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スフィンクスの贈り物。

更新日:2018年8月22日


見えない繋がり、確かな繋がり。



2004 年の夏、カプリ島で不思議な事があった。

急にその事を思い出してしまった。


自作ジュエリーの第 1 号となったスフィンクスの指輪を久し振りに指に嵌めてみたのだ。その指輪を撫でていると、”あの時”の光景が鮮明に蘇ったからである。



初めてイタリアのカプリ島を訪れたのは、2003 年の夏だった。

スウェーデン人アーティストである主人のハンスが、アクセル・ムンテ財団から彼の創作活動に対する助成を受けたのがきっかけである。

助成対象者は、”アクセル・ムンテの夢の館”と形容される、美しいヴィラ・サン・ミケレ (Villa San Michele) に数週間の滞在を許可される。ムンテの遺言に従って、このヴィラはアクセル・ムンテ財団によって所有・管理され、スウェーデンの文化人など活動支援の為に、その居住空間を提供しているのである。



カプリ島はイタリア南部のティレニア海に位置していて、ソレントやナポリ (ナポリ湾の 30km 北) からの船で渡る。古代ギリシャ時代から避暑地として愛され、現代でも世界中の人々を魅了し続ける風光明媚の観光名所である。

カプリ島は”甘美な快楽の地”と謳われ、ティベリウス帝も西暦 26 年から移住しローマ統治を行っていたほど、歴代のローマ皇帝達を魅了してきた。


医師であり、文筆家でもあったスウェーデン人のアクセル・ムンテ ( Axel Munthe / 1857~1949 年 )は1885年にカプリ島のアナカプリにヴィラ (別荘) を建立した。ムンテはヴィラの名前の由来になっているサン・ミケレ(聖ミケレ / San Michele)を祀っていた礼拝堂の廃墟をその場所に選んだ。ヴィラは現在博物館となっていて、ムンテが世界各地で収集した約1200 点に及ぶ考古学的な遺物などが展示されている。


ムンテはこのヴィラの事を、こう形容した。

<私の住む家は、古代ギリシアの神殿のように、太陽にも、風にも、潮騒にも開かれて、どこにも陽射しと光・光・光が、燦燦と満ち溢れているのだ。>

当時のヴィクトリア・スウェーデン女王もムンテとの親交が深く、このヴィラ・サン・ミケレを訪れている。彼女がこのヴィラ・サン・ミケレの思い出をどれだけ大切に思っていたかは、女王が彼女自身の為にスウェーデンのエーランド島に建てた、ソーリーデン (Solliden) と呼ばれる夏の為の宮殿が、ヴィラ・サン・ミケレを彷彿とさせるイタリア・ヴィラ風な事でも明らかである。


標高約 300m のヴィラ・サン・ミケレからの眺めは、息を呑む様な美しさだ。ウルトラマリンブルーのティレニア海の向こうに、本土、更にヴェスヴィオ火山も見渡せる。海上を行き交う船が描く幾つもの白い筋が紺碧の水面によく映える。

手入れの行き届いた庭園に光が満ち溢れ、弧を描く様に設置された藤棚の下を通って、その先にあるチャペルに行くと、チャペルのテラスの奥に、まるで地中海を見下ろすかの様に、その昔海底から引き上げられた赤大理石のスフィンクスが鎮座している。

スフィンクスはヴィラに運ばれる途中に地面に落下し、前足が欠如しているのだと教えて貰った。


このスフィンクスの躰を撫でながら願い事を心の中で唱えると、その願いが叶えられるという言い伝えがあると聞き、私は毎日の様にこのスフィンクスに会いに出掛けた。ヴィラ滞在者は、いつでも自由に館内の散策を許可されていたからだ。


私とハンスは 2003 年に 3 週間、この観光名所でもある美しいヴィラで過ごした。主人は、何点かの作品を現地で制作した。

この年は、炎天下の中、どこへ行くのも島中を主人と 2 人で歩き回った。マリナ・ピッコロ、ウンベルトI世広場、ソラーロ山・・・。

島中の店やレストランの閉まるシエスタの時間帯はヴィラで涼み、私は連日の様に 1 人で青空マーケットなどに出掛けて食材を求めた。地元の人達と毎日顔を合わせる中で、挨拶を交わし、幾つかのイタリア語を覚えたりもした。有名な青の洞窟も、私達は観光客を乗せた舟が営業を終える 4:30 pm の後、他の人達に混じって泳いで入り、その神秘的な碧い水と光の世界を堪能した。

