top of page

宮下 節雄 という生き方 - その 1

更新日:2020年3月12日


TOKIKO インタビュー 11

Extraordinary Ordinary People / 人並み外れた身近な人々

 

<シューニャ / śūnya>を思う。

仏教でいうところの、<空性>である。


”オヤジ・ギャグ” を連発する人懐っこいおじさんの着ぐるみを楽し氣に着こなしながら、目の前でイチゴのショートケーキを頬張るジミーさん。

私はジミーさんのお姿に<無限の空(くう)>を思う。

”透明のクリスタルでできた大きく頑丈な容れ物” ・・・、それがジミーさんだと思う。


たくさんの "この世的"なものを集めて十分味わい尽くした後、体験と学びのエッセンスだけを残して容れ物を空っぽにしてしまったジミーさん。

空(くう)にして、蓋を開けっ放しにしている。

大きい容れ物には、遂に、大宇宙の無限の煌めきが、自由自在に流れ込み、世界に向かって溢れ出している。

”空(くう)である事が、無限だという事の証明”を、この人はこんなにも軽やかに生き生きとやってしまう。

あ〜、脱帽っ!


ーーー


ジミーさんこと 宮下 節雄 さん は、インド古典楽器の百弦琴 サントゥールこちら)奏者である。


まずは、ジミーさんの演奏をご紹介したい。

『女神への祈り』より、<Fairy in The Forest(森の妖精)>。

私の耳には、もはや天から燦々と降り注ぐ叡智、自然の慈愛、精霊達の喜びの音律にしか聴こえない。



初めてお目に掛かったのは、自称 ” 音フェチ ” の友人、大橋智夫(おおはしとしお / こちら)さん主催のパーティー会場だった。

私の席のお隣に、鮮やかなオレンジ色のスカーフを装着したジミーさんが座っていらして、その時 1 枚しか持参されていなかった『CRYSTAL NADA』の CD (後述)を、名刺代わりにいただいた。

それ以来、私はアートの制作時間に、ご縁を噛み締めながら、よくこの CD をインスピレーションに使っている。



ジミーさんは、小説を書く様に話される。1 本筋の道筋を順序立てて追うのではなく、色々な路地を自由自在にチョロチョロと出たり入ったりしながら、氣付けばちゃんと大通りに戻って来ている感じが、とても楽しい。


それにしても、何と賑やかで何と魅力溢れる路地裏をくまなく歩き尽くしてこられたのだろう。バックパックの行き当たりばったりの旅をしてきた私としては、インタビューを通してジミーさんが歩まれた人生の冒険の旅路を垣間見させていただいて、ずっとワクワクしている。



『事実は小説より奇なり(Truth is stranger than fiction)』、と詩人バイロンは言った。

あ〜、本当にそうだ。

でも、”奇” などと驚いている場合でもない。もう、そうなるしかなかった”必然”がある。

その人生の摩訶不思議な仕組みを、これほど明確に示されてしまったら、小説好きにはたまらない。


私は、今、ものすごく悩ましい。

それは、2 時間の予定でご一緒したジミーさんと過ごした時間が 6 時間だった事もあるけれど、これほどワクワクする奇想天外な物語を、私が独断と偏見で勝手にぎゅーっと短く纏めていいものなのか? どこを削って、どことどこをくっ付ける訳? 


力不足の私は、あれこれと悩みながら数日過ごして、結論に至った。

「そうだ、このコーナーは、自分が勝手にやっているだけ。何の制約もない。削るの、止めた、もったいない!」

丸投げの私。笑うしかない!



 


宮下 節雄 さんインタビュー / その1 < 剥奪と解脱 編 >


宮下 節雄(みやしたせつお) さんは、1955 年 2 月 27 日、 鹿児島 出水(いずみ)市生まれ サントゥール & ハンマーダルシマー奏者、ミュージック セラピスト

神戸市外国語大学 中退後、名古屋市で青年実業家として大成功を納める。

1992 年より 4 年間、インド・ムンバイにて世界的サントゥール奏者で 人間国宝の Pandit シブ・クマール・シャルマ氏(こちら)に弟子入り師事する。

現在は、岐阜県洞戸村の清流の傍に住み自給自足、田舎暮らしを 樂しむ。

岐阜を拠点に日本・インドを中心に国内外で精力的に演奏活動を 行い, "インド古典音楽センター・沙羅双樹" にて後進の指導を行う。 各地にサントゥールの弟子 多数。

またキャットケアセンター SIRIUS を設立し、捨て猫、虐待された猫達の救済活動を 25 年続ける。

国内・インドでのTV・ラジオ出演多数。

ヒーリング CD リリース多数。Amazon ヒーリングミュージック 部門で 売り上げ1位獲得。


 

【 いただいた CD はいつもスタジオで流しています。ありがとうございました!】

この CD の 1 曲目は、『光の浜辺』って言ってね、まあ、この辺の音楽が、サントゥール奏者として、環境音、アンビエント・ヒーリング音楽とインド古典音楽から発展させたものとして、今は私の ”マイ・ミュージック”と言っていいと思います。


【 ジミーさんは、日本に於けるサントゥールの第 1 人者と言われていますね。】


1992 年から 4 年間、インドの人間国宝、パンディット(Pandit / インド社会の上層に位置する人への尊称)、シブ・クマール・シャルマ先生に弟子入りして修行しました。

弟子入りできたというところからすごくミラクルでね。


シブ・クマール・シャルマ先生とジミーさん。

【 偉大な方なんですよね。】


そう。今、13 億人いるインド人の中で、インドにおける音楽芸術会で最高峰の 1 人。そんな方に弟子入りが叶ったんですよね。もう、”当たって砕けろ” だったんだけどね、個人音楽留学しました。


【 観ていた TV 番組の中で、シャルマ先生の音楽に触れた事がきっかけですよね。】


そうそう。でも、始まりはギターでした。

小学生の時から鼓笛隊とか合唱団で歌ったりしていて音楽への関わりがあってね。

それで、中学校 2 年、14 歳の時に、ナルシソ・イエペス(こちら)というギタリストの演奏に感銘を受けたんです。普通、ギターって、6 弦だけど、11 弦の改造ギターで『アルハンブラ宮殿の思い出(こちら)』とか『禁じられた遊び(こちら)』なんかを、♪♪♪♪♪ 〜って ”トレモロ奏法” で 同じ弦をずっと爪弾く方法で弾くのね。

スペイン人のイエペスの音色に ガガーンッ てきたんですよ。で、すぐにギターと西洋クラッシクギターの本を買って、そこから僕の ”ギターの旅” が始まる

音楽に関しては、シャルマ先生に習うまでは全部独学できました。


【 60 年代末ですよね。フォーク全盛の頃。】


そう。その頃に私は、クラシックから入って、フォークもするの。結局それで、ブルースから、ロック、レゲエ、ジャズまでやりました。


【 色んなジャンルを網羅したんですね。】


殆どの分野を独学で網羅しましたね。"ミニ・コピ" みたいな感じで。


【 もともと音感が優れていたんでしょうね。】


今思うと、きっとね。そこが、またマズイところなんだけどね。

結局は、僕はギタリストになりたかったんですよ。それで、神戸外国語大学を中退して京都に出て行った。

蔵を改造した老舗の [ 捨得(じゅっとく)]っていう ライブハウス で、アルバイトしてたんです。そこは環境が良かった。

関西がブルースとか R & B とかソウルとかが 1 番盛り上がっていて、色んなバンドやアーティストが輩出している時期でね、僕もギターでブルースにのめり込んでいくんですよね。


【 ブルースなんですね〜。】


大学とかで、同時通訳家の道も考えていたんだけどね、やっぱり音楽なんですよ。

でもね、何と、[ 捨得 ]に初めて来た日に、最初の奥さんと出会っちゃう。

ライブが終わって振り返ったら、女の子が 1 人 ポツーン としてたから、にじり寄って行って(笑)、声を掛けた。彼女が寂しい感じだったから、一緒にお茶を飲んだのね。

