私と、私の書いた手紙たちの物語《 その 1 》
今現在、大阪の我が母校に通う中2の娘と共に実家に滞在中の私であるが、久し振りに珍しい場所をほじくり返していると、昔懐かしい思い出の品が出現した。
それも大量に・・・っ!!!
「何でこんなにあるの~!」と、自分でした筈の事にびっくり仰天しながら、ついつい引っ張り出してしまった。
お陰で、山積みの仕事を放ったらかしにして、ほぼ半日を、手紙の束の前で過ごしてしまった・・・(冷や汗)。
自分自身の若かりし頃の心の軌跡が、克明に記録されている。
それらは、まるで昔の親友の様であり、同時に自分の分身の様でもあり、そして ”自分とは全く無縁の誰か” の夢物語の様。
ーーー
私が大阪の実家をいよいよ離れたのは、1992 年、18 歳の春。デザイン学校に通う為に金沢の祖父母宅に移住した時だった。
その日から、私の ”日記シェア” ともいうべき、家族への手紙が始まった。
殆どの手紙が ”My Dear Family" で始まる。
自分のその日 1 日の他愛もない振り返りを、毎日毎日ただ気儘に書き綴っては、大阪の家族の元へ送り付けていた。その中身は、1 日分だったり 3 日分だったり、1 週間分だったりした。 それは、約 22 年間続いた。
20 歳でニューヨークに留学した後も、バックパックの旅先からも続き、帰省時と余りに多忙な時期を除いて、娘が 6 年生 2 学期に、ニューヨークから大阪の私の実家に移り住む迄、ひたすら送り続けた。
私が育った我が家、石黒家では、祖父母も両親も教職にあった為、全員の日程にそれ程の差がなかった。全員が揃って朝食を囲む事から 1 日が始まり、全員揃って夕食を囲む事ができた。
食卓での毎日の家族との会話、例え、会話が弾まないにしても、お互いの存在を当たり前のものとして共有する時間というのは、私の日常生活のかなり重要なひと時であった様に思う。
18 歳で家を出て、まず、その時間を最も惜しんだ。
そして、私の我儘を聞き入れて、好きな道に進ませてくれた家族への感謝の気持ちとして、その食卓に不在となった私の代わりに、手紙という形で連日の自分の生活の様子や思いを共有したいと切望して始めたものだった。
私にとっては、やはり自分を慈しみ育ててくれた家族の存在や愛情は、自己形成の上での揺るがない大きな基盤だったのだろう。
その後、どこにいても、私は常にこの食卓が、自分の拠り所であり、戻って行く場所なんだと感じていたし、だからこそ、世界の色々な場所で迷い嘆き苦しんだ時期も、ある種の安心感を持ってそれらを体験してこれたに違いないのだった。
手紙の1つ1つは、母が受け取った日付を記し、受け取った順序通りに整然と並べられて何箱にも納まっていた。
一体全部で何通あるのだろう?
ざっと見ても 1000 通ぐらいありそうな気配である。そんなに暇だった訳ではないけれど、<チリも積もれば山となる>だなぁ〜と、自分で呆れてしまう。よくもまあ、こんなに次から次へと書いたものだ。
ところどころから封筒を引き抜いて目を通してみる。
すると、何とも不思議な事に、私の脳裏には、その何でもない様な 1 日が、五感を伴った映像としてとても鮮明に蘇り、驚かされる。
ニューヨークの初日。
主人であるハンスと出会った時の事。
両親に内緒で、初めてハンスとメキシコ旅行へ行った時の複雑な心境。
23 歳、 3 週間のインド旅行で人生観が大きく変わったガンジス河での追憶。
スウェーデン王女との邂逅。
初めてヨーロッパを列車旅してスウェーデンへ辿り着いた悦び。
様々な旅先での出来事。
娘を妊娠・出産した時の感動と覚悟。
そして、娘の成長の記録・・・。
過去の自分とはいえ、学生を終え社会に揉まれ、その後、母親となり、常に 3 カ国を行き来するある種特殊な家族生活を営みながら、まだまだ成長過程にある自分。
次々と新しい環境の中で試行錯誤しながら懸命に自分らしさの探求に喘ぐ 1 人の女性というか、愛すべき 1 人の人間と向かい会う様な心境になる。
確かに在りし日の自分自身が 1 文字 1 文字認めたとはいえ、その当時の自分は、もう私自身ではない。何となく別人の様な人物の様な氣さえしてしまう。
しかし、その当時、その手紙を書いた自分が、やはり確実に今の自分を創り上げてきたのだと、感慨深い。
娘がニューヨークの小学校へ入った時から、家族への手紙は、メールで添付したものに変えてしまった。ただ、これは、毎日のお弁当の写真や、娘の成長の姿を記録として添えたかったという理由が、一応あっての事だった。
母は、それさえも、わざわざプリント・アウトして、日付順に束ねてくれていた。連日、食卓にそのプリントされた私からの手紙を持ち込んで、家族一同に読ませていたらしい。
手紙というのは面白い。
毎日の他愛もない事・・・と言いつつも、その日の出来事から、何をどう切り取ってどんな表現で郷里にいる家族に伝えたいのかは、本当に自分次第なのである。
送り主として、私は、ただ勝手に書いて投函し続けた感じであったが、今現在、自分自身が親になってみて、日本からは遥か地球の裏側にある、ニューヨークという大都会から頻繁に届く年頃の娘からの便りは、特別なものだったに違いないと思う。
他愛ない様な事が綴られた日々の様子を確認して、きっと寂しさも紛れ、多少の安心感も齎され、常に家族の絆を確認させられた筈なのではなかろうか。
私としては、手紙文化が衰退してきている事が少し寂しい。
メールも携帯でのやり取りも簡単にでき過ぎて、わざわざあれこれと文章を捻り出して紙に文字を 1 つ 1 つ書き、切手を貼って出そうなどと、そんな面倒臭い事を日常的にする事もなくなってきている今のこの時世では、この手紙の山は、ある種異様な存在感がある。
手紙の山・・・。
本当に、山の様にあるものだ・・・。山の様に蓄積された、私の1日1日の記録だ。
その1日1日が、私を構成している。私の人生を構築してきた。
日常のアドベンチャーが詰まっている。
家族への手紙には到底綴れなかった苦悩も、挫折も詰まっている。けっして虚勢ではないが、必要以上の心配を掛けない様に配慮した文面だって、数多くある。
今日、何年、何十年振りかにこれらの手紙をところどころ摘まみ食いして、ふと思った。
もしかしたら、私は、今現在の自分自身の為に、これらの文章を綴ってきたのかな・・・、と。
未来の自分自身に向けて、一生懸命送り続けてきたのかな・・・、と。
自分の心に宿った思いの1つ1つは、全てが今を生きる自分自身の糧になっていると、強く信じられる為に。
自分の選んだ道のりに、決して間違いはなかったんだよと伝える為に。
この手紙の山を前に、時どき、過去の自分からのメッセージを振り返ってみたいなぁ・・・と思った。そう、アーティストとして、グローバルに <”今、この時” を歩ませてくれている、”過去の瞬間瞬間” を創造した私>という1 人の人間が辿った道のりの断片として。
そして、この私の人生の主人公は、やはり、私なのであった!
Comments