カプリを拠点に、ローマやポンペイの遺跡にも足を伸ばした。


その夏、当時の館長であったコチーノ氏と親交を深めた私は、ヴィラの土産物のアイディアを求められ、有名なスフィンクスに因んだアクセサリーはどうかと提案した。指輪だと、毎日自分の指に座ったスフィンクスを撫でられるので、素敵な思い出の品になるに違いないと思ったからだ。


ーーー

翌年 2004 年は、私の用意した銀製の指輪のプロトタイプなどを元にアクセサリーのアイディアについて話し合う為に、再び2週間ヴィラ・サン・ミケレに招待された。

結局、イタリアでのジュエリー販売に関する規定が厳しい事と、コチーノ氏が新任の館長と入れ替わる時期とも重なり、残念ながらこの指輪のアイディアはその後流れてしまったが、この事が、私が実質的にジュエリー作りを始めるきっかけとなり、この自分でワックスを削って形成した銀のスフィンクスの指輪も、個人のコレクションに加える事になった。


この年は、私は妊娠 2 - 3 ヶ月目だった。その為、前年ほどには活動的に過ごせなかったが、しかし、忘れられない出来事が起こった。

それは、ヴィラ・サン・ミケレでの滞在期間もあと数日で終わりという日の事だった。



博物館として一般公開されているヴィラと庭園にいつも私達が寄るのは開館時間もだいぶ過ぎての事で、大勢の観光客を避けて写真を撮るのは常に困難だった為、その日は開館直後の午前 8 時にヴィラ入りする事にした。そんな早い時間に行ったのは初めての事だった。


私と主人は、真っ先に庭園の奥にあるチャペルに足を運んだ。写真を撮りながら、この時もしっかりとスフィンクスの冷たく艶やかな赤い躰を撫でながら、「私達のこれからの家族生活が平和である様に、これから生まれてくる子供の人生が豊かで幸福である様に」と願った。


そうして静かな朝を過ごしていると、藤棚の方からチャペルに向かって、人の話し声が近付いてきた。「あらら・・・、残念」。

隣で主人が耳をそば立てた。

イタリア訛りのスウェーデン語が聞こえてきた。十数人のスウェーデン人観光客を引き連れたイタリア人ガイドが、チャペルについて話している。


普段なら興味を示さない筈の主人が、ガイドの話を聴く為にわざわざチャペルから出て行って、藤棚の方に降りる数段の階段の上に立った。何だか上から観光客達を見下ろす様で、偉そうな格好になってしまった。


階段の下から、明らかにチャペルではなく、主人の方をじーっと見上げている初老の紳士の視線に氣付くには、それほどの時間を要さなかった。

私の胸が高鳴った。「なぜ?」という声が脳裏を過ぎった。

主人の顔を覗くと、彼もその初老の男性を凝視している。

その瞬間、私は全てを悟ってしまった!「ああっ!」と思わず声が吐いて出た。

いつだかに、主人に見せて貰った事のある、昔の写真の中の若かりし頃の”その人”と顔が重なった。


主人が階段を駆け下りて、その男性に歩み寄り、そして 2 人は大きな抱擁を交わした。

「おお、久し振り!」と、何度も抱き合っていた。

私とその人の奥さまは、「素晴らしいわね、こんな事もあるのね!?」と互いに顔を見合わせていた。信じられない!



ーーー

私の主人のハンスの生い立ちは、家族の絆が極めて希薄で、私とは正反対とも言える。


彼は 10 人の兄と姉の末に 11 人目の子供として生まれた母親の元で育った。母親が 7 歳の時、彼女の母親(主人の祖母にあたる人)が亡くなった。既に高齢の父親(主人の祖父)は船乗りで殆ど家には不在だった様だ。その権威的な父親も、父親らしい包容力や優しさを子供達に見せる事なく、程なくして亡くなっている。主人の母親は数歳しか歳の離れていない姉達に育てられたも同然だった。彼女の思い出は、「自分はいつも馬鹿にされ、不当な扱いを受けて育った」というものだ。