「目当てのバンドが演奏するっていうから来たら、1 日ズレてた・・・」って(笑)。

これが、華麗なる運命の出会いなの


【 ズレているところに運命を感じますね。】


面白いですよね。だから、”なかった事”はないんだよね。”あった”んだよね

それで、その時点で 23 歳。

既に僕は女の子には懲りてたんだけど、松尾のアパートに住んでるって言うから一緒に歩きながら店を出て・・・、1 週間後には、同棲していた(笑)。

彼女は名古屋出身の、染めと織りをする ”織り姫” で、自分はギタリストの夢があって、「お互いにクリエイティブで好きな事ができていいよね」って感じだったんですよ。

ところが、”できちゃった婚” に突入する訳ですよ(笑)。


【 好きな事ができなくなっていくとか・・・?】


そうそう。彼女は長女でね、そして、彼女のお父さんは非常に厳格な父親だったから、ほぼ勘当同然になる。でも、子供が生まれてくるから、腹を括って名古屋のご両親にご挨拶に行って、結婚する流れになったんですよ。

そして、それで家族の面倒を見なくちゃいけないので、ギターをそこで棚置きして、働き始めるのね。腰まであった髪の毛も切って、パンチパーマ(笑)。


【 決意表明ですね。でも、パンチパーマって、時代を感じる選択ですね・・・。】


嫁さんが名古屋でうちも鹿児島だから、形を重んじる親達がものすごい結婚式を準備してね。僕達にはお金がないから、そんな事しなくていいって言ったんですけど、「お前達はピエロになって、黙って座っておきなさい」って命じられたもんだから、”ピエロ”の象徴としてそうやったの(笑)。


【 今、ジミーさんのイメージは長髪だから、想像できません・・・。】


ところでなんだけど、この間、『クリスタルナーダ』のクリスマス・コンサートツアーをして、東京ー名古屋ー京都で大成功だったんですよね。

京都に舞い戻った時に、メンバーの 1 人がいいとこのお嬢さんでね、「ちょっとゆっくりしていきましょう」って言うから、金閣寺の裏にある [ 象山リゾート(しょうざん / こちら)] で急遽、美味しいものを食べて泊まる事になった訳。コンサートの労をねぎらう為に。

彼女のお父さんが、全国のリゾートホテルの会員さんで、1 人 4 − 5 万円 ぐらいのホテルの宿泊費が、その 10 分の 1 みたいな。


【 破格ですね〜。】


話を ”できちゃった婚” の頃に戻すとね、北野天満宮の南のアパートに住んでいたんだけど、子供の誕生の半年前ぐらいに ピエロ の勢いで ”アルバイトニュース” 見て、就職した所というのが、象山リゾートの中にある有名な庭園内の、[ ステーキハウス末広 ] だったの!

1 階にはボーリング場があって、2 階に 100 坪ぐらいのレストランがあって、そこでもう 40 年も前に、僕はパンチパーマにタキシード姿で、「いらっしゃませ、何名様ですか?」ってやってたの


【 うわ〜、40 年の年月を戻したんですね〜。すごい。】


そう。ついこの前、戻ったの。「あれ、象山? ここ、いたよな?」みたいな。

でね、そこに僕の歴史が全部あってね。”音楽から離れていった時期” の出発点


【 完全に音楽から離れてしまうんですか?】


そりゃ、そうですよ。ゼロじゃないけど、ものすごく離れましたよ。

それでね、誕生したのが、何と双子の男の子だったの。当時は、今みたいに出産に立ち会わせて貰えないし、誕生前に性別も分からない。だから、双子って分かって、「ガビョーン、ガビョーン!」だよね(笑)。

「できちゃった婚〜っ!」、「え〜、2 匹〜っ!」、「もう、音楽どころじゃないじゃない〜っ!」、「もう、死に物狂いで働かなきゃならないじゃない〜っ!」

・・・そういうのが 40 年前にあってね。この前、不思議な巡り合わせで、突然、思い出が蘇ったんですよ。


【 そんな時期の思い出は、さぞしんみりきたでしょうね。】


泊まって翌朝に、”優雅に” 散歩していたら、”ボーリング場” って書いてあるのね。「あの時のボーリング場が、まさかあるの?」って感じで辿り着いたら、ボーリング場は 40 年前のそのままだったの!

その 2 階は、今ではブライダルになってたけどね、40 年前にタイムスリップしたみたいな感覚になって、ジーンとしました。

だって、当時の僕は、ミュージシャンへの道をほぼ諦めたのに、40 年後にその場所に再び立った僕は、現実問題をクリアーしながら、本当に 1 番なりたかったサントゥール奏者になった。

その 1 つの巡りを噛み締めながら、自分を自分で褒めましたね。やっぱり現実はそんなに生易しくなかったじゃない。


【 色々な艱難辛苦があったでしょうね。】


偉そうに言うつもりじゃないけど、やっぱり大成した人って、苦学の道を歩いているよね。

<”充足” があったら ”努力もしない” けど、”不足” が ”努力を生む” >からね。


【 ”苦学の道を歩いてきた人” から滲み出る光の輝きって自然で柔らかい。】


そして、波乱万丈を越えてきた人に限って ”苦労” を言わないですよね


【 そう。「楽しかった」って言うんですよね。】


「あの時にあんなに苦労していたけど、あれが今の自分に生きているっ」・・・てね。

1 つ 1 つの体験が、自分を豊かにしていくからね。

20 代の多感で夢多き頃の、”夢、破れたり” みたいな時から、半世紀を経て、夢が実現しているっているのは、感無量ですよね。

「貫いたな〜っ」て、何とも言えない素敵な波が押し寄せてきて、「僕は、泣かないぞ〜」っみたいな(笑)。

そういう事を 1 人でやった、クリスマス 26 日のお話でした。以上、終わります。


【 ダメダメ、終わっちゃダメですよ〜! ところで、生まれ育った家族の中にも、音楽ってあったんですか?】

苺が大好物のジミー・宮下さん。

家族背景はね、”今生” はね〜っ。

「今生は」って言うのは、今ね、僕の過去生がいっぱい炙り出されているの。頼んでもいないのに、僕の周りに霊的能力のある面白い人達がゾロ〜っているのでね。


ところで、この甘酸っぱい苺と生クリームのブレンド、美味しいっ!

こう見えても、なかなかグルメなんですよ(笑)。


【(笑)で、今生は・・・。】


天皇から、王様から、エジプトの神官から、織田信長・・・みたいな事を勝手に言う人達がいるんですけどね、今生では、百姓の家に、"薩摩隼人" として生まれました。

鹿児島県出水市、そこから始まる。

僕はね、和気藹々な家庭をいつも自慢に思っていた。

7 人家族。 僕はおばあちゃんっ子だったんですよ。おばあちゃんが 100 まで生きました。3 人の姉がいて、僕は末っ子。


【それはとてもかわいがられたでしょうね。】


とても。だから、こんな風になっちゃったんだろうけどね〜(笑)。

父親がすごくリーダーシップの取れる非常に聡明な人でしたね。賢くて、農協の品評会でいつも賞を取っていた様な "できた人" でね。

百姓の家だけど、”文武両道に重きを置く、島津・薩摩” の文化的背景のある土地柄だったし、百姓だから”卑しい”という貧しさじゃなくて、百姓であっても ”誇り” というのは忘れてはならないという筋が通ってましたね。”誇り” といっても、”プライド” みたいなどうでもいいもんの事でなくて、”道徳”、”教養” という事を重んじていた

だから、小学校の時から、書道やそろばん、塾って、子供達は皆んな通っていた。決して裕福な家庭はないけれど、だけど、うちもそうさせて貰いましたね。書道は初段まで行ったし、姉の直筆などは、ありえないぐらい美しい。

