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折り鶴と私。

更新日:2020年3月25日


一瞬一瞬に心を込める形。内なる光を求めて。



2 年前の 2016 年に引き続き、今年も、私はボリホルム城内に、私が日々せっせと折り続けた数千羽の折り鶴を羽ばたかせる事ができた。


そして折り鶴を通して、日本人がそこに込める祈りや願いの心、私の思いが、言語や国境を越えて伝わって欲しいと思う。

クローズアップ / The Prayer #302, 40x116cm, 2018

私たちのサマーハウスのあるスウェーデン、エーランド島に、ボリホルム城がある。

約 900 年前に建てられたこの城も、かなり修復が進んだとはいえ、今は漆喰も剥がれ落ち、積まれた石が露わの城跡である。その悲哀さえも感じさせる朽ち具合が実に美しく、この城はヨーロッパでもっとも優美な城跡とも称されている。

ミュージアムとしてエーランド島の観光スポットになっていて、中庭には、特設ステージが組まれ、よくコンサートが開かれている。数年前には、ボブ・ディランもここで歌った。

今現在も、来週から始まるコンサートの為に、中庭に組まれた鉄骨が日々大きさを増している。

夏には城内でアートの展覧会も催されている。


2016年度、2018年度の夫婦展カタログ。

私と主人のハンスは 2 年前、 2016 年にボリホルム市から依頼されて、市の 200 周年記念イベントの一環として、城内で展覧会をさせていただいた。その展覧会が大変好評を博したので、再び依頼され、今年も 2 度目の夫婦展をする運びとなった。


そのオープニングが 6 月 28 日にあった。


今年 2018 年は、偶然スウェーデンと日本が外交を始めてから 150 周年目に当たる年だというのが判明し、スウェーデン人の主人と日本人の私が一緒に展覧会を開催するというのはとても意義のある事だと、昨年から 2 人であれこれとアイディアを出しながら制作などの準備を進めてきた。


昨年の秋から、ヒプノセラピーの仕事と並行して、私は昼夜を問わず、文字通り働き続けた。制作をしながら、招待状のポストカードやカタログのデザインを手掛け、コンピューターと向き合い、印刷の段取りも全部した。

やれどもやれども、全然捗っていない気がして、ずっと焦燥感に付き纏われた。朝の 5 時から夜は 11 時までが半年以上続いて、お世話になっているとても腕の立つ鍼の先生を時どき訪ね、「限界にチャレンジ!」と明るく自分を励ましながら。

最近は流石にちょっと疲れてきていたが、途中でギブアップする訳にはいかず、ゴールするまでは、ラストスパートし続けねばならなかった。


2018−6−28、展覧会オープニングの一コマ (2018-6-28 / M.Fukino 撮影)。インスタレーション作品タイトル:<Woven Lives / 織込められた人生>、100枚の帯・折り鶴・ネオン。

ストレスが祟ってか、酷い腹痛と共に 6 月18 日に城に入り、10 日間掛かった展示作業の日々の末、ようやく 6 月 28 日に展覧会のオープニングが終わった。

ほっとする間もなく、私は連日 10 時から 5 時までボリホルム城に通い詰めている。


城は私たちに展示スペースを提供はするものの、管理運営に関してはまったくノータッチで、自分たちで宣伝、展示、販売に至るまでしなければならない。(アーティスト業は、なかなか大変である・・・溜息。)

よって、今度は城に通う日々が、展覧会を下ろすまで、40 日間続く。


私は展示室にテーブルをセットし、観光客を相手に折り紙ワークショップをし、時どき作品についての説明をしたりもしながらスウェーデン語を磨いて過ごしている。40 日間の時間を有効活用しなければならない。


