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真似道。

更新日:2020年3月14日


無限の可能性の種蒔き。



2018 年 6 月 28 日の 夫婦展のオープニング以来、私は毎日スウェーデン、エーランド島のボリホルム城に通い続けている。

大勢の人と話しをして、展示場の片隅で折り紙を教えたり、こうしてコンピューターと向かい合ったり、自分達の作品が、ちゃんと新しい住処を見付けられる様に見守りながら過ごし、ようやく展示期間も半分を過ぎた。


制作期間中ともセッションなどで皆さんと関わる時とも異なる質の時間が、ここにはある。



ボリホルム城は、エーランド島の人氣の観光地である。展覧会があるとは知らないでやって来る観光客が大半を占める。

そういう次第で、たまたまアートの展覧会に迷い込む人々が多く、そんな人々を観察するのは、けっこう興味深い。


2年前の展覧会の時も、私がひと夏中この同じ場所に座り続けたので、人々の行動パターンがだいたい分かっている。家族連れの行動様式も、彼らが展示会場に足を踏み入れた時点で、カテゴリーA から Gぐらいにすぐに分けられる。

足音、歩み具合、作品の見方、室内の巡り方、話し方やその内容などで、かなり個人の個性や傾向や、その人の子供との接し方、子供が抱いている親への信頼感が特定できる。


アーティスト本人としては、当然ながら、「ワオ」と感嘆の声をあげたり、「素晴らしい作品ね」、「美しいね」、「すごい仕事だね」などと話し合っているのを耳にすると、本当に有難く幸福感に満たされる。精一杯の事をしてきて良かったと慰められる。

時どき、「あなたがアーティストなの?」と、とても有難い感想を伝えに私に話し掛ける人もいて、そういう時は心の底から嬉しい。


しかし、正直に言うと、そうでない時の方が断然多い。


ぎゃあぎゃあと賑やかな叫び声と騒然とした足音が石造りの場内に響いて、数人のわんぱくちゃん達が子ネズミの様に室内を走り回ったりする。

それだけならまだいいのだが、わーっと作品に群がったかと思うと、何の躊躇もなく作品に手を伸ばす。触り、額縁が傾き、板ガラスが指紋だらけになる。

半数近くの親が全く注意を払わないものだから、仕方なく私が親がするべき行動を取らねばならない。「触ったらダメ〜! 見るだけだよ〜!」と。ああ、全く面白くない役回りなのである。つい、溜息が出てしまう。

注意するのはまあいいとして、本当に嫌な思いをするのは、親が全く何も言わない事である。日本だったら、まだ良識がある筈で、「すみません」の一言が必ずあると思う。

しかし、どういう訳かこの国では、全く見て見ぬ振りで、子供に注意のできない親が以外と多い。


別のケースでいうと、アイスクリームやコーヒーカップを手にした人々(家族全員がアイスクリームを食べ歩きしている事がとても多い)が、のっしのっしとやって来て、只、横切って行く。携帯電話の画面と睨めっこしたまま、過ぎ去って行く。多分、こういうカテゴリーの人が50%である。

この人達には、何も見えていない。作品が壁にあっても、何も目に映らないし、お城に来ているのに、そのお城さえ見えていない。何も見ていない。無言でのっしのっしと部屋から部屋を最短距離で移動して行く。のっしのっしとアイスクリームを囓る親の後を、のっしのっしと子供達が同じポーズで続く。

それに、ゴミをあちらこちらに置いて行かれるのも迷惑な話である。落としたアイスクリームの塊も、気付くのが遅かったら、たくさんの注意散漫な人々に踏まれて、そこら中にネバネバした足跡が広がる事態になっている。