やっぱり親の教育姿勢の重要さを学んだし、その時に培った教養が非常に役に立っているし、それって、"日本の精神性" を表したものでしょう。姿勢も保たねばならなくて、自然と丹田に力を宿す事にも繋がっているしね。


【 とても残念な事に、そういう、本当に大事な "日本の精神性" を日本人は見失ってきてしまいましたね。】


本当に残念ですよね。そこをもっと取り戻していかなきゃいけないよね。

僕の事に話を戻すと、小学校 1 年ぐらいから、鼓笛隊をやる為に才能チェックをされて抜擢されるので、自分でも、音楽の才能はあるのかなって思いましたね。

その矢先に、小学校 3 年ぐらいに、「お前は、大きくなったら、音楽家か料理人になるよ」って、父親が予言めいた事を言ったんですよ


【 子供と関わっていると、子供の資質や才能って、しっかり把握できますからね。】


そう。僕は音楽は好き。

そして、料理に関すると、小学校低学年から家族 7 人分の何かを作ったりしてましたからね。

まだ小さいのでルーで作れるカレーとか、混ぜたらできる様なプリンをデザートに作るという様な事をしました。姉達もいる訳で、普通はしませんよね。その様子を父が見てたんでしょうね。


【 実際にお父さまの予言通りなんですよね。】


名古屋市内で 中近東料理のライブレストラン、[ キャラバンサライ] を経営していた 30代前半の写真。3人の息子達と。

そうなんですよ。音楽ができない時期は、ずっと料理人でしたからね。

ウエイターの後、結局、名古屋に行ったんですよ。義父が孫達をかわいがってくれて、僕達を名古屋に誘ってくれたんですよ。

お断りしたけどお金を出してやると言ってくれて、24 歳から名古屋で[ パンプキン・ポンプキン ]というカフェバーを経営する事になるんですよね。


そのバーで飲み潰して、反省で、半年で世界旅行、その後 29 歳から、中近東レストラン & ライブハウス、[ キャラバンサライ(”ラクダの隊商の宿屋” という意味) ] というのを 8 年経営したんですよ。トルコ料理の。


【 大好きな味です!】


ちょうどバブルの頃でね、25 坪ぐらいのお店で 年商 1 億以上あったの。


【 ええ! すごい〜!】


そこで、一応、青年実業家としてそのお店のオーナーでありながら、料理も全部自分で研究開発して、"料理の天才" だって評価して貰えていたのね。

閃きがありましたね。僕の氣質としては、多分、”先見の明”。信長じゃないけど、2 番先陣を改革していく、新種の氣所、時代性の先を行って改革していくパイオニア的な事は、簡単に言って ”簡単な事ではない” んですよ。

やっぱり従来のものがあって、異を唱えるんじゃなくても、変えていこうとする方向に対して軋轢が生まれてきますよね。で、足を引っ張られると、そこに ”燃えちゃう”・・・みたいな。

メニューも、突拍子もないネーミングでね。


【 おじさんギャグ系のダジャレっぽいのですか?】


って言うかね、”エササニ星のバシャール”って分かる?


【 分かります。】


その第1世代だからね。トルコ料理なのに、当時 80 年代、クリスマス・ディナーのメインディッシュに ”エササニ” って付いていたりね(笑)。

キャッチーなのね。ダジャレじゃないけど、それっぽいよねぇ(笑)。


【 でも、ダジャレも、頭の回転が速くないとできないですよね。閃きが肝要。】


そうですよねぇ。頭の回転の速さは、よく言って貰える。

でも、何か特別に訓練はしていないけど、どこかの回路のスイッチは開いていると思います。シナプスのスピード感があるのかな。


【 あ、でも、それって、そろばんなんかを幼少期にしていると、すごく発達すると思うんですよ。私の娘は、ニューヨーク育ちなんですけどね、5 歳からそろばんをしていて、それにのめり込んで小学生の時に 2 段までとりました。ものすごく頭の回転が速いんですよ。そろばんだけの話でなくて、3 カ国語も堪能だし、全般的に回転が速くて集中力もあるのは、きっとそろばんをさせていたからだと思っているんです。】


あ、それ、絶対にあると思いますよ。記憶力もあるでしょう、きっと。

瞬間キャッチ能力・・・みたいな。直観力、インスピレーション。

結論なんですけど、僕の音楽は、まさに、それなんですよね


【 高次元から降りてくるのをキャッチして、そのまま音にする。】


20 代から、僕はエドガー・ケイシー(こちら)とかにも憧れてね、アカシックレコードとか、精神世界への興味の扉を開いて貰った。

ミディアムというのかな。僕自身が ”音のチャネラー" であり、音を使ってコネクティングをしているんだなって思うんですよね。

それって、”オレが、オレが”のエゴが増幅していたら、絶対にできない話でね、エゴを手放して無心になった時に初めて、然るべき高次元の世界と繋がれる。

阿頼耶識(あらやしき / こちら)とも言う、まあ、要するに、音のアカシックレコードかもしれないし、存在かもしれない。音律かもしれないし、エネルギーかもしれない。


【 ジミーさんの演奏をお聴きすると、そうなんだなと思います。】


全部含めて、僕は、レコーディングは1度しか行わないんですよ


【え、1 発勝負? その瞬間にアクセスしているしているものに委ねる、その瞬間のエネルギーを凝縮・・・みたいな具合なんですか?】


そういう事だろうと思うんだけれど、正直言うと、自分ですごく驚いている。

その行為自体は誰にだってできるけど、ちゃんと音楽になっていなくちゃダメですからね。譜面がある訳じゃないし、練習はしないし、リハーサルはないし、スタジオをとって録音する訳じゃないし。けれども、CD を作って発売をするからには、ちゃんと美しい音楽になっていなければならない。


【本当に、その一瞬のインスピレーションで創造するんですね。】


そうです。

レコーディングをする時に、何泊かしてね、お茶を飲みながら、相方のサウンドエンジニア & クリエーターの田中圭吾くんと話し合うの。彼が、波とかの自然音をフィールド・ワークで録音していて、パソコンやシンセサイザーを使って仕上げてくれています。

相方とのコンビネーションね。それで、お互いに ”待って” いると、ふっとインスピレーションがやってきて、この 1 曲目はこういう感じで・・・となる。

でも、まずは流れがあるのね。

例えば、この 『CRYSTAL NADA』の話をすると、”踊り絵師” っていう、踊りながら絵を描く 神田さおり(こちら)さんという女性がいて、彼女がアルバムの絵を描いてくれたんですよ。

その彼女が、与論島で、 7 月の満月の時に『月酔祭』というのを始めたんですよ。東京の方だけど、与論島に行って、海の美しさに惚れちゃったんですよ。

このアルバムの 1 曲目に使っているのは、与論島の波の音なんですよ。


【素晴らしいです。】


僕達は、どこかで大自然に感謝し、そういう音をどこかでフィードバックして、そこにメロディーを乗せながら自然保護の活動をしているんですよね。

”音楽としての平和運動”。

僕は、「ジミーさんの音には、自意識がない」とか「天界から降ってくる高次元の音を扱っている」とよく言って貰うんですよ。

僕は ”奏でる者” ではあるけれども、すごく客観的な視点を同時に持っていてね、ライブとかでも、”自動演奏” 状態に入ってしまったら、もう 1 人の自分がいて、自分が演奏している姿を見ているんだよね。


【 あ〜、すごい! 指揮者の佐渡裕(こちら)さんが、『オーケストラを前に指揮をしている自分の姿を高い所から見ている事がある』とおっしゃっていたけれど、同じ様な状態なんでしょうね。】


そうだね。「あ〜、やってるな」って感じの視点に入っちゃっている。

どうしても感情の人間でもあるからね、氣持ちが高まったら自分を見失うという言い方をするけど、客観性を保っていれば、どれだけ感情が高まっても、”ここにいる肉体の私” であるだけで、”それを見守っている精神の私” というものを ”確立” できるから、心静かに俯瞰できるのかなと思いますね。


