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バッティル・ヴァリーンという生き方

更新日:2020年3月12日


TOKIKO インタビュー 4

Extraordinary Ordinary People / 人並み外れた身近な人々


 


私がスウェーデンに行き始めた 1997 年に、バッティル・ヴァリーンのスタジオを訪れた時、彼はまだ 60 歳だった。

氣が付けば、あれからもう 20 年。しかし、 80 歳になった今でも、バッティルはあの頃と変わらず、現在でも多忙を極めている。精力的に制作の日々を送り続けている。


私は 20 代の頃、ガラスを吹いて彫刻作品を作っていた。ガラスの特質を生かした幻想的な彼の作風に、私はあの頃から憧憬し続けてきた。私のスウェーデン人の主人であるハンス・フルーデも作品の素材としてガラスを彼のアートに用いていて、バッティルとは主に、ガラスの展覧会などで顔を合わせる機会が幾度もあった。何度も会ってきたのに、ゆっくりと膝を合わせて話をする機会が今迄なかった。



バッティル・ヴァリーン(Bertil Vallien)は 1938 年 1 月 17 日、スウェーデン、ストックホルム市郊外、ソーレンチューナ (Sollentuna) 生まれ。スウェーデンを代表する、世界有数のガラス作家であり、コスタボダ社 (Kosta Boda) のデザイナー。サンド・キャスティングによる力強い鋳造ガラス(キャスト・ガラス)の作品は人々を魅了し続けている。世界中で展覧会を開き、数々の受賞歴及び、美術館のコレクションも多い。妻は同コスタボダ社のデザイナーであるウルリカ・ヒードマン・ヴァリーン(Ulrika Hydman-Vallien / 今年 2018 年 3 月 21 日に逝去) 。



2018 年 8 月19 日にオープンする、故ウルリカの追悼展が翌日と迫った準備期間中の多忙さの最中、バッティルはその展覧会場である、スウェーデンのエーランド島にある VIDA Museum で、快くインタビューに応じてくれた。(VIDA Museum の現オーナーは、バッティルの長男、ハンプス・ヴァリーンである。)



【まず始めに、奥さま、ウルリカのお悔やみを申し上げます。】


ありがとう。本当に多大な損失だった。


【 3 月に(逝去)の知らせを聞いた時、余りにも突然だったので、とてもショックでした。】


本当に突然だった。何の警告もなかった。

その時、彼女は私の目の前に、ちょうどあなたみたいに立っていて、そして、あっけなく死んでしまった。心臓発作だった。とてつもなく大きい発作でね・・・。彼女は一瞬にして死んでしまったんだ(うっすらと涙)。

一言もなく、目配せもなくね。とても酷かった。彼女はその場に崩れ落ちた。私は慌てて彼女を抱きかかえたんだ。


【そうでしたか。それはお辛い事でしたね。しかし、少なくとも、あなたがご自宅にいて、彼女は幸せでしたね。】


ありがとう。本当だね。今迄、自分のショックと悲しみに打ちひしがれて、”彼女が幸せだった”なんて、そういう見方ができなかった。


【死は、残された方には悲しむべき事ですが、誰にでも平等に起こる体験ですからね。そういう意味で、普段と変わらない日常風景の中で、あなたの腕の中で奥さまがその最後を迎えられて、少し羨ましいです。不謹慎ですみません。】


いや、考えてみたら、本当にそうだよ。ありがとう。


【私のインタビュー・シリーズは、" Extraordinary Ordinary People " と題しているのですが、私のヒプノセラピストとしての仕事を通してだんだんと氣付いてきた事は、どんな辛い経験があったとしても、その出来事に意味や名前を与えるのは、確固たる自由意志によってその本人だけがなし得る事だという事なんです。ところが大抵の人は、出来事を悲観的に捉えて無意識に必要以上に問題を作り出し、そこに嵌ったまま頭を抱える選択肢を選びたがります。しかし同時に、ある人は、大変な出来事にさえも肯定的な意味を見出して、前向きに生きる選択をする事もできます。一般的に "extradordinary" だと言われる様な方々は、その辺の、自分自身や出来事との関わり方が肯定的で上手だと思う事が多々あります。このインタビュー・シリーズで、私は個人的に、そういう点に最も興味があるのですが・・・】


あなたは私とのインタビューで、ウルリカの死の事について聞きたいのかな? それとも?


【いいえ。たまたま今は、あなたにとってちょうど試練とも言える様な時期ではありますが、私が知りたいのは、バッティル・ヴァリーンという 1 人の人間についてです。おそらく、あなたはガラス界に於いては、北欧で最も有名なガラス作家であり、デザイナーです。そのあなたが、これ迄、どの様に自分の人生と向き合ってきたかに興味があります。】


なるほど、面白そうだね。


【あなたは、ご自分の言葉で自分の人生を語る時、どの様にそれを説明するのでしょうか?】


うーん、そうだね。

私は、大家族の中で生まれ育った。7 人兄弟姉妹だった。私は次男なんだ。私が育った家は、とても宗教熱心だった

私の父は、彼の本職の他にもキリスト教会の祭司をしていた。彼は彼自身の集会と信徒を従えていた。彼はとても原理主義的で、狂信的とも言えるほどの宗教家だった。父を受け入れるのは、私にとってはとても難しい事だった(うっすらと涙)。


【そうだったのですね。】


私は日曜学校に無理やり通わされていた(苦笑)。その教会の楽団で、私はトランペットを吹いていた。子供時代は、本当に何でも無理やりにやらされていたんだ。色々な事に多くの制限が掛かっていた。全ての楽しみを禁止されていたんだ。多くの規律にがんじがらめだった