しかし、こういうケースは、まあ、見慣れた。


中でも1番困っていて、全く慣れる事ができないのは、城にもアートにも興味がないのに、値段にだけはとんでもない注意を払う人々である。全く作品を見る事なく、作品について記載した札だけを見て回っている。タイトルも見ない。「うわ、これは X X クローネ!」、「こっちは X X クローネ!」、「 X X クローネ! 高い!」、「わー、これ、売れてる。この人、 X X クローネ儲けてる!」などなど。作品の前で家族全員が腰を屈めて値段についてだけあれやこれやと言っている。溜息の数も増える。

私と主人の付ける値段は、アート界に於いては、ものすごく良心的であるが、多分、こういう類の人達は、一般的に芸術作品に付けられる価値というものを知らないのだ。自ら展覧会などという”場違いな”場に足を運んだ事がないに違いない。背後にどれだけの労力があるのかなど、全く理解不能なのだな、と思う。

仕方がない、作品自体が全く見えていないのだから。

でも、こういう会話が耳に入ってくるにつけ、私は本当にうんざりし、身体中からエネルギーが消耗していくのを感じる。耳栓でもしたくなる。


なぜなら、そういう親達は、子供達をも巻き込んで、そう、子供達にも数字だけに固執する偏ったものの見方を植え付けている事にすら氣付いていないのである。

自分達の生きている世界に存在している様々なものを観察して、楽しむという人間らしい豊かな感受性を養う機会を子供達から奪っているとしか思えない。作品に込められたアーティストの意図や、色彩感覚、技法に思いを馳せるなんて考えられない事だろう。絶対に道端の花にだって氣が付かないに違いない。”割引”やホットドッグのサインには、敏感かもしれないけれど。


だから、真逆のケースを目にすると、私は本当に嬉しくなる。

子供達が「うわ〜!」と歓声をあげて、「見て、鳥が吊ってある!」、「魚が描かれてある!」、「素敵だね〜!」、「すごいね〜!」と入って来ると、親達も同様の事を口にしている。全員で作品を眺めて、感想を交わしている。親と子供達が、同じ様にリアクションしている。



子供達は、もの事に対する接し方、ものの見方、楽しみ方などを、周りにいる大人達から学ぶ。人生の始まりのステージでは、その大人というのは、ほぼ確実に親であろう。子供達は、周りの大人を見て、真似をしながら、世界との関わり方を身に付け、感性など高めていくのである。

親が綺麗と思うものを”綺麗なもの”と認識し、そこから自分の美意識の土壌を肥やしていく。親がいけないと言うものは、世間や家庭内のルールに反しているかもしれないという事を学ぶ。それをする事で他人に迷惑が掛かったり、自分の良識を損なうかもしれないという事を少しずつ理解していくのである。


大人自身がそれらの事を教わる事なく、理解する事なく育ったら、子供に示してあげるものを持ち得ない。

大人が知っている事、大人が理解している事、大人が考えている事、大人が行動で示す事から子供達は直接学んでいく。就学前は、親がその役目を絶対的に担っている。

大人達が示すものを持ち合わせていなかったら、子供達に伝えるものは、当然ないに等しい。


世の中に混沌と在るありとあらゆる事象に確たる存在があって、意味があって、名前がある事。それらを知覚化して認知する事。それを子供達に教え、”感じる能力”として与えるのは、周りの大人の仕事に他ならない。

”能力として与える”と書いたが、私は、普段人びとがそういう事を”能力”と感じてさえいない事をよく知っている。そして、もの事の認知能力は、かなり個人差があるのである。


簡単な例を挙げると、こんな感じだ。

友人宅に人が 10 人集まったとして、後で振り返った時に各自が覚えている事はてんでバラバラだったりする。「とても趣味のいいインテリアだった」、「出された紅茶の香りが良かった」、「観葉植物の元気がなかった」、「玄関に蜘蛛の巣が張っていた」、「XXさんの笑い方が気に障った」、「壁の絵画の額縁が安っぽかった」、「新しいTVが大きくて羨ましい」、「XXさんの付けているネックレスがオシャレだった」、「XXさんの温泉旅行の話は自慢げで嫌だった」、「素敵な時間を過ごせて良かった、今度はうちにも来て貰おう」などなどといった具合で、覚えている事も感じた事も十人十色。

