからね。私利私欲で腹黒い考えで政治を行う人が多過ぎるという事です。

瀬織津姫さまはその事を『古今東西そういう人たちをたくさん見てきて、枚挙にいとまがないほどです』、とはっきりおっしゃっています。


そういう人たちを抑えたいんですが、逆にそういう人たちが神を封じ込めるんですよ。貶めるんですよ。

瀬織津姫さまは、天照大神さまのご意志に沿っておっしゃった事は直接人間に伝える訳ですよ。そうすると、その人は交渉役ですから、私利私欲に駆られた人たちはその人を直接攻撃してくるんですよね。そういう交渉役に選ばれた人たちは権力によって消されていく。それが真相ですね。

そういう事をやらかし始めた第 1 号が 武内宿禰 の時代という事でしょうか。

それを踏襲したかの様な形で藤原氏が不比等を中心にその後の政治をやったんですよね。


【 そうなんですね。この本は、ものすごい本ですね。】


そうなんですよ。すごい本だと思いますよ。でも、まだそれほど多くの人には知られていないんですよ。


【 まだ世に出ない様に意図されてきたんでしょうか?】


そういうのもあるかとは思います。


【 でも、今は時代の変容が激しく、これまで封印されてきたたくさんの情報が表に出てくる様になりましたし、これまで他の神々を使ってこられた国常立命さまもご本人が色々と働き掛けをなさっていると伺っています。】


はいはい。そうですね。

瀬織津姫さまも、国常立命さまの直属の神さまといっていいですからね。


【 大江さんが瀬織津姫さまのお名前と関わられたのが、まさに国常立命さまをお祀りされている出雲大神宮だとお聞きしましたが。】


はい。初めてそのお名前を自分の口で発声したのがそこでした。

他の神さまのお名前を言うつもりが、勝手に口からホロッと出てきたんですよ。櫛名田比売(くしなだひめ / こちら)などと間違えてしまって、その事はよく覚えているんですよ。

24 年前の事ですが、それは長女が生まれた年だったので。

その娘には比沼麻奈為神社(ひぬまないじんじゃ)に因んで真奈伊(まない)と付けて、次女は美保なんです(笑)。


【 出雲の美保神社(みほじんじゃ / こちら)ですね。昨年、ご挨拶に参りました。】


そうです。


【 神道一家ですね〜。】


ええ(笑)。


【 私が神社や神さまとの深いご縁を感じる様になったのはつい最近の事で、特に国常立命さまの出雲大神宮には強いご縁を感じていまして、参拝の度に不思議な事が起こるんですよ。

ちょっと前に、大事なご縁を感じる方を神社にお連れする事にしましたら、その方が神社参拝の前日から仕事帰りの道中、酔ってもいないのにはっきりとご自分の歩いている路上に、唐草模様っぽい美しいカーペットが見え続けていたそうなんです。結局、ご自宅の前までそれがずっと見えていたので、首を捻りながら家にいた長女さんを呼び出して見て貰うと、同じカーペットが長女にも見えたそうなんです。そして、翌日は私がその方を出雲大神宮にお連れするんですが、その日の朝、家の玄関を出ると、やっぱりカーペットが見えている。そして、神社の本殿でご祈祷をしていただいたんです。

特別な能力のある方が教えてくださった事によると、カーペットをご用意されたのは瀬織津姫さまで、その私の友人を国常立命さまのところにお連れする様に取り図られたご本人さまでいらっしゃったとの事です。私は平素から直感を受けるという形で瀬織津姫さまに使っていただいているそうなのでその役目を与えられた様ですが、「この後ご自宅にお戻りになる時は、もうカーペットは見えない筈ですよ」と言われた通り、神社参拝後は見えなくなったそうです。

その方も、大きなお役目をされている方なので、今後ますますお忙しくなられると思うんですが。】


へえ〜、興味深い話ですねぇ。


【 話せば色々な事を語れますが、とにかく、ここ最近は私は瀬織津姫さまのお名前をやたらと聞きまして、その能力者に「とき子さん、是非、六甲比命神社に詣られてください」と進言いただいて行ったそのタイミングで、大江さんとお会いしたので、絶対に何かあるな・・・と思って、よく分からないまま、今日こうしてお話しさせていただいているという不思議。だって、瀬織津姫さまのお名前も、本当にこの半年前ぐらいにやっと知ったほどなんですよ。】


へええ〜、そうなんですね。


【 そうではあっても、大江さんのお書きになった資料などを読んでみると、「へぇ〜」と腑に落ちる事ばかりが書いてありまして、自分がこれまでしてきた事や蓄積してきた知識などとやたらと被る訳です。】


なるほど。


【 自分の話になって申し訳ないんですが、実は私には今生では体験していないのに、体が覚えている感覚的な記憶がありまして、それは海で溺れ死んでいる、サメに食べられた、空から落ちた・・・というものなんですよ。水泳はとても得意だったのに、海では浅瀬にいても不安に駆られて泳ぐ氣に慣れない。その事を、数人のサイキックの能力者の友人知人から、それは前世で特攻隊員だった時の体験だと言われまして、それは直感的に正しいと思った途端、安堵に変わりましたね。


それで、なぜこういう話をしているかというと、私の中で、小さい頃から日本語というのに対する思いが人一倍強いという事が意識されていて、日本語が大好きなんですよね。それも、美しい日本語に対する思いが強いんですよ。娘にも、美しい日本語を話す人になって欲しいと願っていて、ニューヨーク育ちの娘ですが、ずっとさだまさしさんの歌などを聴かせていたんですよ。


特攻隊にいたかどうかの真偽ではなく、もしも本当にそうだったとして、きっと私は自分の命を捧げたであろうこの日本という国の今の惨状に我慢ができないという側面もあるんですよね。言葉の乱れの酷さが本当に哀しいんですよ。私の魂には、そういう日本や日本語に対する特別な思い入れを抱くべき何かしらの記憶は確かにあると思うんです。

そういう流れでカタカムナやホツマツタヱにも出会ったのかなと。】


そうなんですね。


【 それと同時に、大江さんの資料を読んで感じたのは、”トノヲシテ(48 の言霊神を元にし、宇宙共通の不変の真理である平和の法則にのっとった国常立命の”ト”の教え)”への共感と、その教えを広めていく事の大切さの認識ですよね。”トノヲシテ”というのは、この国の精神性の根幹にある部分だなと感じ入りました。大江さんのおっしゃっているその部分に、すごく共鳴したんですよ。】


そうなんですか。


【 はい。だから、読んだ後、「私はひょっとしたら、その方向をもっと深く掘り下げてみたいのかなあ〜」なんて思ったりもしたんですがね。】


そういう事をおっしゃっていただけると、とても嬉しいですね。

そこが 1 番大事なんですよね。神道に関心を持っても、書物に関心を持っても、結局はそこに行かないとダメなんですよ。神さまは、そこを1番望んでおられるんでね。

今からの世の中は、やっぱり”トノヲシテ”に基づいていける様に、復活させていかなければならないと思いますね。神さまの1番の願いですからね


( その2 へ続く・・・)

 

大江さんの出版物:


[六甲山 瀬織津姫・白山姫と和歌姫 和す・尽くす トノヲシテの復活!]

  冊子(全 73 ページ)¥ 1.000


[トノヲシテ 瀬織津姫さま 言霊リメンバリング]

  単行本(ヒカルランド出版) ¥ 2.700


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