父は、とてもいい人ではあったんだ。とてもいい人間だった。優しかった。しかし彼はとても囚われていた。たった 1 つ、父が人生で重きを置いている事、私に期待している事と言ったら、”良いクリスチャンでいる事” だった


【それで、あなたも ”良いクリスチャンでいる事” を目指したのでしょうか?】


いや、私は家を逃げ出す事に決めたんだ。15 歳だった。家を出て、自分の場所を見付けて住む事にした。ファーマーの友人がいて、彼らの土地に、母屋とは別にとても小さい家があったので、そこに住まわせて貰った。


【”家を逃げ出す”とおっしゃったけれど、家出だったのですか? それとも、家族には伝えて出て行ったのですか?】


勿論。

私と家族との関係は、”愛と憎しみ” の関係にあった。彼らは私を愛していたし、私も彼らを愛していたけれど、私はどうしても我慢ができなかったんだ(笑)。


【15 歳でその決断をしなければならなかったという事が、どれだけあなたが切羽詰まっていたかを説明していますね。】


大変だった。本当に大変だった。

私の家族の事を語る時、その環境は決してアカデミックではなかったと言わなければならない。中流というよりかは、労働者階級の家庭だった。

私自身は、学校での成績はまあ良かった。自分の将来を考える時、結構色々な職業を考慮に入れる事ができた。パイロットに憧れた時もあるし、面白おかしく祭司も悪くないと思ったりもした(苦笑)。そして、自分独自の信仰を説教してやろうと(笑)。


【面白そうですね。】


ところで、私にはちょっとした芸当があったんだ。

誰でも皆、人には好かれたいだろう? 人なら誰しも、他人から好かれたいし、愛されたい。そうだろう?

私はドローイング(描写)が得意だったんだ。馬を描く事に優れていた。それを、他人から注目を集める為に活用した。


【今現在に至っても、とても魅力的な馬の絵を描き続けていますね。】


そう。育った環境に馬は多かったし、馬を描く事で、クラスの女の子達にとてももてたんだ(笑)。それが、私の芸術的な才能を呼び起こすというか、自分を芸術の方向性へと導く説得力を持っていたというか・・・。最初は、本当にそんな単純な理由だったんだ。只、異性から好かれたい、同性からは羨望されたいという単純な動機なんだ(笑)。


【まあ、本当に(笑)!】


でも、私にとっては、人生でとても重要なポイントだったんだよ(笑)! 

17 歳の時、チャンスを掴む事にしたんだ。アート・スクールの夜間のクラスを受けに行った。そして 18 歳の時には、ストックホルムのコンストファック(Konstfack / 国立スウェーデン美術芸術大学)に入る事ができた。

それは、私にとって、本当にとてつもなく大きな転機となったんだ。

コンストファックでは、陶芸を選択した。そして、その事は私にとって大きな意味を持っていたんだ。なぜなら、たったの 8 人しか選ばれない狭き門で、その厳選された同輩達と競い合っていくにふさわしい才能を認められた事に他ならないからね。(スティグ・リンドベリ / Steg Lindberg に師事)

私は数年をコンストファックで過ごした。後で振り返ったら、その数年が、私の人生の中で最も充実していた日々だったと思う。とても熱心に励んだし、一瞬一瞬を楽しんでいた。

とは言っても、実はまだ人生の方向性を完全に決めた訳ではなかった。商業デザイナーになるか、アーティストになるのか。自分の才能を活かす為に、そのどちらも選択し得ず、初めから工芸デザインも学び、彫刻も学んだ。その両方を学んだ事で、私は、私が今ある様になった。


【あなたは若い頃から絵を描いてきましたが、家族から芸術的な影響を受けた事はあったのですか? それとも、あなたが一家の中での唯一の芸術家なのでしょうか?】


私が一家の中で唯一の、芸術を理解できる人間だよ。弟や妹の中には、歌や楽器が上手い者はいるけれど、平面や立体に関して優れている者は皆無だ。


【それは興味深いですね。話をコンストファックに戻しましょう。そこであなたは、平面で自分のアイディアやデザインを明確に起こし、立体物として実際に形にする技術を磨きました。】


そう。そして、私は同時に商業の側面も学んだ。アーティスティックな側面を損なわずに大量生産につなげるデザインを研究したりした。そして、それを今現在でも続けている(笑)。


【人生を通して応用し続けられる素晴らしい教育を受けたのですね。】


そうだね。

それからコンストファックを出て、更なる大きな人生の転機が訪れた。それは、アメリカに行ってみた事。2 年間をロサンゼルスで過ごしたのだけれど、その期間は本当に大きな意味を持っている。自分自身に対して更なる自信が持てる様になった。

当時、ロサンゼルスで私は小さな陶器の会社で働いていて、工場の重要な役割を担う事になった。私はまだ 21、22 歳と若く、床を掃き清めたり、釜に陶器を入れたり出したりする ”ハンディー・マン” として始めながら、デザインも手掛ける様になり、それは高評価を得たんだ。

その頃、私はニューヨーク(近代美術館)で開催された大きな規模のコンペティションに応募する事にしたんだ。そのコンペティションは、<ヤング・アメリカンズ>と名付けられていた。そして、一等賞を受賞してしまった(笑)!


