top of page

”てのひら”。

更新日:2020年3月14日


与え、受け取る喜び。氣付き、そして決意。



先ほど、催眠セッションから帰宅した。

この感覚を、どう表現しようかと思いつつ、計画性もなく文字に変換したい思いが心に在る。

The Prayer #299, 77 x 62 cm, 2017

大阪の実家に戻っている私の元に、わざわざ九州から <TIF ヒプノシス> を受けに 1 人のクライアントさんが見えられた。彼女は 50 代の女性美容師、笑顔の美しい柔和なお人柄の方だった。


少し長目になったセッションは、たくさんの氣付きに溢れていて、大変興味深い内容だった。この地球という星で、人間としての貴重な経験を積み重ねながら生かされているという奇跡的で、掛け替えのない体験について、改めて心の底から感謝の念を抱き、また、自然や宇宙との一体感を噛み締めさせられる数々の示唆に満ちていた。


セッション後、クライアントさんが九州に戻られる新幹線の時間迄にまだ少しあったので、私達は最寄りの喫茶店で時間を過ごす事にした。

美容院でお客様にして差し上げているという ”手のマッサージ”の事を話してくださった。そして、私は、たっぷりと時間を掛けたそのトリートメントを受ける恩恵に預かった。

何種類もの生薬が配合された良質のローションで、肘から指先までを、優しく優しくマッサージしてくださったのだった。

ご本人が、初めてそのマッサージを受けた時、「誰からもこんなに優しく触れられた事がなかったと思い、自分も同じ様にお客様にして差し上げようと決めた」という様な経過があったとの事だった。

このマッサージは、”おまけ”のサービスとして、皆様に「させていただいている」とおっしゃった。


私は、「なるほど」、と思った。

マッサージという形式を用いて人から与えられる優しく温かな思いは、"てのひら"( ”掌” とも ”手の平” とも記したくない感覚を、ご理解いただけるだろうか?)から確かに発せられ、皮膚と言うよりは、皮膚というアンテナを使って直接的に心の奥まで染み入るものだな、と。

ゆっくり、ゆっくり、優しく、優しく肌を撫でるその方の "てのひら" や指先の感覚は、まるで母親が我が子を慈しむ感覚そのものだと感じ入った。彼女から与えられた心地良い皮膚の感覚は、無常の喜びの静かなさざ波となって、私の細胞の 1 つ 1 つに呼び掛け、細胞の 1 つ 1 つを癒し、細胞の 1 つ 1 つを覚醒させる力強さを秘めていると思いながら、彼女のゆったりとしたしなやかな手の動きを見詰めていた。


私は、そうしながら、ある 1 つの場面を脳裏に思い描いていた・・・。



---

私は、大阪の高校を卒業してから、金沢で数年を過ごした。金沢のアートスクールに通う為だ。母の実家、つまり、母方の祖父母の元に同居させて貰っていた。

それ迄は 1 年のうち夏休みの 1 ~ 2 週間しか過ごした事のない、ほのちょっと距離感のある祖父母の家が毎日の生活の場になった事は、私に大きな学びと限りない祖父母への親近感を齎した。


祖父母はいつも 2 人して一緒に買い物へ出掛け、料理をし、畑をし、梅干しや大根寿司などを漬けていた。所有地である山の一角に、 2 人一緒に筍を堀りにも行っていた。私は同居中、祖父母と共に畑仕事を時どき手伝いに行き、引き抜きたばかりの逞しい大根や白菜などを持って、ウキウキと帰路に着いたり、何キロもの山道を筍堀りに同行して、70 歳の祖父母の健脚振りに舌を巻いた。

祖母は、毎朝愛情たっぷりの弁当を用意してくれた。朝も夜も、祖父と協力し合って、私の為に金沢の旬が溢れるたくさんの美味しい皿を並べて、私の学生生活を支え、その料理の全てに大きな愛情をふんだん込めてくれた。

今はもう口にできないそのご馳走を思い浮かべると、祖父母の思いがたくさん込められた優しい味が懐かしく、つい、目頭が熱くなる。



実は、その家には、もう 1 人の住人がいた。それは、祖母の姉に当たる大叔母で、私は その人を 「おばさん」と呼んでいた。

大叔母は、下肢が不自由だった。誕生時に、"やっとこ" の様な道具で頭を引っ張られた時に、「運動を司る脳の部分を傷付けられた」からだ、という抽象的な説明をされた記憶が頭の片隅にある。何となく訊いてはいけない氣がして、私は今でも詳細を知らない。