【それは、よくある事なんですか?】


実はね、そういう境地を目指していたんですよ。導管になるという事、ミディアムになるという事、媒体になるという事を。

でも、”自分、自分” の「どうだ〜、上手いだろ〜」みたいなのがあると、難しいよね。

やっぱり ”周波数だし”、”微細な世界” だし、そして ”奏でている人の精神性" は必ず現れる。音はめちゃくちゃ正直だからね。出ちゃう。隠しようがないんですよ。

で、そこを感知していない人は、”エゴの音楽”をどんどんやればいいと思う。それは、僕は否定しないですよ。

でも、神仏の事、宗教について勉強してきたり、僕が今言っているヨガの世界、ヴェーダ(वेद、Veda / こちらの世界の神秘、宇宙観の世界・・・を垣間見ると、”自己” という事と、その本体である”真我”、”宇宙意識” というものが意識されてくるんですよね。


【3次元的には知覚化できにくい普遍の世界へ意識が拡張すると、自己存在の小ささと大きさ、虚無と無限みたいな思考に移行しますよね。】


ね。だから、結局は全部一緒なんですけど、いかに自分で ”エゴを落としていくか”、”欲望を制御するか” という事になってくるんですよね。

で、アートもだけど、音というのは、1 番ダイレクトだと思います。

その音を奏でる者として、私は音を奏でる作業は、”自分の平和運動” なんですよね。余り大袈裟な事は言いたくはないんだけど、”祈り” なんですよ。

本来は生きとし生けるもの、色んな存在達が、調和的に響き合って 1 つの世界、つまり ”ワンネス” の中で生きるべきなのに、所有欲、権力欲、金銭欲とか、ありとあらゆるエゴを貫いて、挙句に他人のモノまで奪い合って、ここまで傷付け合っている。

さ、そろそろ、・・・ね。


【 ね。ところで、インドでの 4 年間の事をお訊きしても? ムンバイですよね。】


あのね、ムンバイって、ボリウッド(Bollywood / ハリウッドのインド版 / こちら)の映画の製作本数が世界で 1 番多い所なんですよ。で、うちの先生は、ムンバイから車で 30 分ぐらい行った海沿いのマンションに住んでいてね、その辺はけっこう撮影のメッカで、有名人達がたくさん住んでいるエリアなの。

そりゃあもう、人間国宝ですからね。先生は、コンサート 1 本、約 200 万円なんですよ。


【 インドの 200 万円って、相当ですね。】


日本の古典音楽とか歌舞伎とかも、家元とか師弟の継承権を巡る強力な関係があるでしょう。3000 年の歴史があると言われているインド古典音楽の世界も、同じなんですよ。

この歴史の基は、ヴェーダ。サーマヴェーダ(सामवेद、Sāmaveda / こちら)という聖典は、インド古典音楽の始まりについて書いてある。

そのヴェーダに、私も演奏しているインド 100 弦琴のサントゥールが、インドのカシミールに 3000 年存在していて、梵語、つまりサンスクリット語で ” 100 の弦を持つ琴” という意味の ”シャタタントゥリーヴェーダ” と記載されているんです。サントゥールと言うのは、ペルシャの名称。


【 そういう歴史ある楽器を日本人のジミーさんが、本場インドの人間国宝の奏者から直々に継承するというのは、興味深いですよね。】


こういう話をしてもいいかな。

鹿児島では、小学生の時とか、けっこうお寺が拠点になってたんですよね。例えば、夏休みには、子供相撲大会とかあって、優勝したりしていたんだけどね。それで、小学校 4 − 5 年の時にお寺とかをうろうろしていたら、ある思いが湧いてきてね。「悟りたい」って衝動。これが、”第 1 動機”。

で、その時は、子供に分かる様な、五戒八正道(こちら)みたいなのがあって、”ダメ、ダメ、ダメ”って書いてあるのを見て、僕は「無理だ!」って、結局、投げ出したのね。あとね、全く嫌でもなかったけれど、日本のお寺さんの空気感は、”陽”な感じじゃなくて、陰気臭かったしね。

でも、今思うと、過去生からの流れなんだと思う。

小学生で、「悟りたい」とか思うって、洒落臭い。


【でも、私も写経とかしてましたね。分かりますよ。】


やっぱりね。何か、似てるよね。

霊能のある人に、”神官もお坊さんもやってきた魂” とか言われて、自分で腑に落ちるもんね。スイッチさえ入れば、既に知っている感じ。

意外と達観して、アホ言っている所がありますよね。でも、「知りません〜、アホですぅ〜」って、とりあえず言っているんだけどね(笑)。

色んな所を旅していたり、色んな人に出会っていったりすると、色んなスイッチが押されて、デジャヴみたいな事も起こって、最近は、本当にめくるめくって感じなんです。


結局は、第 1 回目の ”悟りたい欲求” は、余りにもあっけなく捨て去ったのね。でも、それも、完全には終わっていなかった訳なんです。


で、薩摩人だから、お酒が好きでね。青年実業家で大成功している時は、お酒もタバコもして、その時はいわゆる ”バツイチ” で、最初の奥さんとの間の息子が 3 人、更に孫も 4 人いてね。全員男の子。

で、今 37 歳の三男坊は、めちゃくちゃかっこいいロックギタリスト。僕が叶えられなかった夢を見せてくれていて、僕がその応援団長。多分、それは ”ブラッド・ライン”。

親族の数代前に、男芸者っていう音楽や芸事に秀でた突出した人がいたのよね。

家系は、水呑百姓だけど、厳格な教育方針を貫いた父親に「お前はその血筋だな」っ言われていたんです。


そして、その父親は、非常に歌が上手くて、部屋にトロフィーがいっぱいありましたよ。演歌ですけど。父親の歌も、たおやかで「歌が好きでたまらないんですよ」みたいな感じで歌うのが、かわいらしいぐらいでね。

その父親の特質すべきは、優しい人という事。お人好し。聡明な人でね、決して怒らない人。皆を纏めるリーダーシップがあったしね。色々あったけど、僕は父親をとても尊敬しているんですよ。

嫌な感じを全く人に与えない、丸い ”できた人” でしたね。


【ジミーさんも、そこを受け継いでいますね。】


そうですね。争っている人達を、僕はどれだけ止めてきたか・・・。

この人生で、仲裁をするという事が、何回あった事か・・・。やっぱり、争い事は嫌なんですね。皆んなで、仲良く穏やかにやっていきたい願望は強いですね。


【自分で選んで、その家族を持っていると思います?】


それは即答では言えないけど。だんだんそんな氣がしてきたかな。

家族って、お互いに反面教師っていう事がありますよね。自分の魂が選んだのか、または僕の魂をガイドする存在がいて、「今生の修行の場はここだぞ」と派遣されたのか・・・。


現時点で、今流行っている量子論、ヒモ理論(こちら)を囓って勉強中だけど、やっぱり自分の意識がクリエイトしているという事を言っていますよね。

皆、自分の ”アウター・セルフ” しか見ていないから不都合な事を人のせいにしたがるけど、でも、それに氣付くと、”自分が創造主” というのは間違いないと思う。

魂の遍歴を経て、今は実際に 3 次元の肉体を持った自分がいて、そして自己創造を楽しんでいる。

ここ数年というのは、自分では思いもよらない、自分で考えてもできっこないっていう事、出会いっていうのが本当に頻繁にありますね。動けば、待ってる。「何なん?」って、ワクワク感でいっぱいなんですよ。

だけど、僕に因子はあるんだろうけど、まあ、よく言う ”ご縁” というやつですよね。

とき子さんとの出会いもね。初めて会った時も、隣同士だったもんね。きっとそれぞれのガイドが上で霊界会議みたいなやりとりして ”このタイミングでここへ上手い具合に行かす” みたいな事をやっていると思うけど、潜在意識の領域で起こる事ではあるけど、出会いが喜びとしてあると、自分の魂の中のエヴィデンス(証拠)みたいな感じですよね。