【(笑)ある意味、平等ですね。】


そう。その出来事は、アメリカという国についてよく物語っていると思った。アメリカは、誰でも受け入れてくれる、とね。アメリカでの 2 年間は、とても有意義だった。


【でも、一等賞はずっとアメリカに滞在し続けるという選択肢は齎さなかったのですね。】


そうだね。なぜかというと、アメリカに行く前から、少しボダ社(Boda)で働き始めていたんだ。エリック・ヒョーグランド(Eric Höglund - 1932 - 1998)のアシスタントとして。そして、ボダ社の為に幾つかのデザインの仕事も既にしていた。会社は私にデザイナーとして戻って来る事を強く望んでいた。だから、「OK、試してみよう」と考えていた。25 歳の時だった。

でも、しばらくすると、私はオーフス (Åfors)の工場に行く様に言われた。その当時、オーフスは下火になっていて、私にとっては工場を再生させるという好機がとても気に入っていた。デザインの発案から何から何まで、オーフスの再興というアイディアが好きだった。


【責任感も強く持たれたのでしょうね。】


当然。私はその責任感を強く抱いていた。私は、6 ヶ月間を工場で過ごし、残りの半年は自分のスタジオで過ごす事を許されていた。そういう感じで 6 − 7 年を費やした。

そのうち、私は、もっと心が躍る様な面白い事をしたくなっていった。私にコントロールを与え、自由な自己表現を可能とする別の方法を模索し始めた。伝統的な技法 − つまり、吹きガラスでは物足りなくなってきていた。何かもっと別のものが必要になってきていた。

そこで、私はあらゆる素材を試験的に使って、作品の規模を大きくしたり、自分の手を直接加えて作品を仕上げるための方法を色々と模索した。そして、サンド・キャスティングという方法に行き着いた。

この方法だと、自分自身が制作のプロセスに於いて、完全にその一部になれるんだ。箱型に入れた砂が、言ってみたら絵画でいう紙の様な役割なんだ。砂でガラスを鋳造する為の原型となる型を作って、その中にディテールになるガラスのパーツを入れていく事によって、作品作りにかなりの自由が許される。

とにかく、半年はフルタイムで働いた。そして、私は自由を欲し、スペースを欲し、良いデザイナーでいる事で、その残りの半年の分を”支払った”。


【”支払った” とは、どういう意味ですか?】


自由に働く為の自由、色々な実験的な試みをする為の自由、それは、間違いを犯したり失敗をしたりという事も含めてなのだけれど、その自由を手に入れる為に、”会社が必要とする売れ行きの良いデザインを会社に提供する”、という形で手に入れたんだ。

最初の頃は、失敗ばかりを繰り返し、何が上手くいくのかを見付けていかねばならなかった。


【分厚く大きなキャスト・ガラスなので、アニーリング(ガラス冷却時の焼きなまし方)の温度曲線のプログラムなどを見付けたりするのは大変だったしょうね。】


そう。アニーリングはいつも問題だ。それに、キャスティングの時にどの様な砂を用いるのか、どの様に砂を混ぜ合わせるのか、どれぐらいの粘土と水分が必要なのか、何ができて、何ができないのか。


【その点を考慮すると、あなたに様々な実験期間と自由を与えたオーフスは、勇気があるとも言えますね。】


そうだね。でも、私がさっきも言った様に、私が自分で ”支払った” んだよ(笑)。

サンド・キャスティングという方法は、私の他の素材への必要性を除外してくれた。なぜなら、よりパーソナルな表現を可能にする機会を私に与えてくれたからね。より詳細に自分を自由に表現する為の。サンド・キャストに至るまで、色々な方法を模索したけれど、伝統的な吹きガラスの様な技法は、私にとってはとても制限されたものだったから。


【教会の様に?】


(笑)面白い見方だね。


【あなたは教会の事を話す時も、伝統的な狭窄な制限を嫌って独自の生き方を模索しました。ガラス界に置いても、やはり同じことを言っているので、あなたは型に嵌らない、自分らしさを活かす事のできる自分の方法を見出さねばなりませんでした。だから、その背景には、やはりあなたの育った環境が影響しているのかと思ってしまいます。それは、私の偏った見方なのでしょうか?】


うーん。(しばらく考えて)私の家族背景というのは、私に大きな劣等感を植え付けたと思うよ。本当にそう思っている。何の疑いもなくね。・・・というのも、私はいつも他人とは明らかに違っていたからね。他の仲間がする事のできる全ての活動から離れた所に私はいなければならなかった。日曜学校に通い、祈りを捧げねばならなかった。


【少なくとも、あなたはその生い立ちに何かの意味を見出したのでしょうか? それとも、只単に、抵抗しただけですか?】


抵抗より何より、私は怯えていたんだ。


【どういう意味でしょう?】


自分が ”良いキリスト教信者” でない事に怯え続けていた。私はその為に、常に罪悪感を感じ続けなければならなかった


【本当ですか? 何てお気の毒な! まるで迷える子羊ですね。】


(笑)いつも、いつも罪を背負っていた! 懺悔をすれば許されるカトリックとは違って、原理主義キリスト教では、そんな事はあり得ないんだ。

私は常づね否定し続けてきたけれど、私の背負った家族の背景は、自分の性格や性質を形成するのに大きな意味を持っている事を心の底で認めない訳にはいかないんだ

あなたは知っていると思うけれど、私は教会と一緒に仕事をする事も多い。


【そうですね。】


実は、後のちになってから、再び聖書を読んだりする事に興味を抱く様になった。特に旧約聖書を詳しく読み解く事にね。私は自分自身を抑圧してきた。自分自身の信仰を抑圧してきた。自分の信仰が何なのかは今でも定かではないけれど。自分が恐れさえ感じ続けていた自分の家族背景は、同時に自分の中に介在していて、灯火の様にそこにあるんだ。常に、常に、常に!