その理由は、母に対する私の遠慮の氣持ちによるところが大きい。

母は自分の事をあれこれとは話さないが、母が 幼少 〜 思春期を送っていた時代の田舎では、やはり自宅にいわゆる障害者がいる事で、世間体に障り、自尊心も傷付けられもしたという背景が想像に難くない。

頭脳明晰で負けず嫌いの真面目な母が、大叔母の存在によって後ろ指を指された、またはそう感じたという事が、どれほど母を苛んだかというのは、私には直接話を聞かなくても良く分かる。

母が元々持っていた性分もあったとは思うが、大叔母の存在は、きっと母を必要以上の頑張り屋の負けず嫌いに仕立て上げたのではないかと私は想像している。


その母が、私を健康体に産んだ 2 年後に、今度は私の弟を脳性麻痺による障害者として産んだのは、何とも皮肉な話だと思う。

障害者という言い方は、私は、特に弟に関しては全く不適切だと痛感しているが(以前のブログでも書いたが、彼は身体の不都合にも拘らず、日本中を自由に飛び歩く行動力を有している!)、弟も大叔母と変わらない身体的特徴を備えて我が子として生まれてきた事実が、どれほど母を落ち込ませ、罪悪感や自責の念や、自己嫌悪、絶望などといった否定的な感情で縛り付けた事だろうかと、私はいつもいつも小さい頃からあれこれと想像力を駆使して母の心の中を理解しようとしてきたのだった。

母の心の葛藤を慮って、とにかく、私は幼少期から、母の前で大叔母の事には触れてはいけないのだとずっと思い込んできたほどだった。



その大叔母は、私が幼い頃は、まだ不自由な体でありながら祖父母と一緒に台所に立って食事の支度をしていた後ろ姿として私の脳裏に焼き付いているが、氣が付けば、いつからだか、すっかり寝た切りになっていた。

大叔母の世話は、くる日もくる日も祖母が一身でこなしていた。体の自由の利かない大叔母の、文字通り全ての身の回りの世話である。


私や弟は金沢の祖父母の家に行くと、毎日の様に無邪氣に大叔母の部屋に顔を出した。

大叔母はとても記憶力が良く、関東大震災の当時(当時は川崎に住んでいた)幼い大叔母は母親(私の曽祖母)におぶられて逃げたというエピソードを始め、たくさんの話を楽しく分かり易く披露してくれ、私の知らないずっとずっと昔、大叔母や祖母が辿った人生の道のりや、母やその妹弟の子供時代を少しずつ知っていく楽しみを与えてくれた。そういう訳で、私と弟は積極的に大叔母の部屋で多くの時間を費やした。


---

私が金沢の祖父母宅で過ごし始めた事は、私が大叔母と触れ合う時間が増えたという事でもあった。しかし、通学をしており、学校の課題などや、週末のアルバイトの時間などで、その時間が劇的に増えたという訳ではなかった事は、少し残念である。

私が自分の事で精一杯で、自室で寝たままでいる大叔母を顧みる余裕がない日が続くと、私は自分の中にちょっとした罪悪感も感じもしたが、大叔母は文句 1 つも言わず、「最近は忙しいんだねえ」とか、「あなたはいつも頑張っているんだねえ」という言い方で、その寂しさを控え目に私に伝えてくれていた。


大叔母はいつも、体の右側を下にして若干横を向いいた姿勢のままで、2m ほど先に設置された TV を観るか、新聞や書籍を読むかして、淡々とした変化のない 20 年弱を過ごしていた。

今思い返すと、何とも氣の遠くなりそうな、私だったらきっと退屈で発狂でもしてしまいそうな人生だ。

大叔母は、その限られた枠の中で、人の世話になるしかない自由の利かない体を横たえながら、一体どんな思いを抱きながらその人生を送ったのだろうか。きっと誰にも伝えられなかった数々の思いを内に秘めながら、自分の不自由な人生としっかりと穏やかに向き合っていたのだろうか。全生涯を通して完全な一個体として生きる自由を与えられず、人目に触れない場所に横たわりながら、その静かな人生に、どんな意味を見付けていたのだろうか。