【そうですね。】


もう、逆らわず、”マリオネット状態” でいようと・・・。

そこに ”大いなる意思” があり、"魂の道筋" があるんだろうと・・・、それに委ねるしかないよねって。


【それが、”悟り”の話にどういう風に戻っていくのか楽しみですね。】


そうそう。

第2回目が、そこなんです。”委ね” の中で、起こってきます。


”たかが音楽、されど音楽”・・・、結局ミュージシャンの道を棚置きして遠ざかって行ったけれど、いい音楽を掛けながら、ライブをやりながら、音楽と関わってきたんですよね。

才能があってもなかなか食べていけないミュージシャン達を保護したりサポートしたりしながらして、がむしゃらにレストランを経営し、自分の人生で初めて経済力と時間を手に入れたんです。


【 そこで、余裕の生まれた時間を、純粋に自分の音楽の喜びの為に活用したりはしなかったんですか?】


ここでまた、時間を 17 歳の時に戻したいんだけど、その時初めて僕は、ラビ・シャンカル(こちら)の音と出会ったんです。ラビ・シャンカル、分かる?


【 もちろんです。ジョージ・ハリスン(こちら)の先生。】


そうそう。ビートルズ(こちら)のね。

高校2年の時の話ですよ。

僕の家はね、”無一文同盟 ”っていう仲間の溜まり場になっていてね。フォーク・ブームの最中で、”外を向いている子”ばかりが集っていたんです。

隣町の水俣に住んでいる僕の後輩のお姉さんが、九州で 1 番大きい博多のレコード店に勤めていたんですよ。

そこを通して ”時代の旬” の最先端の音楽が、あり得ないほどの片田舎にある僕の部屋に集まっていたの。


【 素晴らしいですね。】


すごくない? これからの時代を予見している様な、”無一文同盟 ”っていう・・・(笑)

何かね、これからは多分、貨幣経済がなくなって物々交換みたいになるんだろうけどね・・・。まあ、その話は置いておいて〜。


その部屋に、ある時やって来た音楽が、インド音楽だったんだよね。

レコードに針を落とした瞬間に、例の、ビヨョョ〜ン♪ キョエェェ〜〜ン♪ってのが鳴り響くのね。それがラビ・シャンカルのシタール(こちら)演奏。

それでね、片や『Let It Be(こちら)』のビートルズのポスターが部屋に貼ってあったの。その時は、まだ、双方に繋がりがない頃だよ!


【 すごい!"Speaking Words of Wisdom, Let It Be(『知恵の言葉を話す事、’そのままにしておきなさい’』という意味)"!】


僕は好奇心の塊だったからね、自分の中であのサウンドや、倍音効果のすごさに、「同じ弦楽器で、一体どういう事?」っていう思いが沸き起こるのね。

今思うと、過去生で自分の魂が体験したインド人のスイッチが、深いところで押されたのかなってね。

本格的に芽吹いてくるまで、少し時間は掛かるんだけどね。


自分がどうリアクションしたか、ものすごくよく覚えているですよ。

「見てやろう! 触ってやろう! 習ってやろう! 行ってやろう!」って、その時点で決意したんですよ。


【 その通りになっていくんですね。すごい!】


けっこう単刀直入に何かポンと入った。

意外とその後の道のりが長いけど、おそらく、”深さに対する反比例” みたいなのがあったと思う。


【 浅かったら、すぐに忘れちゃうかもしれませんね。】


そうなんだよね。その時に、”始まっちゃった”んですよね。

とにかく、言ったんですよ。僕にとっては、”口に出した”という事が肝心なんですよ。


【 ”口に出す”っていうのは、けっこう重要ですよね。】


そう。そしてね、この事は、僕のインドと繋がる原風景として、かなり大事ですね。

「見てやろう! 触ってやろう! 習ってやろう! 行ってやろう!」

・・・で、どこに行く?

あ、インドね。

何語を喋る?

あ、ヒンディー語ね。

どこで習うの?

神戸外国語大学。ヒンドゥー語ウルドゥー語学科。


【 関西に出て来たのは、その為だったんですね。】


それもあるし、姉が大阪に就職していたのもあって。

「おら、こんな村〜、イヤだ〜♪」っていう、あの歌の通りでね、親に、独立宣言して家を出る訳。

でも、本当の理由は”、やっぱりインド”なのよ(笑)。


【 ちゃんとしっかりしたビジョンがあって、道を切り開いて行くんですね。】


そうね。”身の程にも”、”無謀にも”・・・だったんだけど、そういうのって ”意志をもって自力” でというものと、何かに突き動かされてやっていく、その両方の感覚が相まってなんですよね。

でも、まずは自分が ”意志”しないと、動かない。


【 スイッチをちゃんと押す部分は、自分自身。】


そう。でも、その時は思いもよらない事で、今になって認識される訳だけどね。

ちょっと話しを戻すと、僕の通った高校は、鹿児島の名門校のラサール高校とか鶴丸高校とかと並ぶ出水高校で、そこは東大合格者が多い、名門進学校だったのよ。

で、高校 1 年の間は首席で、東大受かるって太鼓判を押されていたんです。

ところが、高校 1 年の冬休み、ある事がきっかけで、だんだん ”点取り虫” を止めたんです。

実は、そこには経緯があるんですよ。

首席でいっててね、うちの家族も皆んなワクワクしていたんですけどね(笑)、それが、奈落の底に落ちながら、家族も落としつつ、夢も地位も奈落の底・・・みたいなね。

けっこう、僕にはそういうところがあるんですよね〜。


【 でも結局は、サントゥールには東大が要らなかった、という事ですよね。】


そうそうそう、そうだよね(笑)。

多分、足摺岬の”灯台”ぐらいで十分だった。


【 皆んなを照らす、ピカーッ・・・みたいな(笑)】


そうねぇ(笑)。

でね、これも重要な事で、人が人に与える影響って、言葉だったり、音楽だったり、人生観だったり色々あるでしょう。

でね、僕は高校の時に、こういう影響を受けた事があったんですよ・・・。


僕は学年トップだったけど、サッカー部に入っていてね、文武両道だったんですよ。

ところがね、先生が僕の 200 点満点の数学の答案用紙を貼り出して、こう言ったんですよ。

「勉強とスポーツを両立させている ”模範青年” 宮下くんを見習いなさい〜!」ときたんですよ〜。


【 そういうのは、きっと性に合わないんじゃないですか?】


そう。ダメダメ。


【 分かります〜! 私もすごく苦手なので〜!】


「分かる」って言う人には、話しが早いよね。魂が古いっていうか、知っているんだよね。

それは、僕にとっては、本当に ”最大の汚名” だったんですよ!

”最大” だったんですよ!