【それは意識的に感じているのですか?】


いや、もっと潜在的だと思う。潜在的に恐れを感じている。家族背景に対する潜在的な恐れの感情。それは、ずっと長い間、不安を生み出し続けていた。

でも、それは実は ”正反対” の事を意味したんだ。


【その恐れや不安を抱き続けた事によって、利得があったと?】


そう思っているよ。


【あなたの作品の中に、そういう要素が投影されていますか?】


そう思う。でも、実際には言葉では表現できない。

”flow (フロー / 流れ)”という言葉があるね。私は時どき、その ”フロー” の状態に入り込む事があるんだ。その状態というのは、マインドが 3 次元の肉体感覚を離れて、何か目に見えない大きな力に導かれている様な状態でね


【それを、覚醒した状態で感じるのですか?】


そう。いつもではないけれど、時どき。そして、私はこの状態を待ち侘びているんだ。それが訪れる瞬間を、いつも待ち侘びている。

そして、私にとっては音楽が、その ”フロー” を作り出すとても重要な要素なんだ。リズムは大切だ。


【その ”フロー” の状態にいる時、たくさんのインスピレーションを受けるのですか?】


そう。そして、その状態では、自分自身を最大限に信頼する事ができる。

他人に意見を求める必要もなく、自分で自分の答えを知っているという心地良い気分なんだ。音楽は、そういった何かを解放して、私に感性を与え、私に幸福感を齎す。または、悲哀を感じさせて涙を流させる


【私も、同じような理由で趣味でピアノを日常的に弾きます。情熱を感じたり、メランコリーを感じたりしたい時などに。とてもインスピレーショナルなので、私の人生に於いてはピアノが欠かせません。だから、おそらくあなたの言っている事はよく分かるつもりです。】


本当に? それは素晴らしい。


【あなたは、その他にも、何か目には見えない自分よりも大きなものと繋がる為に、他の方法を取ったりもするのですか?】


そうだね・・・。オーフスの工場には、私の大きなスタジオがある。私はとても素晴らしい仕事の環境、素晴らしいアシスタントに恵まれていて、とても幸運だ。

でも、それは同時に、私は常にそれらの人々に必要とされていて、彼らの生活が私に掛かっていて、大きな責任を意味している。

ところで、そのスタジオとは別に、私は自分の想像力を掻き立てる為のお氣に入りの場所があるんだ。それは、小さな納屋(アウト・ハウス)なんだ。サマー・ハウスの横に建っている。

それほど大きくないテーブルが 1 つ。トランジスト・ラジオが 1 つ。音楽を流す為のプレイヤーが 1 つ。紙と筆。そこに閉じ籠っていると、あの ”フロー” の感覚が現実的に体感できる。

ところが、この夏はダメなんだ・・・。今夏は余りにも暑過ぎた。私のエネルギー・レベルは極端に低かった。あなたはどうだった?


【暑くて喜んでいる人がたくさんいましたが、私も暑さは苦手で、呼吸が上手くできません。】


去年は素晴らしかった。その納屋で、実に多くの時間を過ごしたよ。たくさんのドローイングをした。



【いつ迄も精力的で素晴らしいですね。ところで、サンド・キャスティングの事をもう少し伺いたいのですが。あなたは作品のモチーフとして、”ボート” や ”人間の頭” を頻繁に用いますね。それらはとても魅力的で力強いものです。その背後には、どのような物語があるのでしょうか?】


ボートというのは、私にとっては、画家にとってのキャンバスそのものなんだ。多くの人が親しみを覚え易い。関係性を築き易い完璧な形状をしている。ボートは、人間が作り出し、利用した最初の移動の為の乗り物だ。長い形を作って、その両端を細めたら、殆どの人がその形を見て”ボート”だと言うだろう。形そのものが、人の目に正しく伝わり易い。

それから、無意識にその形状に意味付けをし易い。「浮かぶのか?」、「危険ではないのか?」、「誰の為のものなのか?」、「どこへ向かうのか?」、「ひょっとしたら別世界に向かっているのか?」、「どんな物語を乗せているのか?」など。

人の死後に ”あの世にいざなう為の乗り物” としても、ボートは色々な文化圏、例えばエジプトやスカンジナビアなどで用いられている。乗り物としてのボートに惹かれている訳ではないし、ヴァイキングの代名詞として氣に入っている訳でもない。私にとっては、”タイム。カプセル” という要素が強いし、”様々な時空を移動する地球の一部”という意味合いもある。

そして、ボートの中にあるものや命を守るものと言ったら、薄っぺらいボートの壁だけなんだ。それだけが自分を惨事から守り得る唯一の頼みなんだ。

だから、私がボートの中身の事に言及するならば、その情報は自ずと ”自由” なんだよ。なぜならば、ボートが世界であり、宇宙であるからなんだ? 意味は、分かって貰えるかな?


