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愛情の源泉。

更新日:2021年12月29日


23年来の友人。私のニューヨーク生活を芯で支えてくれた恩人。



もう 70 歳が間近に迫った長年の友人が、ブルックリンから引っ越してしまった。メトロノースの電車で 1 時間ぐらいしか離れていないニューヨーク郊外にだというのに、とても寂しい。


彼の名前は、キースという。

ニューヨークに渡って半年目で知り合ったので、かれこれ 23 年の付き合いがある。


私がニューヨークに来て、6 ヶ月目。1995 年の 1 月 1 日。私は、そのアパートを見付けて移り住んだ。キースは、そこの住人だった。

当時、私はガラスを勉強していて、ガラス工房のあるブルックリン・ダウンタウンから数分の場所にこのアパートを見付けた時は、とても嬉しかった。


The Prayer #244-247, 23x23cm each, 2016

キースが 1 − 2 階のデュープレックス。

3 階はジャマイカ人の写真家、トニー。

そして私は 4 階の、屋根裏の様な居住空間。

英語がまだままならない留学生の私に、みな親切で、とても積極的に接してくれた。

頼んだ事は 1 度もないけれど、マットレスやテーブル、棚に食器、毛皮のジャケットまで、物をあまり持たない私に、キースは色々な物を調達してくれた。

お互いに、ディナーに誘い合う仲になった。私は、時々、和食でもてなした。


このアパートに移り住んだ事で、私の世界が急速に広がっていった。


キースは、背中の半分まで伸びた白髪まじりのブラウンの長髪を、よく片側で三つ編みにして、胸に垂らしていた。インディアンの羽根模様のシルバーのピアスを片方の耳にぶら下げ、肩や腕に、繊細なトンボや蛇のタトゥーをしていた。彼は当時、ある投資会社の部長という肩書きを持っていた。


キースは、毎月の第 1 金曜日に、ホームパーティーを必ず開いていた。

私も早々に、そこの招待客に加わった。

なぜか、殆どが男性で、40 人ぐらいの中に 4 − 5 人の女性しかいなかった。私は、いつも、1 番若くて、唯一のアジア人で、そして、唯一あまり喋らない(英語力不足が大きな理由)参加者だった。


記念すべき初参加のパーティーで、「新しいボーイフレンドだよ」と、その後キースの結婚相手となるケヴィンをを紹介してくれた。

まだゲイの世界にうぶだった私は、自分が知らないうちに、そんなゲイ集団の艶かしい?渦中にいた事に氣付いたのだった!

それでやっと、この家のパーティーには、何やら魅力的というか魅惑的というか、素敵な殿方が溢れ返っているんだと理解した。


キースは、当時、ボリビア人のボーイフレンドと別れてケヴィンと一緒になったけれど、ボリビアの彼も、その新しいパートナーと来ていて、とても和氣藹々だったのを覚えている。キースには離婚した妻との間に息子がいて、彼もよくガールフレンドと共に遊びに来ていた。


忘れもしない 2 度目の”第 1 金曜日パーティー“がやって来た。

いつもより桁違いの参加者で、彼のデュープレックスのアパートにも裏庭にも、60 人程の人々が犇めいていた。ようやく掴み始めたゲイ独特のしっとりとした空氣感の中を、程良くくらくらしながらソファーに辿り着いた。慣れない社交と、慣れない会話と、慣れない英語にしばしの休息を求めた私に、息継ぎの暇もなく、フォト・アルバムが手渡された。

「この前、皆で、ニュージャージーの”ネーキッド・ビーチ“に行った時のものだよ」。


何氣なく開いたアルバムが、すっぽんぽん!の男衆で埋め尽くされていた・・・!

20 歳の私、それ以前もそれ以降も、こんなに沢山の殿方の裸体を見た事がなかった。疲れていた筈の私の脳みそが、急回転を余儀なくされた。

色んな裸体があるもんだと感心しつつ、目のやりどころにも困りつつ、慎ましやかにアルバムを拝見つかまつっている私の横で、キースは至って穏やか。

私の心の動揺に氣付いてか氣付かないでか、そのビーチの美しさと開放感と、そこで出会った新しい仲間の素晴らしさを、静かに語った。そして、その日の参加者は、ビーチ繋がりだとようやく呑み込めた。

全裸で過ごせる公的なビーチがニューヨークからそれほど離れていない場所にある事も新鮮だったが、それまで縁遠かった”naked“という英単語を脳細胞の隅々にインプットした瞬間でもあった。


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キースは、不思議な人だった。哀愁漂う目元にいつも微笑みを絶やさず、もの静かで、<深き河は静かに流れる>ということわざを彷彿とさせた。