それから、僕は学校の勉強を一切止めたんですよ。極端な人ですからね(笑)。


【 極端過ぎ〜。でも、共感できます。システムに迎合ってできないのですね?】


そう、無理無理。

でも、学校には行ったんですけど、”点取り虫”を止めたって事。

その時から、<どうやって”最大の汚名”をぶち壊すか>が、僕の人生のテーマになっちゃう訳ですよ。


『生前 母がプレゼントしてくれた 一張羅の大島紬の着物を着て、上賀茂神社に初詣参拝いたしました。 ひふみ祝詞、 あわ歌を奏上、地球の平安と大調和を深く祈らせて頂きました。』(2019-01)

【大きな転機ですね。】


相当ね。

(その時期の家庭の事情が色々とあるが、プライベートなので割愛。)


うちの母親は、戦時中は従軍看護婦として台湾で勤務していて、戦後も独り身だから 70 歳過ぎてもずっと看護婦としてまだ働いていましたね。

だから、そんな波乱万丈の人生を生き抜いて、すごくお金を貯めていた。

それで僕に、40 − 50 万円ぐらいの大島紬を買ってくれたの。


【 まあ、大島紬なんですね。上等の着物ですね。お母さまの愛情がたっぷり込められているんですね。】


でもね、僕は母親が亡くなるまでは、着物に袖を通さなくてね。

ある時、ハッと氣付いて、3 年ぐらい前からその大島紬を着て、上賀茂神社への初詣が始まったんですよ。


話が前後するけど、僕が名古屋の[キャラバンサライ]で大成功した時に、「いつまでも、あると思うな親と金」と思って、纏まったお金を手にしたんだから親孝行しようと思ったんですよ。


実は、当時、オーストラリアにプール付きの家を買ったんです。

バブルの頃ね。3 次元的な成功を収めて、年商 1 億以上で、高級車に乗って、グルメもして、リゾートアイランド巡りもして。お店は店長に任せて出掛けて、帰ったらものすごい札束が僕を待っている、・・・といった時代だったんですよ。


【 バブル時の、まさに典型的な ”成功秘話” ですね。】


そうなんですよね。

ちょうど、その時のパートナーがマリンスポーツが大好きでね、2 − 3 ヶ月に 1 度みたいな感じで、オーストラリアのケアンズ(Cairns / こちら)にサーフィンとかスキューバダイビングをしに行っていたんですよ。

彼女とは、一緒に建てた名古屋市内のビルでスペイン料理店も一緒にやっていてね。それを全部人に任せて、休暇に行く訳ですよ。

頻繁に行くし、ホテル代がもったいないから・・・と、家を買ったんです。


パームコーブの手前にあるクリフトンビーチから   パームコーブ方面を臨む

ケアンズから 20 km 北のエリアの パームコブ ビーチ(Palm Cove Beach )という所に、歩いて 5 分行くと人氣のない、目の覚める様なブルーのビーチがあるんですよ。

そこに、広大な芝生の土地に部屋数が 12 もある 1 階建ての家があって、大きなプール付き。

そこが 2000 万円ぐらいだったので、 2 回分割のキャッシュで買いましたよ。

31 歳の時です。

お店は 29 − 36 歳までしていたんですよ。それでも、結局はそれらを手放していくの。


【 何があったんですか?】


ここが面白いの。

1 度、セスナ機を貸し切って・・・


【 え、買ったのかと思った(笑)】


買ってない、買ってない!

これからですよ、 UFO をオーダーするのは(笑)!

・・・で、セスナで上から見たら、一区画が同じぐらいの別荘が幾つかあるエリアでね、後で 大橋 巨泉(おおはし きょせん / こちら) さんの別荘も近くにある事が判明して、「同じところにまで来た」って思ったりしたんですよ。


それでね、別荘を持ったでしょ。ビジネスも大成功しているでしょ。

でもバブルの終焉が近付いてきているでしょ・・・。

実はねケアンズから少し行った地域に、自分のレストランの 2 号店の居抜きの物件まで頭打ったんですよ。要は、事業の海外展開ができる実力を手に入れていたんですよね。


ところが、ありとあらゆる贅沢三昧をした挙句に、別荘のプールの横に立ち尽くしてボーッとしていた時に、また ”来た” んですよ。

(ゆっくりした口調で)「物・金のコレクションは終わったな。次は、心の豊かさだな」って、自分が言ってるんですよ。


【 次元上昇の時ですか?】


そう。そしたら、それをインドのシヴァ神(शिव, Śiva / こちら)がキャッチしてくださったんですよ。

何とね、その後、日本に戻って行ったら、僕の周りの人間関係に於いてあり得ないぐらいの裏切り、誹謗中傷を始め、「うっそー!」みたいな事がどんどん起こっていったんですよ。


【 そうなんですね。】


多才な奥さまの美枝さんとジミーさん。

結局その時に、僕の店の従業員の中で1番貢献してくれていたのが、今のワイフなんですよ。

ワイフ(美枝夫人)は、小学校の時から天才絵描きで、今は筑前琵琶の奏者だし、娘歌舞伎に属していたの。彼女のお母さまが、邦楽の名取だったんですよ。自慢じゃないけど、うちのワイフは文才があって、記憶力がいいんですよ。舞台の人だからね。アドリブもできないと務まらないでしょう。


【 素晴らしい!】


それはそうと、昔、彼女の親友が『名古屋グルメの旅』にマークを入れていた店が、実は僕の店だったんですよね。[キャラバンサライ]。

その親友が、僕がオーストラリアに行っていて不在の時に、「絶対にこの店は氣に入ると思うよ」と、うちのワイフを連れて行っていた。

僕はデザインや味を徹底していたから、パキスタン人やトルコ人が「故郷に帰れた」と言って泣いてくれる様な店だったんですよ。


【 トルコには行かれたんですよね。】


行った、行った。イスタンブール(İstanbul / こちら)から、イズミル(Izmir / こちら

の南にあるクシャダス(Kuşadası / こちら)っていう港町に。

5年経営してカフェバー[パンプキンポンプキン]を飲み潰して、半年の世界旅行に出るんだけど、その時のパートナーはスペイン料理を経営している年上のママさんだったんですよ。どっちもお互いのレストランのファンだったんだよね。

ビジネスパートナーでいこうと思っていたけど、男女の関係になった訳。

彼女が店を建て替える時に、僕も店を売っちゃって借金とかもクリアーしていたんだけどね、世界旅行に出る前に、10 枚買った宝くじの 1 枚が当たって 100 万円手に入ったんですよ。それを、旅費に充てたんです。


【 宝くじ、当たるんですね〜。】


買わない事には、当たりもしないんですよね。

第 1 目的地は、僕はインドで、彼女はスペイン・ポルトガルなのね。

カラチ(Karachi / こちら)でシタールを買って、次に降りた所は、アテネ(Athína / こちら)。パルテノン神殿(こちら)にどうしても行きたかったのね。

で、僕のアテネの最も特出すべき思い出は、生絞りのオレンジジュース。地中海気候で育ったオレンジジュースを飲んだ時の感動っていったら、今でも忘れない。

エーゲ海の島周りをして船でトルコのクシャダスだったの。そこで、僕は ウーゾ(Ouzo / こちら) っていう酒に嵌った。


【 ああ、美味しい〜! アニスの味,堪りませんね。水と割ると白く濁るの。】


え、知ってるんだ! 

「お前,そんなに飲んでたらいかんぞ」って言われたのに、ぐいぐい飲んでたら,しまいにはトイレに籠城しちゃう羽目になったんだよね(笑)。

あと、パムッカレ(Pamukkale / こちら)という、塩田みたいに見えるスパ。地下に鍾乳洞とかもあるでしょう。そういう所に行きながら、トルコには 1 ヶ月いました。

トルコではね、カヌーン(こちら)とかサズ(こちら)とか楽器もたくさん買って,ベリーダンスのショーとかもいっぱい行っていました。

それで、泊まっていた宿の女将さんが、色んなトルコ料理,例えばぶどうの葉でご飯を包んだ料理(ドルマ / こちら)とか、色々食べさせてくれたりね、あちこち食べ歩きしたのを僕は舌で覚えて、後で活かしました。習っていなくても、僕はけっこう味を再現したりできたんですよ。自分のオリジナリティを加えてね。


【 色々なものを吸収したんですね。】


音楽的な部分と,料理ね〜。

トルコは唯一,アラブ世界で政治と宗教が分離している国なんですよ。唯一。

だから、すごく ”抜けてる” んですよ。トルコの人なんか,青い目で,黒髪で,アジア人なのかどうなのか分からない人も多くてね。

クロスロードだからね。イスタンブールの雰囲気は居心地が良くて,すごく好きでしたね。

”ブルー・モスク”として有名なスルタンアフメト・モスク(Sultanahmet Camii / こちらのモザイクに魅了されてね。

だから、帰国してから,”名古屋砂漠のオアシス” になる事を願って,中近東料理のレストラン、[キャラバンサライ] という、そんな雰囲気の店を作ったの。

自分の店をオープンする時、”コーラン” の詠唱から始めたの。テープを流して・・・。


【 ジミーさんは,何かの宗教に属したりしていますか?】


全部! ”宇宙教”ね。

僕の自慢は,”ノンセクト” な事。かっこ良く言うと、”一匹狼” 。

属さない。属して組織に組み入れられる事が,”不自由” を意味している事を,小さい頃から知っていたと思います。

だから、フリーランスでね。でないと,束縛される。それが1番イヤ。だから、ワイフであろうが、友達であろうが、”束縛しない関係性”というのが大事。

しがらみ、束縛、従属、からは常に自由でありたい。

僕達は、けっこう似ているんじゃない?