【はい。美しい表現ですね。】


ありがとう(笑)。

そして 1 人切りになりたい時、孤独を求めたい時、ボートは私にとって完璧な場所なんだ。


【あなたはその様にボートを日常の中で活用しているのですか?】


その通り。ちょうど昨日も自分の小さなボートを出して、海岸近くの小さな島まで行ったんだ。クッションを持って。アンカーを下ろして、ゴロッと船底に寝っ転がって、2 時間ばかり、只じいっと空を見上げて過ごした。水の音に耳を傾けて、たった 1 人で過ごしていると、まるで自分の ”再生” の様に感じる


【孤独というのは、あなたにとっては大事な事ですか?】


とても大事だね。


【孤独はあなたに何を齎してくれるのですか?】


平和。心の平穏と休息。私はそれをとても欲している

私はスモーランド地方に住んでいる。そこは池は湖があっても、大きな水面だけに取り囲まれる訳ではない。だから、スモーランドにいる時は、別の方法が必要なんだ。

実は、それは自転車を漕ぐ事なんだ。


【自転車ですか? どうりで若々しい筈ですね。】


私が瞑想をしたい様な時は、実はボートに乗ったり、自転車を漕いだりするのが最も適切なんだ(笑)。これは必須なんだ。スモーランド地方の湖は小さ過ぎて、水平線が見えない。自転車に跨っていると、少なくとも前方にまっすぐな一本道が伸びている。


【スモーランド地方の森林の中をまっすぐに伸びる道を進むのは、清々しいでしょうね。とこれで、あなたは大きな組織の一部として、大勢の人間と一緒に常に仕事をしていますね。あなたにとって、大きなグループの一部である事は、どの様な意味がありますか?】


とても重要だ。

例えば、私のドローイングは、とてもプライベートな事だ。

でも、ガラスとなると、技術的にとても難しい素材だ。私はこの小さなガラスの世界に限定すると、多分”スペシャリスト”なんだ。そして、ガラスを自由に使いこなせる強く逞しい才能のある人々へのアクセスが可能だ。(キャスト・ガラスのプロセスでは、ドロドロに溶けた重いガラスを持ち運んだりと、かなりの力仕事を強いられる。)そういった自分のプロフェッションを自覚した優秀な人々の集団を統率していく立場にいる事は、大変な特権だと自覚しているよ。私はその立場を楽しみ、愛している。

自分の作品作りを大勢の他人に委ねなければならないのは、ある意味で怠惰なのかもしれないけれど、私が求めている作品のイメージを形にするには、その大勢の人の助けが当然ながら不可欠だ。技術的な助け、労働力としての助け、頭脳面での助け、機械などの必要性などに於いて、単独ではできない複雑さを包括していると同時に、多大なプレッシャーを会社から常に受け続けている。

私は会社に雇われたデザイナーであり、その仕事は会社に利益を齎す事だからね(笑)。


【1980 年代に入って、実用的な素材として扱われていたガラスが脚光を浴び、アートの為の素材としてそのピークを迎えました。1990 年になって次第に下降線を辿り、現在に至っては、西洋では少しガラス界の勢いが低迷しています。あなたは ”ガラス・アート・ムーブメント” なども含めてガラス界の浮き沈みを第一線で常に見届けてきましたが、様々な変化についてあなたの立場から何か言及したい事はありますか?】


(しばらく考えて)ガラスというのは、とても魅惑的な素材だ。ガラスを人々に好いて貰うのは簡単だ。ガラスを用いて人々を感心させるのは容易い。透明なクリスタルガラスほど魅力的なものはないだろう。

私はアーティストとして、ガラスのその性質を長い間拒んできた。勿論、時どき意識的にその美しい性質を用いもするけれど。

でも、ガラス・コミュニティーの事を考えると、ガラス界の人々は自分達の周りに壁を作ってちょっとした王国を築いた。

そして、スウェーデン、アメリカ、日本など、世界中の国々の間でコミュニケーションをし始めた。それは大きな国際的なムーブメントに発展していった。そのムーブメントは、アートやアート界を考慮しない閉ざされたものだった。それで十分だったからだ。

例えば、ダンテ・マリオニ (Dante Marioni / アメリカの吹きガラス作家) が、15 世紀のベネチアン・ワイングラスを完璧に再現できる。「ワオ! なんて素晴らしいんだ!」と感嘆してしまう様な素晴らしい技術だ。でも、考えてみたら、そんな秀悦な才能の持ち主さえも含めて、ガラス界に生きる人間は皆、大なり小なりの劣等感に苛まれていると思うよ。皆、アート界に認められたい。でもアート界の人間は、ガラスはアートではない、工芸品だという。誰 1 人として成功した試しがないんだ(笑)。


【ガラスという素材ゆえに、アート界から認められないというのは、ガラス・アーティストにとっては切っても切り離せないジレンマですよね。】


「さあ、一緒にガラス界で楽しもう」、「さあ、素敵なワイングラスを作ろう」、「さあ、綺麗な装飾的ガラス・オブジェを作ろう」とコミュニティー意識を持って、お互いに技術や作品を褒め称え合ったりする。そして、世界中にそういったガラス作品を手に入れたい収蔵家がいる。それで、十分いいんだ。始めからガラス界はとても小さく囲まれた特殊な世界なんだ。

その世界で、ほんのごくわずかなガラス作家だけが、アート界で通用しようと心掛け、その能力を有していると思う


【あなたはご自分を、その 1 人だと思いますか?】


時どきは?(笑)時どき。

でも、私はガラス界に捕まっている。囚われている。そして、その事を容認している。私はなかなかいい人生を送ってこれたし、好きな事を続けてこられた。

ところで、今、ストックホルムでしている私の展覧会は見た?