同居も 2 年目の、私が 19 歳の時、大叔母が珍しく酷い風邪をひいた。医者が呼ばれたりもしたが、大叔母の症状は、しばらくの間、回復しなかった。

私は心配になって彼女の部屋を訪れた。何とかしてあげたいと思った。

私は、大叔母の足を撫で、手をとって摩りながら、般若心経を唱えた(私が物心付いた頃から母が写経をしたり、家族で西国33箇所巡りをしながら両親の般若心経を耳にしていて、氣が付けば、中学校の頃には自然と私も般若心経を唱え、写経を始めていた)。

その時、大叔母は「私は日蓮宗だから、般若心経は良く分からないけどねえ・・・、でも、あなたは、こんな私の手を握ってくれるんだねえ・・・」と、しんみりと呟いた。


私は、その時、雷に打たれた様になってしまった。

ものすごくびっくりしたのだ。その驚愕に名前を付けるとすると、羞恥心や罪悪感と呼んでいいと思うが、急に強烈なそれらの感情に襲われて、一瞬氣が遠くなりそうになってしまった。<穴があったら入りたい>という感情だった。その感情に対して、私は全く不用意だったからだ。

「もちろんよ」とお茶を濁した氣がするが、とにかく、大叔母の体に触れた事がそれ迄に 1 度もなかった事が、ショックだった。

それよりも何よりも、"体に手を触れて貰う" という、そんな些細な、そんな日常的な事に対して「こんな私の手に」と大叔母に言わしめているその現状がとても重苦しくのし掛かって、その重みに堪え兼ねたのだった。


大叔母は、「嬉しいねえ。ありがとうねぇ」と、かすれた苦しい息の下で、私に呟いた。

その日、私は学校の課題を後回しにして、ずっと大叔母の弱った細い手を握って過ごした。

心の中で、申し訳ないという氣持ちと、私の身を引き締めた驚愕と、手に触れるという極めてシンプルな行為で大叔母の役に立てた喜びが複雑に絡まっていた。


---

手で触れる事。

ああ、何て簡単で、そして、何て偉大な事だろうか。

私はあの日から、自分の掌を、何か特別なツールの様に眺める癖がある。それは、私の大切な ”てのひら” なのである。

”てのひら” の中には、私が重ねた大叔母の掌がある。大叔母の横たわった小さな姿がある。そして、大叔母の呟いた大事な言葉がある。

私と大叔母は、私の”てのひら” の中で、いつも繋がっているんだな・・・と感じる。

私は、あの日、大叔母によって、とても大切な宝物を授けられたのだな・・・と、そう感じている。



日本には "手当て” という言葉がある。そして、まさに、手当によって癒しが齎されるという事例が幾らでもある。いや、事例なんて不要かもしれない。誰かの掌で触れられる事によって、そこに人の真摯な思いや優しさや温かさを感じる事が、直接的に心を慰め、気分を落ち着かせる事ぐらい、誰だって大半の人は経験している筈だ。


”てのひら” は、何の特別な道具も技術も、拙い言葉も要さない。それ自体が素晴らしい癒しのツールになるという事を、今日は改めて実感させていただいた。


”てのひら” を通じて、自分の最良のもの、自分の真実の思い - 真心 - を、まるで虫眼鏡の様にその美しいものに意識を集中させて相手に伝え、与え、美しいエネルギーの場を作り出すのだ。そして、受け取り手の掌も、”てのひら” としてそのエネルギーを汲み取る優れたアンテナになる。


そういう次第で、私は自分の催眠のセッション中に、率先して自分の”てのひら” を活用している事は、私のクライアントさんは、もしかするとお氣付きであるかもしれない。


---

今日、セッションをさせていただいたクライアントさんとの事後の触れ合いは、しばらく忘れていた私の大叔母との大切な記憶の断片 - それは、私にとっては本当に思い出すべき大事なもの - だった事に氣が付いた。

なぜなら、今、わたしの自分の”てのひら” に映し出されているのは、痩せ細った体に閉じ込められた、気の毒な一生を閉じた大叔母の姿ではなく、私に大きな目醒めのきっかけを与えた観音様の様な姿の大叔母なのだから。


クライアントさんに、ゆっくり、ゆっくり、優しく、優しく両手に触れていただきながら、私は大叔母への深い愛情と感謝の念を抱いていた。



優しく美しいクライアントさん、今日は、本当にありがとうございました。あなたのお陰で、私の中の未消化だった過去が、また 1 つ浄化された事をお伝えしますね。

そして、私も自分の”てのひら” に、愛情と誠意を込めて、一生大切に使っていきます。



The Prayer #299、ディテール、text: <根源の一部である事の記憶>

Comments


Commenting has been turned off.
bottom of page