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文は人なり。ブログ、始めてみました。

更新日:2020年3月12日


等身大の私の姿を、私の文章は表現できるのだろうか?


孔子曰く、<四十にして迷わず>。

私に関しては、ちょっとだけ40を過ぎて、ようやく<不惑>の実感が湧いてきた今日この頃。

40までは、いつもいつも自分の周りに<枠>を見つけては、それを外すのにもがいて、外れたと思ったら、やっぱりまた何かしらの<枠>に嵌っている自分を発見して、また必死で頑張って・・・。

そして、そういう自分を極めて冷静に客観視する、理性的な自分も同時に存在していて、起こっている事や自分の感情を体験しながら、頭の中ではクールなナレーションを効かせていた。



私は、<枠>が好きではない。

そもそも<枠>の事を考え出したのは、つい最近になってからで、とにかく人と同じ考え方や、行動をとる自分に対して、いつも斜めに見る癖があったと思う。

それは、素直でないからのではなく、必ず<理性的でクールな自分>が<感受性豊かな脆い自分>に、「自分らしくある為にはどうするべきか」を常に問い続け、流されない様に支えていたからだと思う。


ThePrayer #304, 60x95cm, 2018, (コラージュ)

「自分らしくある為にはどうするべきか」という宿題に、かなり真面目に?取り組んできた私は、自分を説明するのに、時々困っている。

アーティスト。ジュエラー。ヒプノ・セラピスト。主婦、そして母。ピアノがなくては生きていけないし、かつてはガラスも吹いていた。


興味のある事は、たいがい小さい時から手を付けた。手を付けたからには、ベストを尽くさねば氣が済まなかった。けっこう何でもできる様になった。褒められたくてしている様な事は余りなかったと思う。むしろ能力の上がっていく自分が楽しかった。

でも、能力が上がっていくと正比例して、現状と理想の狭間や、人間関係で悩む事が増えた。そういう時に、私は<枠>の存在を強く意識した。


<枠>は、家庭や学校、地域社会、国へとだんだん大きなものになっていった。

20歳で日本の<枠>を出てみたら楽になるかと思ってニューヨークに渡ってみたら、<国際社会の枠>は、より複雑怪奇で、<日本人枠>のモノの見方では理解できない事が多い。理解する為に、けっこう真面目に取り組んできた。そして、よく挫折感を味わった。


ああ、今の自分の様に、心が平穏で、大概のものにも動じない図太さ?があれば、あんなに打ちのめされた悲壮感を抱きつつ、それでも笑顔を浮かべながら、無理して立ち続けなくても良かったのに・・・と思うが、そんな感じで歩んできた年月が、今、私の心に平和を築き上げてくれた事に感謝し、ようやく大きな<不惑(枠)>という境地に踏み込めた事を、素直に喜ぼう。


外してきたと思ってきた<枠>は、いまだかつてなくなった事はない。囚われなくてもいい様になったのだ。そして、段階を経て様々な<枠>を必要としていたのは、確かに自分だ。学びの為に。成長する為に。本当の自分に氣付くプロセスとして。

自由で大きな意識で自分と関われば、<枠>という自分と自分以外を分けるそんな偏狭な概念も、始めから不必要かもしれないのにも拘らず。


でも、囚われた事で囚われない自由を知る、嵌った事で嵌らない自分を理解する。このプロセスなくしては、やはり、<不惑(枠)>の喜びも、ありがたさも見えなかったのだろう。


「いや、まだ旅は終わっていないよ」と、クールな声が脳裏を掠めもするが・・・。



私のこれまでの旅、これからの旅を、クリエーターとしてあくまでも等身大の自分の言葉で綴っていけたらと思う。

よろしくお付き合い下さいませ!


The Prayer #304 のディテール / テキスト: Oneness in the Light of the source (根源の光の中に於けるワンネス)

 

<文は人なり>:フランスの博物学者、ジョルジュ・ルイ・ビュフォン (1701-1788)

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