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55 年目の涙。

更新日:2021年12月29日


アパートの窓辺に立って、蘇る風景。



20 歳で初めてニューヨークの地に立ってから、24 年が経った。

ニューヨークに来てから、何度か引っ越しをしたけれど、マンハッタンとブルックリンがいつも私の拠点だった。

ニューヨークでの日常生活の中で起こる目まぐるしい出来事や変化は、学校で学んだ事の比ではない程のものを私に与えた。連日、心をざわめかせたり、凍らせたり、踊らせたりする数々の予期せぬ物語に遭遇した。

そんな物語も、これから少しずつ語っていけたらと思う。


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今、ブルックリンのアパートで暮らしていると、時々、台所の窓からかつて見えていたツインタワーの事を思い出す。

作品タイトル: The Prayer・祈りシリーズ<浄化> / スウェーデン、エーランド島のボリホルム城にて、1500羽の折り鶴インスタレーション。 高さ8m

このアパートには様々な偶然が重なり合って 2000 年の秋に引っ越して来た。

築 150 年と言われている昔ながらの煉瓦造りの建物に、6 世帯が入っている。私のアパートはその 3 階にある。


この地区は、自由の女神がちょうど真正面から見えるサウス・スロープと呼ばれる場所である。

ブルックリンでも由緒正しいグリーンウッド墓地(レナード・バーンシュタインやジャン=ミシェル・バスキアのお墓もある)のすぐ近くで、南北戦争の時は大きなバトルもあった丘にあり、イタリア移民が多く移り住んでいた。私の引っ越した当時も、まだイタリア系アメリカ人が多かった。


引っ越し当時からよく言葉を交わしていた老夫婦が、その当時、アパートの 1 階に住んでいた。イタリアからの移民 2 世の夫婦だった。老夫婦とは、会うと必ず立ち話をした。

ある時、急に「君は中国人なの?」と訊かれ、日本人だと答えたその後からは、彼らはもっと朗らかに私に話し掛けてくれた。


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私は毎夏を、主人の故郷であるスウェーデンで過ごしていて、2001 年もひと夏をスウェーデンで送った。そして、9 月 11 日に、翌日 12 日発のニューヨーク行きの便の航空券を買った。

その日の午後、友人とストックホルムのカフェで団らん中に、カフェのTVを通してツインタワーの大惨事を知った。翌日のニューヨーク行きの便は当然欠航で、空港閉鎖の煽りを喰らって 10 日間ニューヨークに戻れなかった。


数ヶ月振りにアパートに戻ると、台所の窓の向こうの風景から、ツインタワーが消えていた。


私の姿を見付けると、老夫婦が大喜びで迎えてくれた。

テロ当日は、風の影響で、タワーからの煙や書類が沢山降って来て、掃除が大変だったと教えてくれた。そして、「私たちはあと3 日で、シニア・ケアの充実したノース・カロライナの地域に引っ越す事にしたのよ」、と言った。

残念がる私を見て、その時初めて、彼らは私を自宅に誘ってくれた。

アパートの中は、もう既に引っ越しの準備ができていて、沢山の段ボール箱があちこちに積んであった。その上に、ヘルメットが無造作に置いてあった。


「ねえ、トキコ、このテーブルと椅子を貰ってくれない? 引っ越し先は狭くて、持って行けないの。でも、とても思い入れがあるから、あなたに是非貰って欲しいの」と、奥さんがコーヒーカップをそのテーブルに置いてくれた。私たちのアパートにも、3 m以上ある大きなテーブルがあるので、丁重に断り、氣持ちに感謝した。

コーヒーを楽しみながら、沢山語り合った。


そして私は、会話の間中ずっと氣になっていた、アイビーグリーンの古びたヘルメットの事を尋ねてみようと決心した。

「あれって、もしかして、あなたの?」 その言葉を口にしながら、感じた胸の動機が、今でも蘇る。「そうだよ」、と微笑むジョンおじいさん。

「もしかして、あなたが使っていたの?」「そうだよ。」

「あれって、兵士のですよね?」「そうだよ。」


見せてくれたそのヘルメットには沢山の傷があって、弾が擦った跡もあった。ヘルメットでゆで卵を作った話もしてくれた。

私の反応が、彼には意外だったのだろうか? ジョンは梱包の終わっている幾つかの段ボールのテープを引き剥がして、また開けて、そして取り出した物をテーブルに並べた。

銃。軍刀。そして、紙の束。全部、"戦利品”だと言った。


彼は血氣盛んな 18 歳の時に自ら志願して、ネイビーに入ったそう。フロリダのフォートローダデールで訓練を積んで、20 歳の時には太平洋にいた。

「じゃあ、あなたは日本人と戦ったのね?」

「そうだよ」と。



最初の戦地はサイパンで、彼は、戦艦から“鉄板で囲まれた様な箱形のボート(’タンク・ボート’と言っていたような氣がするが、名称は忘れた)”で砂浜に上陸して、そこにいる”敵“を一掃する第 1 陣にいたのだそう。動くもの、煌めくものに向かって、とにかく弾を撃ちまくった。