【 そうだと思います。私も、基本的に ”一匹狼” で、自由が大事。どこにも属したくないし、自分らしい仕事を自分で作ってやりたいタイプですね・・・。】


でも、下手したら、そういう”不自由”なのがすごく好きな人もいるよね・・・。


【 ですね。否定はしませんが、そうなると、何でも ”人のせい” になってしまう事が多いと思うんですよね。】


そうそう。あと、依存関係になったりね。やっぱり人と人との関係性は、爽やかな風が間に吹き抜けられる様なのがいいよね。


【 そうですね。”自立した人同士が、その上で共生”・・・みたいなのですね。】


そうです。これからの新しい時代のコミュニティーの理想は、そこに行かないと、無理。

今までも色々実験されて、カウンター・カルチャーこちらとか、ピッピーこちら・コミュニティーとか、皆んなアーティストで才能があっても、そういう風になっていく人達の意識レベルって、”超個性派” と、”超エゴ派” みたいなの。和合できない。で、最後は ”空中分解”。


私は、シヴァ神の帰依者と言っているけど、別にヒンドゥー教の信者とかではないんですよ。

古神道もやっているけど、宗教は要らない。

宗教と科学が合一してきたら、宗教は不要という時代になりつつあるけど、でも、日本人って、宗教何とかに入っている人が、びっくりするぐらい多い。

けっこう若い頃から、僕はすごくアレルギーがあったけど、皆、好きみたいなんですよね。

という事は、”不安な人が多い”って事なんでしょうね。

スピ系の人達も増えてきていて、神社とかに出掛ける人も多くなっているけど、多くの人は、縋ったりお願いに行ったり、要するに依存が多い。

でも、そういう場所ではない筈でしょう。

だから、もっとちゃんと歴史などを勉強しないと・・・と思いますね。

高次とか神界霊界と繋がるという事はどういう事なのかを理解して、どうしなければいけないかを知る事は、思っている以上に大事だと思います。


【 同感です。】


『いつまでもあると思うな親と金』の話なんだけどね。

僕は裕福な家庭で育った訳でなく、全部自分でやってきてね・・・、そして僕なりの経済的な成功を手に入れたのね。そこで、「親孝行をしよう」、と言う話に戻るんですけどね。

両親を、僕は、オーストラリアの別荘に招待したの。まるで ”ハニームーン” みたいになってたんですよね。


【 すごい親孝行ですね〜。】


僕は、ケインズ空港に 2 人リムジンで迎えに行ったんだけど、でも、リムジンが分かってなくて、「何か、車、大きかったよね」って。やりがいがないな〜、みたいなね(笑)。

リゾートアイランドにクルーズで行ったんだけどね、親父は喋れない英語でスタッフの若い女性に一生懸命話してワイワイしている横で、お袋は船酔いして大変だった(笑)。その絵図が面白くてね。

まあ、僕にしてみれば、僕の氣の済む親孝行をさせて貰った


それで、物・金のコレクション、終わりました。

次は心の豊かさだという事で、シヴァ神に呼ばれてインドへ行く事になって、”殆ど外され” ました。


 【 物質的なしがらみを・・・という事ですね。】


はい。

また少し、時間を逆戻りにするとね、今のワイフが、[キャラバンサライ]の従業員だった。

当時のパートナーは、スペイン料理店のママで、彼女と一緒に数千万使って中近東風なビルを建てて、地下が僕の店、1 − 2 階がスペイン料理店で、その上のドーム付きの家に住んでいた。

全てが順調だったんですよ。

ところが、それをひっくり返す様な出来事が起こったんです。


【 いよいよ天変地異の章に入るんですか?】


そう、入りますよ〜(笑)。

ちょっと性格が暗い感じの僕のスタッフの 1 人が、パートナーであるスペイン料理店のママに、僕と彼女(現在の妻)が "できている" という事をチクった訳。

そうしたら、本当に手が付けられない様な状況になっちゃった。パートナーは ”スペイン大好きな女” で、「他の女と寝たら、殺す!」みたいな事を口癖の様に言ってた人でね。

そんな女性に、”ありもしない事” で火が点いちゃって。


【 ありもしなかったんですね。でも、従業員は、そういう役目を受け持たされたんでしょうね。】


そういう事。だから、「悪役もありがとう」、なんですよ。

でも、向こうは逆上して火が点いてどうしようもならない。

僕の通帳から何から何まで置いあった一緒に住んでいた部屋にも入れてくれなくて、「開けろ!」って言ったら、「警察呼ぶ〜!」みたいな。

それで、酷い話で、そこにある物は全部取られちゃった。


【 あらら、強制断捨離ですね。】


ホントだね〜。

でも、僕も潔いから、「オレは1人でも稼いでやっていけるから、そんなに欲しいんだったらくれてやる〜っ!」と啖呵切って、出ちゃった。

その頃は、ゴールドメタリックのエステマ(トヨタ)に乗っていたから、それからしばらくは、それが家になっちゃってね(笑)。

その時に、本当に 数千万以上取られたんだけど、裁判もせず、争わず、手放した


【 潔いですね。実は、執着はそれ程ないんでしょうね。】


そうですね。

でも、1 番嫌だったのは、お袋が鹿児島から送ってくれた布団なんだよね(笑)。

全部、剥がされて、すっきりするしかなかった。

シヴァ神は、僕の資質をよくご存知で、”二足”はダメだから、「こいつは、そこまでやらないと、心の修行には入れない」と、全部 ”剥がして” くださったんだと思います。


僕のバイブルである、パタンジャリのヨガスートラこちらに、『剥奪』の章が出てくる。

『剥奪』ですよね。本当に精神的な修行がしたいのならば・・・、という事でしょう。

そのシンボル的な修行の1つは托鉢なんです。”No Possession、持たない”・・・。殆ど、そこまでさせられてしまった。


でも、オーストラリアに行って、ちょこちょこと掻き集めたら、300 万ぐらいは何とかあった。

「よし、これで、行ける所まで行く。当たって砕けろだ!」っと決意して、店を手放したんです。

本当は、店も経営しながら修行するって計画だったのに、それはさせて貰えなかった。

"二足のワラジ” は、許されなかった。

僕はノリがいいし、人がいいし、お酒はいっぱいあるし、タバコもあるし。店があっての修行はあり得なかった。

そこからの離脱も含めてね・・・


31 歳の時の事ですが、ラビ・シャンカルのシタールの弟子が大阪にいたので、時間と金が手に入った時期、17 歳からの思いが遂に叶う時が来ます。

家族を食わすのに必死なのに、フイィィィ〜ン🎶ってやってる場合じゃなかったけど、31ぐらいの時に、「遂に来た!」ってね。

すぐに大阪に通い出したんだけど、そこでサントゥールも教えている事が判明して、そこで楽器もアレンジして貰って、基礎的な訓練をして、シャルマ 先生の所に行くんですよね。


『音樂と瞑想三昧の生活体驗。光明を得たその存在感はやわらかくも豪快無敵。光と神意(あい)に滿ちた地上天国を光の音で表現。』

でも、やっぱりこの楽器って、ただ弾いても弾きこなせない。

瞑想をして、自分をクリアーにして、精神性を高めないとできない。

例えば、お酒をガーッと飲んで、勢いで弾く様な物ではない。

この楽器に於いては、精神性と現世的なしがらみは両立しない。


いつもお酒に囲まれているから、少し酩酊状態で楽器をいじったりしていたけど、「これ、無理じゃん」ってなってきて、だんだん自分の中でも ”乖離” は始まっていたんですよね。


で、面白いのは、まだ店を経営していた時に、「あ、瞑想しなきゃ」って突然思うんですよ。

そうしたら、本場で修行をしたオレンジの服を着たヨガと瞑想を教える日本人指導者が現れたんですよ!