ある時、彼のアパートに住人が増えた。

ボーイフレンドではなく、小柄な黒人の女性だった。ジュディはキースの職場の秘書で、クリッとした目が、大きな黒ぶちの眼鏡の向こうでとても巨大に見えていた。彼女ともよくパーティーで顔を合わせていて、もうすぐ定年になると聞いていた。

彼女が移り住んだ理由を詳しく知らないまま、私は冬を日本で過ごし、アパートに戻った時には、彼女の姿は消えていた。


後でキースが教えてくれた。ジュディには身寄りがないから、自分が引き取ったんだと。

ある日、急に退職した彼女を病院に訪ねると、乳癌がリンパ節に転移していて、もう手遅れの末期だと告げられた。病院ではもう手の施し様がない状態の彼女を、キースが自宅で看病する事に決めたのだった。

彼女はアパートに 2 ヶ月半しかいなかった。とても弱っていた彼女を、キースは上から下まで世話をして、最後の瞬間も一緒に過ごした。

私に、「最後は本当に眠る様だったよ」といつもの様に微笑んだ。



数年前に遊びに行った時も、別の同居人がいた。

その時は、既にケヴィンとは夫夫?で、ケヴィンが作ってくれた美味しいチキン・グラタンを口に運んでいると、その同居人が玄関から入って来た。

「ヴァレンティーンだよ」、とそのおじいさんを紹介してくれた。ヴァレンティーンの頭の上に、大きな灰色の帽子が載っていた。彼は、「ハイ」と一言、近くのソファーに寝そべった。


ヴァレンティーンは、長年、同じ通りの目と鼻の先にあるアパートに住んでいたプエルトリコ人で、3 週間前にそのアパートから火が出て、住処を失くしていた。当時 83 歳だった。「新しいアパートが見付かるまで、このソファーを使って貰っているんだ」、と教えられた。


その 3 年後に、久々に主人と小さな娘を連れてディナーに呼ばれた時には、ヴァレンティーンは、既にいなかった。私たちが訪れた少し前に、キースとケヴィンに見守られて、穏やかに旅立っていた。

赤の他人を 3 年間も自宅に住まわせる事のできる度量の大きさに、改めて感嘆した。そして、人生の最終地点を素敵な人達に見守られながら平和に終えられたおじいさんを、少し羨ましく思った。


「いつも彼が被っていた帽子、覚えている?」「もちろん!」

そう、ヴァレンティーンは、ずっと同じ帽子を被り続けていた。夜寝るときも、小脇に抱えていたと聞いていた。

「彼が亡くなって、初めてあの帽子を手に取ったんだ。すごく驚いたよ!」

帽子の中には、ポケットが縫い付けられていて、そこに彼の全財産の 8000 ドルの札束が入っていたらしい。

「彼は、よく生前に、僕がいなくなったら、この帽子を貰って欲しいと言っていたから、よく、丁重に断っていたんだけどね」、と2 人でウインクした。


その席で、キースは、自分の新しい楽しみを嬉々として披露してくれた。

“ニューヨークの宮廷 − 千のガウンの夜”というガラ・パーティーへの参加だそうだ。立派な写真集もあって、それを見せてくれた。王族の様に、煌びやかなドレスや宝飾品で着飾ったカップルの写真が満載で、その中の 1 ページにキースの写真も載っている。”王女、王妃付きの秘書”と添えられていた。

「僕は、ドラッグクイーンと結婚したつもりはないのにね」とケヴィンが笑いながら、まんざらでもなさそうに肩をすぼめた。彼も、ゴージャスなドレス姿の王女になりすませたキースに付き添って、タキシードで煌びやかなパーティーに参加している。


現在はニューヨーク郊外の、林や湖の近くの自然に囲まれた大きな一軒家でガーデニングや釣りをして、夫夫円満な平穏な生活を満喫しながら、シュールリアルな ”ニューヨークの宮廷”に顔を出すのを、時々の楽しみにしている。



20 歳の時、まだ慣れない異国の土地で私が彼に出会ったのは、偶然のチャンスを装いながら、絶対の必然に導かれていたに違いない。

キースとの関わりを通じて、既成概念を脱ぎ捨てて自分の自由な表現を求め、楽しむ素晴らしさを肌で感じさせて貰い、どうやったらああいう風に生きられるのだろう・・・と何度も考えた。


しかし、私は、同時に彼の心の闇も知っている。アルコール依存の父に受けた虐待や、社会からの差別的な扱いや、自分の本質を見詰める為の長い道のりを知っている。

彼が全てを受け入れて、その全てを愛する事ができる様になるまでの長い道のり・・・。


苦悩しながら手に入れた自分への愛が、周りの全ての人々に惜しみなく溢れる愛情を注ぐ事のできる、彼の魅力の源泉だという事も。

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