【すみません。この夏はまだ全然ストックホルムに行っていません。】


大丈夫。その展覧会で、私は ”黒ガラス” の作品を展示している。その幾つかは、”アート” と呼んでも差し支えないものだと自分では思っている。

アート界に於いて、私はその自分の作品を、まるで ”娼婦” の様に感じているんだ。そして、”幸せな娼婦” だと。


【どういう意味でしょう? 確かにあなたのガラス作品はとても美しく、魅力的で、繊細ですが・・・。ガラス作品でありながらアート界に受け入れられる為に ”媚びている” という意味ですか? ガラスをもって、アート界を虜にするという意味ですか? いずれにしても、興味深いお言葉です。】


私は、私達が ”決定を下さねばならない” 事を知っている。そして、私達は、”オーディエンス” を選ばねばならない。

私はかつて、商業界に於いてデザイナーになる決断をして、そのオーディエンスを決めた訳だが、その決断は深刻ではない。なぜなら、私はいずれ、アーティストとしての自分を確立するからなんだ。そういう決断をしたからね。まだ私は、たったの 80 歳だからね(笑)。


【あなたは 25 歳の時から、55 年もの間、コスタボダ社でガラスと深く関ってきました。だから、アーティストであるか、デザイナーであるかに拘らず、あなたはおそらく世の中の誰よりもガラスの性質を熟知しているのでしょう。それは、すごい事だと思います。】


そうだね。自信を持って熟知していると言える。

おかしな事に、あまり知識を有しない人々は、私がデザインしたガラスは、私が自分で吹いて作っていると勘違いしたりしている。だから、私は「私は、ガラスを吹く事はできない。しかし、どうすればいいのかは知っている。そして、一緒に仕事をしている人間に、自分の求めているデザインや方法を示す事ができる」、と言わねばならない時もある。


【あなたは腕のある指揮者の様ですね。】


そうだね。


【話を元に戻して、先ほどは ”ボート” の作品について伺いましたが、”頭” の作品についても教えていただけますか? なぜ頭をモチーフにしているのでしょうか?】


実は、長い間、頭をモチーフにする事は避けていたんだ。

あなたは ”眠れる少女” の話は聞いた事があるかな? その少女はカロリーナといって、オスカーシャム (Oskarshamn) の近くにある島 (Oknö) に実際に住んでいた、ある少女なんだ。

’90 年代、私は、今夏あなたが展覧会をしたボリホルム城で展覧会を依頼された。その時に、この ”眠れる少女” を題材にしたんだ。


【覚えています。たくさんの頭の形をした青いキャスト・ガラスの作品が、井戸のある塔にずらっと並んでいましたね。とても印象深くて、鮮明に覚えています。】


良かった。

実は、新聞で興味深い記事を呼んだんだ。それが、カロリーナ・オルソン (Karolina Olsson / 1861 - 1950) という名の若い少女の物語だった。

彼女が自宅に行くには、その日、張った氷の上を歩いて行かねばならなかった。小さな島に住んでいて、農業と漁業で生計を立てる一家だった。当時、彼女は 13 歳だった。カロリーナは氷の上で転んで、そのまま眠り込んでしまった。その後、彼女は頭痛を訴えながら帰宅した。そして、そのままベッドに横たわり、眠りに就いた。その眠りは 32 年間も続いた。1896 年に眠りに就いて、1908 年に目を覚ました。

そして彼女は有名人になった。その話が余りにも現実離れしていて、人々は信じられない思いだった。彼女は病院に連れて行かれ、2 年間、研究対象になった。フランスの教授をはじめメディアが彼女の事を書き立てた。カロリーナは ”眠れる美女(Soverskan på Oknö)”と呼ばれる様になった。

彼女の母親は、この物語に於ける重要な役割を担っていた。母親は、カロリーナが眠り続けている間、ずっと髪の毛を整え、爪を切り、写真を撮り続けていた。

カロリーナが目覚めた時、メディアや医師がやって来た。その時、彼女は立ち上がったんだ。そして、「何が起こったのかを話したくはない。私が覚えているのは、大きな暗闇があった事と、”青い人” だけ」と語った。

色々と語られているけれど、どこまでが本当なのか、その真相は分からない。只、13 歳の時に、彼女は生きる事を中断する選択をし、人生を離れていたという事。

私はその展覧会で、25 人の ”青い人” を並べ、その ”青い人” 達が、ボリホルム城からカロリーナが住んでいた島をまっすぐに見据える様に設置したんだ。

真相については、カロリーナは語る事を拒否した。だから、私は自分の自由な発想のストーリーを作った。そのストーリーというのは、実は彼女は氷の上で転んだ訳ではなく、男に虐待された。そして、そのショックで彼女は人生を生きる事を拒んだ・・・。

実は、全くのでっち上げではないんだよ。多分、私の推測は、そんなには間違っていないと思うんだ。私はカロリーナの母親の妹であったジャーナリストと話をした事があるんだ。

まあ、とにかく、それが私が ”頭” を作り始めた最初なんだ。


【その展覧会の後、あなたの代名詞の様になっている ”頭” シリーズが始まる訳ですか?】


展覧会は大成功で、たくさんの ”頭” が売れた。私の様に商業界で生きていると、人に喜ばれる物をたくさん売っていかねばならない(笑)。


【色々な事が、適切なタイミングで起こってきたという感じがしますが、あなたにとっては ”タイミング” というのは大事ですか?】


タイミング・・・。そうだね。

例えば、”黒ガラス” 作品に関して言うと、あれを 2007 年にニューヨーク(Heller Gallery)で発表した時、完全に間違ったタイミングだった。 私は ”黒ガラス” 作品だけを展示した。そして、あれは全くの大惨事だった!