主人の母親は19 歳の時に自由を追って家を出て、遠く離れた街に移り、仕事を求めた。

その街で彼女は妊娠し、私の主人を出産した。けれども、彼女には子供を養育していける力がなく、主人は 5 歳になる迄は、叔父の家でその息子として育てられた。

5 歳迄の主人は、田舎の農家で、3 人の兄姉と賑やかにのびのびと育てて貰った様だ。

時どき自分の顔を見に来る実の母親を、知り合いのおばさんだとずっと思っていたのだそう。


主人が 5 歳の時、そのおばさんが急に自分だけを家族から引き離してどこか遠い大きな街に連れて行った。そして、そのおばさんをママ、そのおばさんと一緒にいる男性をパパと呼ぶように言われた。その頃になると、ようやく母親は我が子を養っていく為の生活の基盤を調える事ができ、息子と一緒に生活する余裕ができたのだった。

しかし、まだ幼い主人にとっては、それは困惑に満ちた生活の始まりだった。

子育てをした事がない為に理解力のない大人達との退屈で芝居掛かった都会での同居を余儀なくされ、それ以降、彼は両親の都合に振り回される生活に心の中で反抗しながら育った。


主人の両親が離婚したのは、彼が 11 歳の時。

父親は、そう遠く離れていない隣街に新しい家庭を築いた。母親はその後、新しい男性と知り合い、彼と結婚。義父の連れ子である義妹ができた。


主人は 17 歳の時に家を出てアパートに移り住み、その後は地元のアートスクール、ロンドンのアートスクール、更に世界をヒッチハイクで回ったり、ニューヨークに居住地を移したりと、自分の世界を創り上げるのに忙しく、精神的な絆の希薄な家族を殆ど顧みないで生きていた。

彼には 25 歳の時に当時のガールフレンドとの間にできた息子がいた。息子をガールフレンドの元、スウェーデンに残して、彼はニューヨークでアーティストとしての新しい生活に埋没しながら、夏は息子を預かって、ニューヨークやスウェーデンで過ごしていた。


息子が 12 歳の夏、突然懇願された。「おじいさんに会わせて」と。

主人はその時、37 歳になっていた。26 年間も、自分の父親とは音信不通にしていた。

母親に所在地を聞き出し、主人は息子と共に 26 年振りに父親の元を訪ねた。


連絡も入れずにそのまま教えられた家に行って、呼び鈴を押した。

歳をとった父親がその家の中から出て来た。

そして、すかさず言われた。「何をしに来たんだ? 母親に聞いていないのか? 私は君の本当の父親ではないんだよ!」


その後から、今現在に至る迄ずっとずっと続いている彼の母親との芝居の様な軽薄で不安定な関係、確執の事については、ここでは言及を控えよう。(主人は未だに自分の本当の父親が誰なのか知らない。彼の母親は頑なに秘密を守り続けている。親子間に信頼関係が成立しない理由を理解できないのは、当の母親だけである。)

とにかく、主人が 5 歳から 11 歳迄の 6 年間を父親として一緒に過ごしたその人物との再会は、実にその 26 年後に、驚愕と失意の中で瞬く間に終えた。



それから 更に13 年が経ったその日、まさかイタリアのカプリの地、それもヴィラ・サン・ミケレのチャペルのスフィンクスの側で、この 2 人がばったりと出喰わすとは、誰も想像だにできない事だった。

天の計らい、宇宙の采配を感じずに、何を感じるべきなのか。


私達は、2週間のヴィラ・サン・ミケレの滞在期間中、午前 8 時にその場所にいる事は、後にも先にもなかった。

元義父夫妻にしてみても、退職後に長年夢見ていたイタリア旅行を、前年に 1 度断念して、その夏は、「やはりどうしても」と、スウェーデンからのツアーにギリギリで申し込む形で実現させていた。イタリア各地を北部から巡る 2 週間の旅程で、カプリ島にはその日ナポリから早朝に到着したところだった。バスで一気にアナカプリ迄登り、真っ先に開館と同時のヴィラ・サン・ミケレ見物から 1 日を始めたところだったのだ。カプリにはその日だけ滞在して、翌日からは更に南に向けてバスが出る。しかも、不思議な事に、彼らがその日滞在するホテルは、ヴィラから最も近くにあるホテルだった!