店が夕方から始まる前の午後に、そこで瞑想のイニシエーションが始まった。

不思議な事にね、僕がふっと何かを思った時は、そういう”使者”みたいな人が、人生の所どころで現れるんですよ。


【 ”答え合わせ” みたいな感じですね、きっと。】


そうそうそう。

これ、”決意”ね。

腹の底から決意すると、道は開かれるんですよ。

上を見たら、上からのサポートが入ってくるんですよ。

でも、反対に、いつまでも迷いがあると、「いつまで迷っているんだ!」みたいに試練がくる・・・。


まあとにかく、随分追い込まれて、陥れられて、シャルマ先生に情熱を伝えたのね。先生に手紙を書いたら、「とりあえず来なさい」と言って貰えたんですよ。

それで、インドへ行ったんです。


300 万あって、「もしも弟子として受け入れて貰えなかったら、ヒマラヤの雪山の洞窟で、サドゥー(こちら)になって、2 度と日本には帰らない」と自己宣言して出て行った。

先生に受け入れて貰ったから、今に至るんです。


【 サドゥーへの道は、今生にはなかったんですね。】


こういう事があったんですよ。

僕の義父が 1000 万円貸してくれて始めた最初にやったカフェバー([パンプキンポンプキン])で、僕は飲み潰して、そこを 1000 万でまた売ろうと思った時に、何とインドの阿片窟で「お前、こんな所にいたら死ぬから、日本に帰れ」とインド人に言われて帰国した I さんという人が、僕のお店の上のマンションに住んでいたんですよ。

その人が風邪みたいに降りて来て、「マスタァ〜、コ〜ヒ〜」って毎日、来ていたの。

「えっ、インドに行くと、こんなんになるの〜?」って思っていた訳。

その彼が、「インドには、マスターみたいに目がギョロッとして、ガリっとしたサドゥーがいっぱいいるし、行かなくていいんじゃない」って言われたの(笑)。

「そりゃあ、確かめに行かなあかんでしょう」って、彼に言ったのね。


それでね、何でこんな話をしたかと言うとね、理由があるんです。

当時はズブロッカ(こちら)とかを 1 晩で飲み干したりしていたし、カフェバーを閉めた後に、人を集めて、世界のビールとかを大盤振る舞いしたりして、世界のビールを一通り試したら、今度はバーボンとか・・・みたいにね。

酒屋のおっちゃんが、世界のお酒大辞典を持ってきたのがダメだったんですよね〜(笑)。

氣が付いたら、酒代が数百万溜まっていた。

店は繁盛していたんですけど、一旦閉めて仕切り直ししないといけなかった。

それで、不動産屋と話し合って、1000 万は厳しいかもしれないから、叩かれたところで OK にするという話をつけたんです。


不動産屋はまだ物件として表に出していない、僕もまだ誰にも話していない時に、さっきの阿片窟の I さんが、「マスタァ〜、おはよ〜」って降りて来た。

で、僕は店を売りに出す事を、彼に初めて喋ったの。

「あ、ほんと〜⤴︎? いやぁ、僕、そろそろ、自分でお店でもやろうかなと思ってたから、ちょっと、親にでも相談するねぇ〜」って。

「え〜?」って思っていたら、1週間後、「僕が買う」って。阿片窟で死に掛けた人が、1000 万で買ってくれたの(笑)!

1番あり得ない人だったんだから!


【 すご過ぎる。面白過ぎる(拍手)】


この人生の、ミラクル・・・。どうにもこうにも僕の首が完全に回らなくなった時に、お店を彼に引き渡して、借金もきれいに返せて、更にそこに 10 枚買った宝くじで 100 万円手に入るの。

すごくない?


【 もう、行くしかないですね・・・。私には、今の話の教訓は、"宝くじは買わなきゃならない"・・・という事ですね(笑)。】


買わないと、当たらないんです。


インドの精神性、インドの宇宙観を勉強しながら、インドでの4年間を過ごしました。

僕のバイブルの 1 つである『あるヨギの自叙伝こちら』も、日本語版と英語版を、その為のノートも作って学びましたよ。やっぱり、インド人とそういう会話を日常的にしたかったんですよ。

その中に、 ”意識の拡大” について出てくるんですど、それを私もやがてインドで体験する事になるんです。


で、第 2 回目の「悟りたい」という発動がぽっときたんです。小学校振りにインドで。

今生生きてきた中での霊的な修行がやっと始まったというところですね。


言いたいのはね、「だから、何が本命なのかは分からない」・・・みたいな。

でも一緒なんですよ。表裏一体なんですよ。


インド古典音楽のサントゥールの音楽は、先生の教えによると、「Not entertaiment(エンターテイメントではない)!」

長い歴史と深い精神性に基づいている、という事なんですよ。

それは、すべからく瞑想、ヨガ、アーユルヴェーダ(आयुर्वेद、Āyurveda / こちら)も含めて、芸術ももちろんそうで、そこにヴェーダというものがあるんです。

インドの叡智ですね。

それが、ヒマラヤなんですね。

ババジ(Babaji / こちら)なんですね。クリアー・ヨガですね。

で、「求めよ。さらば与えられる」を僕は地で行っているからね。


【 素晴らしいですね。】


よく、「求めていても与えて貰えない」って言う人がいるけれど、「心から求めていないでしょう」って。

イエスも <確信> ですよ、とおっしゃった。「求めてごらんなさい。与えられますよ」という事です。

「ない、ない、ない」って言っていても、「ないだけ」だよと。


【 でも、もしかしたら、本人が望んでいる形ではないだけで、必要な事が与えられているかもしれませんよね。同じ体験をしたとしても、その人の受け取り方で、体験の意味が違うという事はよくありますもの。それまでの自分の人生で、どれだけ哲学をしてきたのかという事も、受け取り方に大きく影響すると思います。】


そうだよね。何回与えて貰っても受け取れないから、ずっと”ガクン”・・・みたいなね。

「あ〜、なるほどな」と ”腑に落ちる” というのが大事ですよね。

それはやっぱり、”霊的な向上心” も関わっていると思いますよね。"霊的な体験を求めてこの人生を歩いている" という視点を持っていたら、起こった出来事が ”腑に落とせる”。


私は、ある時、この事が ”腑に落ちた” んですよ。

僕には、「あり得ない、何でやねん!」っていう周りからの裏切り、誹謗中傷、絶望みたいなのがフルで来たから、考えたんですよ。それまでは、「why, why, why?」 しかなかったけど氣付いたんですよ。

Awareness <氣付き>ですよね。


「あ、きっと過去生で、僕がが今されている事、”謂れなき中傷” とか ”裏切り” とかを、やったんだ。それが、今、この人を通して返ってきてるんだ!」と理解したんです。

その瞬間に、”許す・許さない” を通り越して、「ありがとう・・・」という境地になりましたよ。<開眼> ですよね。

現象の中にメッセージを汲めないと、「何でやねん!」と、相も変わらずそれに反発して、カルマの上塗りをしていく自分がいるけど、僕は、少なくとも、そこから自由になれたのかもしれません。



ジミーさんと私(2019-2-8)




To be continued.....


<その2>、お楽しみに〜!




Σχόλια


Ο σχολιασμός έχει απενεργοποιηθεί.
bottom of page