【なぜでしょう?】


なぜなら、ガラス収集家は、透明感のある綺麗なガラスの性質を愛している。ガラスらしい質感を保った表面を求めているからね。


【でも、例えば、リベンスキー(Stanislav Libensky / チェコのキャスト・ガラスの大家)だって、黒いガラスの作品を作っていましたよ。】


それでも、彼の作品はまだ半透明でガラスらしい質感だ。私が作った ”黒ガラス”作品は、完全に真っ黒なんだ。表面も真っ黒で不透明。


【なぜ真っ黒のガラスで作ったのですか?】


ある種の反抗的行為だね。”美” へのプロテスト。ガラスという素材に対するプロテスト。でも、それでも、作品自体はガラスなんだ。


【その矛盾の中に、人生感を感じます。興味深いですね。ところで、あなたの人生で、最も喜びに満ちた出来事は何でしょう?】


それは仕事の面での質問なの?



【いいえ、特に限定しません。あなたが思い付く事を自由に話していただくのが最善です。】


なるほど、そうしたら、とても凡庸な答えになってしまうけれど、父親になった事かな。それと、ウルリカを見付けた事。


【では、この辺りで奥さまであるウルリカとの事を伺っていかねばなりませんね。やっと・・・】


(笑)彼女との結婚生活は、とてもドラマチックで刺激的で、そういった意味ではとても素晴らしかった。でも、調和とはほど遠かったね。

私達は、同じコンストファックに通っていた。彼女と私は完全に正反対の性質を持っていた。情熱的で・・・。今振り返ると、それは私にとってはとても良い資質だった。


【具体的にお話ししていただいてもよろしいでしょうか?】


そうだね・・・。私はどちらかというと気取り屋で、自信過剰で、判断が緩かったりする。でも、ウルリカはいつも私を現実に戻してくれた(笑)。いい意味でだよ。

彼女はとんでもなく正直な人だった。この世で、それほど正直な人には稀にしか出会えない。何でも思った通りを口にして、社交辞令もしなかった。肯定的でいい人を演じれば、人に好かれるのは簡単だ。でも、彼女はそうはしなかった。100 % 正直な人と同居するのは、今振り返れば、とてもいい事だった。決して楽な事ではなかったけれどね。彼女は ”ファイヤー・ボール” みたいだったから。


【お互いの仕事についても、正直な会話を交わしていたのでしょうね。】


絶え間なく。


【彼女もあなたと同様に、とても人気のある卓越したデザイナーでした。スウェーデンを代表する有名なデザイナーであるお 2 人の夫婦生活というのは、どういった具合だったのでしょう?】


私達は、いい関係を保っていた。なぜなら、私達は全く違っていたからね

認知度に対する競争みたいなのはあったんだ。けれども、仕事に関する競争というのは皆無だった。私達の仕事は全く違っていたからね。私達はよくお互いの仕事について意見を交わしていた。

ウルリカは、いつも有名でいたがった。いつももっと稼ぎたがった。それは、彼女の原動力だったと思うよ。


【彼女は現実的だったのですか? それとも?】


色々な要素がミックスしていた。とても子供っぽかったし、同時にとても思慮深く、寛大だった。


【認知度の高いあなた方お 2 人が、親として、子供達に何を与えてあげる事ができたと思いますか?】


自由かな。私達は 2 人共、子供達に自分がやりたい様に、なりたいものになる様サポートし続けたと思う。2 人の息子たちは、それぞれに全く異なった道を歩んでいる。


【何か特別な家族の思い出はありますか?】


よくセーリングを一緒にした事。私達は何年もセーリング・ボートを保有していて、よくその小さなボートで夏を過ごした。私達は 4 人でスウェーデンの海岸沿いを北に向けたり南に向けたりして巡ったり、ゴットランド (Gottland) に向かったりした。私にとっては掛け替えのない思い出さ。

そしていつも、港ではない自然の岸や無人島に停泊した。火を起こして飯盒炊爨などを楽しんだものだよ。


【では、あなたのこれ迄の人生で、大きなチャレンジとなった出来事は何ですか?】


分かっているだろう? 死だ。

ウルリカの事もそうだけど、私達にはもう 1 人息子がいたんだ(涙)。・・・息子が 2 歳の時に、溺れ死んだんだ・・・。私はそこにはいなかった。私達が仕事に行っている間、彼の面倒を見ていた女性がいたんだ。息子は氷の上を歩いていた・・・。

辛い。辛い事だ。でも、これはずっと昔に起こった事さ・・・。


【同情申し上げます。ところで、ウルリカはあなたよりも先に旅立たれましたが、もしも、あなたに彼女を送り出す役目があったのだとしたら、それはなぜだと思いますか?】


分からない。でも、興味深い質問だ。実は、私達は、話し合った事があるんだ。私は 80 歳で、彼女もほぼ 80 歳だった。私達は、いつも合意していた。それは、私が絶対に彼女よりも先にあの世へ行くというものだった(笑)。

女性の方が、一般的に男性より寿命が長いだろう。それに、彼女の方が私よりも自分自身に対して安心感を抱いていたからね。だから、彼女が亡くなった時、心の準備ができていなくて、とても驚き、動揺した。


【ウルリカが逝去してから半年経ちましたが、あなたの生活で、何が変わりましたか?】


私は、自分の誇れる好きな仕事が持てて、本当に幸せだと思っている。素晴らしいプロジェクトや興味深い出来事が常に仕事場で起こっているし、そこで仲間達と色々な事を共有できてありがたいと思う。私にとっては、仕事場である工場の仲間達が、私の第 2 の家族と言ってもいいからね。だから、苦境を単身で乗り越えるという事はしなくても良かった。