10 人が同じ空間にいて、全く別々の体験をしているものである。それは、各自のものの見方、興味、知識、体験、感覚、価値観などに大きく作用されているから当然だ。

自分の興味のある事に注意を向け、自分の価値判断基準に照らし合わせて体験したものに意味付けして、頭の引き出しに入れる。


認知能力の核になる部分は、まだ右脳が活発な幼少期に潜在意識に詰め込まれた情報によるところが大きい。そういうものが性格や性向、習性の土台となっている事が殆どだ。

「愛している」と言われて育ったら、自分の中に輝く親の愛情を疑う事なく、愛情深い大人になっていく傾向が強くなる。「君ならできる、信じている」と言われたら、自分を信じる事を覚える。「馬鹿だ、能無しだ」と言われたら、自分の可能性を信じる事ができなくなり、自分への自信や安心感や愛情を感じる事は難しくなるだろう。

親が肯定的なら子供も肯定的だし、親が不定不満ばかり言って否定的だったら、子供もそうなっていく。

子供は、大人に言われた通りになると言っても過言ではない。そして、大人の真似をして育っていく。



さて、ここで、この展覧会場で毎日を過ごす私の事に話を戻そう。


私には、大きなミッションがある。私は、それをかなり真剣に考えて、取り組んでいる。

それは、観光客相手に、折り紙ワークショップを行う事である。


バタバタと野放しの猿の様な子供達や、人生を諦めた中年の様にのっしのっしと足を引き摺って親の後に続く子供達や、親に全く注意を払って貰えない様な子供達が、この展示室でパッと目を見開くコーナーを設けてある。私の座っているテーブルの片隅に、常時 7 - 8 個の折り紙オブジェを置いてあるのである。

タダという訳にはいかないので、 1人につき 20クローネ(約200円)で、好きなだけしていい事にしている。


老若男女の折り紙好きや興味を持ってくれる人びと、親が見付けて子供にさせるケースは勿論の事であるが、上記の様な子供達も、カラフルでかっこいい折り紙を見ると、寄って来てくれる。

そういう子供達が、物欲しそうにじーっと眺めていて、親に「やらせて」と言えない心境を慮って、かわいそうに思う。親が無視して行ってしまったり、「20 クローネ!何でもお金をとるんだな」と放ったり、「急いで、アイスを買いに行こう!」と子供の注意を削いだりする。

その20クローネ、その5分で、もしかしたら子供の人生すら変わるかもしれないのだが。


私のミッション。そう、私は、そういう子供達を率先して折り紙ワークショップに招いている。

親に「 5 分、時間をいただける? お金はいりませんから」と伝え、サンプルの中からやってみたい物と折り紙を選ばせ、1 つ 1 つの折り目を一緒に付けながら教える。子供達は私が折る見本に従って、同じ様にしようと集中力を発揮し始める。そうしていると、親がやって来て後ろから覗き込み、「ワオ」と写真を撮り始める。

きっちりと折り目が付けられない子供の指先に横から口や手を出してくる親もとても多い。そういう時は、「大丈夫、この子は 1 人でできるから、自分でやらせてあげて」と、親に”手出し無用”を言い渡し、「上手にできているわよ」、「その調子」と褒めて自力で完成させる。子供は、”水を得た魚”に変身していく。

一生懸命折ったものが完成した時の子供の表情、瞳の輝きを確認するのが、私の無上の喜びとなる。


子供達は、ほんの些細な事であっても、自分の興味を抱く事に対して親に注意を払って貰えず、試させて貰えず、何かをやり遂げてみた経験も持たせて貰えず、何かをしたところで親の過干渉の迷惑を被ってきたところ、このボリホルム城で私に出会うのである。