バンカーを確認。その小さな覗き窓からキラッと光るものが一瞬見えた時、ジョンは射撃をしながら走り、そのバンカーに辿り着いた。何の氣配もしないので覗き込んでみたら、中は暗く、地面に溜まった血が湯氣を立てて光っていた。彼は、その中に入って、自分の殺めた日本人兵士から、素早く軍刀を奪った。

私に軍刀を大事そうに手渡してくれようとしたが、私はとてもそれに手を触れる事ができなかった。そして、彼に敬意を表しながら、話に耳を傾け、彼の若かりし姿に思いを馳せた。


「今迄ずっと氣になっていたけれど、機会がなくて、何が書かれてあるのかまだ知らないんだ。読んでくれるかい?」と、紙の束も渡された。

1 つの封筒を手に取る。宛先はサイパン島の日本人で、同じ名字の主が沖縄県渡嘉敷島から出したものだった。

渡嘉敷であった集団自決をすぐに思い出した。私は高校時代の現代社会で、沖縄戦が自由研究テーマだったのだ。


手紙は、”長い間旅に行ってしまったまま、家族を残していつ迄も帰って来ない父“ に対して、切々と家族の窮状と恨めしい氣持ちを訴える様な、3 枚に渡って子どもが一生懸命書いたと思われる文面だった。私は、これを、ジョンに訳して読んであげた。

途中で声が詰まって、何度も途切れた。多分、この子どもも、亡くなったかもしれないと付け加えた。(私は、この封書を借りて、自宅のファックス電話でコピーさせて貰った。)


顔を上げると、ジョンも涙を浮かべていた。2 人で見詰め合った。

ジョンが、「戦争はいけない」と呟いた。

愛国の精神で、家族を自分の手で守ると誓って出て行った場所が、実際は生身の人間同士が無意味に殺戮し合う地獄だった。彼はサイパンの後に、ハワイで休養をとってから、沖縄でも戦わねばならなかった。そこでも目にしたものが、いつ迄も脳裏から消える事がないんだと、私の前で大粒の涙を一杯こぼした。

戦後 55 年経って、初めてこんなにも泣いて、初めて肩の荷が下りた氣がすると言ってくれた。

長年、無意識のうちに囚われていた様々なものが癒され、浄化したのだろうか。

隣でジョンの背中を優しくさする奥さんが、私に微笑んでいた。


「日本人の私を見るのは、辛かった?」と訊いた。「そんな事はないよ。君は素敵な日本人の女の子で、僕の敵は”ジャップ(Jap / 日本人への蔑称)”だったんだから」と。それから「何の為に、多くのジャップを殺さなければならなかったのか、今でも全く分からないんだ」と首を振った。

「でも、日本人が素晴らしい人だと知れて、今は、本当に嬉しいよ」と言ってくれた言葉が、忘れられない。


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彼は、本来自分にとっても何の関係もないジャップと命を懸けて戦って、そして幾つもの戦利品を携えて帰国した。その後は、多くの病歴以外には、何事もなかったかの様に、ごく普通の労働者階級の人生を送った。

でも、彼の大切な青春の舞台は、血なまぐさい壮絶な太平洋だった。

その自分の体験した紛れもない時間を確かめる様に、肯定するかの様に、彼は彼にとっての確かな青春の存在の証を“戦利品”と呼んで、一生大切にしてきていた。

“戦利品”とは、もしかしたら、”極限を生き延びた自分の命”への慰め、褒美、象徴なのかもしれない。


ジョン夫妻はその 3 日後に引っ越し、それから 1 度も会っていない。18 年前に 77 歳だった筈だから、もうご存命ではないかもしれない。

でも、私は、あの日の会話を、昨日の事の様に鮮明に思い出す事ができる。そして、その時と同じ様に、涙が滲む。


日本人と戦って、体中に大きな荷物を括り付けて歩いた彼の長い人生の晩年に、日本人である私が、もしも、もしも彼の荷物を少しでも軽くできたのだったとしたら、本当に不思議な縁だったなあ・・・と感慨深い。


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私はこのアパートの台所に立つと、もうそこには無くなってしまったツインタワーの残像を窓の彼方に見える景色の中に思い浮かべながら、「トキコ、戦争はダメなんだよ。絶対にダメなんだよ。それなのに、また今から戦争が始まろうとしている」という彼の悲痛な言葉を反芻する。

2001 年のあの日、彼の目から滴り落ちた涙の重さと、頬を伝わるその優しい光とともに。


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