まあ、振り返ると、彼女が死んで最初の 1 週間は、私はとてもしっかりとしていたんだ。現実と向き合い、葬式や書類をやりくりした。

でも、その後 5 週間経って、私は病気になってしまった。耳に感染症ができた。そのせいで、バランスを完全に失って、立てなくなった。回復までに 2 週間を要した。

それ以外は、多分私はとても上手く現状を乗り越えていると思うよ。勿論、時どき暗闇だけを見てしまう事があるけれど、殆どの場合、光を向いて歩けているよ。


【あなたはそういう風に、いつも困難を乗り越えているのでしょうか?】


私は、大概の場合、暗闇を見ない事にしている。私はとても好奇心が旺盛で、物事をコントロールしていたい。だから、好奇心を持って、日々の出来事や物事を調査して、立ち止まらず、常に前進し続けていたい。仕事面でもそうだし、日常生活でも、人間としても


【あなたの人生の何か 1 つを変更する事で、人生がより良くなるとしたら、それは何でしょうか? それとも、何も変更する必要はありませんか?】


(しばらく考えて)私は忙し過ぎる。でも、けっこう満足している。勿論、1 人身になってしまった事は不便だけれど、自分の仕事は好きだし、自分の創造してきたものも好きだしね。忙し過ぎるのは、いつもの事だ。ゆっくりする暇がないうちになんとかそれなりに素晴らしく回っている人生、これが私なのかもしれないね。忙しく生まれついたんだね。そして、多分、忙しさの中で終わりを迎えるのさ(笑)!


【きっとそうでしょうね。ところで、あなたがそういう人生を持った事の意味は、何だと思いますか?】


分からない。どうやって知ればいいんだ?

私は人生で、そんなには容易くはなかった変化を起こさねばならなかった。個人的な事なので詳細は言えないけれど、”家族関係に於ける変化” の話だ。

その変化に関して、罪悪感を感じもするけれど、振り返ると、以前よりは良くなっている。私の家族は、私が幸せである事を望み、ある変化を起こしたにも拘らず、その事は私に幸福感を齎さなかった。だから、結局は自分で自分を幸せにする選択肢を選ばねばならなかった

自分で「自分はおそらくこういう人間だ」と思っていても、その自分は常に変化し続けていて、自分でも自分が誰なのか分からないうちは、それを模索し続けねばならないんだと思う。だから、人生は、<自分が誰であるのか>を知る為に、幸福感を手がかりにそれを求め続ける為にあるのではないかな


【これ迄に成し遂げてきた事で、最も誇れる事は何ですか?】


今日あなたと色々と話してきた事を考慮して、ヴェクショー市の (Växjö) 大聖堂の祭壇かな。作品としての祭壇の事だけを言っているのではないんだ。この祭壇は、ある意味、私の父に対するメッセージだからね。


【それが聞きたかったんです!】


(笑)父がこの祭壇を見る機会はなかったけどね。彼はきっと、私の事を誇りに思ってくれていると思っているよ。


【私もそう思います。最後に、あなたから次世代に向けてのメッセージを聞かせてください。】


私達は、全員、例外なく何か特別な事を持っている。絶対に何か持っている。それを、人生を懸けて求め続けて欲しい。そして、それを自分の幸福の為、自分の周りの世界の為に使って生きて欲しい

私は、自分の特別なものを、女の子達にもてたいが為に手に入れた。そんな理由であっても、突然、私はその才能を見付けてしまった。そのクラスの誰も持ち得ないものが、自分の手中にある事に氣付いた。

ピアノを弾くのが上手いとか、木を削るのに長けているとか、歌が上手いとか、走るのが速いとか、何かあなたが自分に関して少しでも居心地が良く感じられる事、あなたに満足感を齎してくれる事があったら、それが些細な事であっても、意外にも人生の方向性となる事だってある

人生の方向性を、かっこ良く見える仕事だとかステータスや金銭、またはあなたの両親があなたに要求するからといった理由で選択しないで欲しい。

あなたが自分らしく感じ、あなたが幸福を感じられる事を基準に人生を選び続けていけば、あなたの人生は自然とあなたに素晴らしい体験と充実感を齎してくれるだろう。自分の本当の声を信じて生きていって欲しい


【ウルリカの展覧会のオープニングが明日に迫ったお忙しい準備期間中にお時間を割いてくださり、ありがとうございました。今後益々のご活躍をお祈りいたします。】


こちらこそ。普段されない質問をたくさんされて、色々と考えさせられたよ。ありがとう。



写真 1)バッティル・ヴァリーン、エーランド島の VIDA Museum にて。(2018-8-16)

写真 2)三度・キャスティングの制作現場、オーフス工場にて。

写真 3)バッティルの、オーフスにあるスタジオを初めて訪れた時 。(1997-8)

写真 4)バッティル作、<Watcher>, h.200-220cm, 2002。(A.Persson撮影)

写真 5)バッティル作、<Resting Heads>, 38x22cm, 1999。(G.Örtegren撮影)

写真 6)バッティル作、ヴェクショー大聖堂の祭壇。

写真 7)バッティルと私。エーランド島の VIDA Museum にて。(2018-8-16 / M.Fukino撮影)

 

<Bertil Vallien> by Kosta Boda / You Tube ビデオ:

https://www.youtube.com/watch?v=EBIAGqIQCH0


<Bertil Vallien Timelapse> サンド・キャスティングの工程/ You Tube ビデオ:

https://www.youtube.com/watch?v=hjW7qoLvwYw



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