私は、興味を持った事をやってもいいんだよ、もの作りは楽しいんだよ、やればできるんだよ、大丈夫だよ、というメッセージを精一杯込めて、子供達に小さな達成感、満足感を味わって貰おうと、ここに通い詰めているのである。

親が与えられないならば、他の大人が与えればいい。折り紙だったら、私が与えてあげられる。

子供にとってはこんな何でもない様な事でも、長い人生の中で、とても重要なインパクトになる事だってあると信じている。



子供は生まれながらにして好奇心旺盛だ。

大人が自由に歩き回っているのを見て、自分も早く立って、歩きたいと感じる。大人が話す言葉を聞いて、言葉を習得していく。何でもかんでも歳上のしている事を見て真似したい。あれもしたい、これもしたい。そして、失敗も恐れない。

そんな生まれながらにして子供が持っている好奇の心、冒険心、体験欲、知識欲を、無限の可能性を、大人がいとも簡単に奪ってしまう。子供に対する過小評価。親の無知、親の無関心、親の面倒臭い気持ち、親の身勝手、親の理解不足。親の能力不足。

子供がほんの小さなうちは、そんな大した労力も要らない事ばかりなのに。


私が声を大にして言いたい事・・・。

それは、あなたが親であるかないかは別として、次世代に対する大きな責任を持つ立場にある自分を理解して、どうかあなたの周りにいる子供達に、肯定的で素敵な世界を示してあげて欲しいという事。あなたの世界との関わり方を見詰め直し、子供にあなたの素敵な姿を見せてあげて欲しいという事。子供達は、何の判断もできないまま、まずは大人の真似をして自己を形成し始めるという事を、今一度思い出して欲しいという事。あなたが、子供に真似されて嬉しい自分でいる事。真似された自分の姿を子供の中に確認して、誇れる事。



小さな自信を手に入れた子供達は、自力で完成させた大切な宝物を大事そうに抱え、バタバタでものっしのっしでもなく、「良かったね〜!」「すごいね〜!」と感嘆する親を従えて、嬉々とした表情を満面に浮かべてこの展示室を出て行くのである。


そんな姿を、私は笑顔で見送る。さあ、がんばって! そして、楽しんで! と、彼らの背中に向かって私は心の中で囁く。

この世界は、たくさんのワンダーで満ちているからね。そのワンダーは、あなたの人生をワンダフルに彩ってくれるからね。

道端に咲いている花に、意識を向けてごらん。そしたら、その花があなたに語り掛けてくるよ。あなたが欲したら、その花に関連した素晴らしい情報をあなたが求めるレベルに掘り下げて、どれだけでも知る事ができる。

このお城に目を向けてごらん。そうしたら、この建物の背景、壮大な歴史、偉大な建築技術、壁や石垣に使われている石の中に閉じ込めらた三葉虫やオルソセラス、アンモナイト(スウェーデン語を訳すと”オルトセラタイト”)の化石が物語る太古の世界に至るまで、あなたが欲する知識を手にする事ができる。

あなたの理解、知識が深まれば深まるほど、この世界は無限の美と喜びをあなたに与えてくれるよ!

そして、あなたはこの世界を闊歩しながら味わい尽くせる能力を手にするよ!



人生を楽しむきっかけ、自分を愛するきっかけは、混沌とした日常生活の何でもない様な意外なところに散在している。その種は、どこかに秘められている訳でも、潜んでいる訳でもない。等しく誰にでも届くところに在る。

でも、それが見えるかどうか、感じられるかどうかは、やっぱりその人次第なのだ。

周りの大人の真似をしながら、少しずつ、そして確実に世界のワンダーを自分の人生の彩に取り込んでいきながら培い磨いた感性や、自分と世界との関わり方次第なのだ。


2018 年 7 月 16 日。よし、私は今日も 、1 日、私の蒔ける種を蒔く。

Potential Development < 潜在的開発 >、23 x 23 x 10 cm, 2014



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