双方のタイミングが少しでも違っていたら、全く実現不可能な再会だったのだ。

例えお互いに話し合って計画したとしても、これほどぴったりのタイミングで落ち合うのは難しい。


その夜は、 ヴィラ・サン・ミケレの私達の居室に招き、手料理で饗した。地元のテーブルワインを傾けながら、尽きる事のない話を夜中迄ずっと楽しんだ。

彼らはハンスの出身地の地元の新聞を購読しているので、時どき新聞に登場する主人の活躍を、何十年もの間、見知してきたとの事だった。



その翌年は、誕生したまだ赤ん坊の娘を連れて、彼らの家を訪れた。その時は、主人も心の整理が少し進んで、小さい頃の思い出や疑問などを正直に口にし、元義父も真摯に色々と語っていた。


その人が主人の父親でなくなった日から、40 年も経って、初めて 2 人は心を通わせる事ができたのだった。その人は 3 年前にこの世を去ったけれども、その心は 2004 年のその日以来、とても軽くなっていたと聞いている。それは主人や、私にとっても同様だ。


主人は何も知らないで 5 歳の時から、その人の息子として、その人の姓を名乗って生きてきた。何の疑問も持たないで。

そして、ある日、その姓名が自分には”全く無関係”である事を知った。(母親は既に次の結婚相手の姓名を名乗っていた。)

しかし、便宜上、その人の名前を名乗り続けた。まるでペン・ネームの様に。名前に愛着を持てず、疑問を抱きながら・・・。

そして、私はといえば、その彼の姓名を一緒に名乗る事に決めた。

主人の 1 番身近なところで生きる家族として。



ヴィラ・サン・ミケレに鎮座して、どこか遠く空の彼方を見据える赤大理石の優美なスフィンクスの躰を毎日撫でながら、何度も何度も繰り返した私の願いは、スフィンクスによって叶えられたと私は信じて疑わない。

「私達のこれからの家族生活が平和である様に、これから生まれてくる子供の人生が豊かで幸福である様に」・・・。



主人の人生に、たくさんの雨が降った。

私の人生にも、たくさんの雨が降った。

私達が出会った後も、ずっと雨が降り続けた。窒息しそうなぐらい、溺れそうなぐらい、雨の中でもがき続けた。

でも、こんな風に、宇宙は時どき ”地が固まる” 素敵な瞬間を所どころに用意してくれている。


ーーー

アクセル・ムンテは、<死は孤独であるかもしれない。 しかし、生きているほど孤独である筈がない>、と言った。

でも、あるいは・・・、と思う。

孤独とは、そう感じてそういう言葉を与えない限りは定義できないものだ。人がその状況を ”孤独” と名付けない限りは成立しない。


何はともあれ、宇宙には本当の”孤独”というものは存在しないに違いない。目には見えない何かで、人と人はしっかりと繋がっている。そして、私たちが欲すれば、求めれば、その繋がりを目に見える形でしっかりと確かめる事もできるのだ。


主人の不安定な家族の土台を、ほんの少しであっても幾分か固める事に繋がった ”その人” との再会は、カプリ島のヴィラ・サン・ミケレから大空を見据える赤いスフィンクスが仕組んでくれたものだと私は信じている。

時間や場所を超越した人と人との繋がりに氣付かせてくれる為に。宇宙の愛を示す為に。



赤いスフィンクスの艶やかな躰の曲線を、今でも掌に感じる事ができる。

その躰の向こうに広がっていたひたすらに碧い碧い空と海の広がりと共に。


そして、私の指に嵌められた銀色のスフィンクスの指輪を撫でると、あの時の光景が鮮明に蘇る。

私の心は、温かなティレニア海の碧いエネルギーで満たされ、鼓動が高鳴る。

愛と感謝で胸が一杯になる。



 

写真 1 )イタリア、カプリ島、マリナ・グランデ。(2003-7)

写真 2 )アナカプリにあるヴィラ・サン・ミケレのチャペルにあるスフィンクス。(2004-7)

写真 3 )カプリ島、ソラーロ山からの眺望。 (2003-7)

写真 4 )主人と元義父。(2004-7)

写真 5 )指輪 <Sphinx in Capri>, TIFstudio、銀。(2003作)

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