The Prayer #302, 40x116cm, 2018

私の作品に多く登場する折り鶴については、頻繁に質問をされる。

私の展示品は、折り鶴で埋め尽くされているので、疑問を抱かれるのも当然であろう。なので、今回はその折り鶴の事に触れたいと思う。


なぜ私は鶴を折るのか。


折り鶴に対する自分の思い入れを、私は2年前の展覧会の時に作ったカタログの中で、こう説明した(以下、引用。英語で書いた原文を、後に日本語に訳したもの)。



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日本語には、“heart”, ‘’mind”, “spirit”を包括した“心”という言葉があります。私達は、“心を込める”、“心を映す”、“心を洗う”などという表現で、日常会話の中に“心”という⾔葉を頻繁に⽤います。私は、 “心”を生活の中心に据えながら生きる事に深く焦点を当てる文化的背景の中で育ってきました。野菜を切ったり、手紙を認めたり、ありとあらゆる創作活動の中に“心を込める”事は、自然と習慣となったのだと思います。


約 20 年前に日本を離れてから、時として、乗り越えるのに一苦労した思いもよらない困難や失敗、挫折に遭う事が当然としてありまし た。快適で慣れ親しんできた日本という小さな輪の外側に出た事で、異なった文化や考え方や表現方法の狭間で、周囲からの期待や異文化に起因する誤解を通して⾃己アイデンティティーの危機に苦しんだ事もありました。

様々な土地で、様々な人々と、様々なアイディ アや手法を使って仕事をしながら、自分が真に誰であるのかという答えを探し求めてきました。


そんな中、自分でも驚くべき事に、とりわけ折り紙というアートの形態、紙を折る行為を通して心の安定、平和、落ち着きといった感覚をいつも見つける事ができたのでした。 祖⽗母に静かに優しく見守られながら紙切れを立体的な形に折り込む事で好奇心を満たし、興奮を覚えた幼少期の温かな思い出を、 折り紙は愛情深く私に思い出させてくれるのです。

4歳の時に始めた 毎日の小さな喜びの活動が、生涯の情熱となったのでした。


私の制作に対する欲求の転換期は、2005年に自分が母親になった時でした。我が子の⼈生の良きガイド役として彼⼥との関係を培っていくにあたって、自分⾃身を如何により良い人間にしていくべきかに ついて真剣に考え始めました。

否定的な考えや感情が私達の人間関係や好ましくない現象を齎すのだとしたら、自分はそんな有害な影響から⾃分⾃身を解放したい。だから、⾃分⾃身を肯定的な思考やエネルギーで常に満たしているべきではなかろうか。

折り紙は、私の多忙な⽇常の合間合間を、幼い頃の最も幸せな時間にしっかりと繋がりながら温かな気持ちや静寂で満たしてくれ、まるで瞑想のように、肯定的な思考の光に焦点を合わせ、私の創造的な欲求を満たすのに大変適しているのかもしれません。


<折り鶴>

日本では、折り鶴というのは最も伝統的で、よく知られているモチー フです。鶴は、長寿、繁栄、平和、そして子供達に対する親の愛情の象徴とも言われています。多くの⼈が、彼らの祈り、同情や悲しみを表す為に、千羽鶴を折ったりします。広島の平和記念公園や、命に関わる事故の現場、病院などで束ねられた千⽻鶴を⾒掛けるのはその為なのです。

私の<祈り>シリーズの折り鶴作品は、⾃分⾃身の瞑想、祈り、 ⾃己暗⽰の延長線上にあるもので、自分の理想とする⾃己イメージに基づいて、できるだけ安定した人間でいる為に⾃分を諭す意味合いも込められています。

同時に、私達の子供達が幸せな⼤人になるよう、そして、この世界が彼らにとってより良い住処となるようにという私の願いや希望を反映したものでもあります。

ありとあらゆるモノにはそれらを創り出した人間のエネルギーが宿ると信じているので、肯定的な思いを包括した⾃分の“心”の最良のエネルギーだけを私は伝えたい。創造の時間を通して、内なる平和や 高次の⾃己と融合する為の模索など、1羽1羽の鶴が私のより良い人間でいたいという望みを具現化しているのです。

鶴達によって、私の思いが皆様と共有できたら幸いです。日常⽣活に於いて内なる光を探し求める私の旅を皆様に体験していただけたなら、それは私にとって大きな喜びです。

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鶴を折る時の心境は、他のモチーフを折る時とは少し違う・・・と感じるのは、私だけなのだろうか?

何となく背筋が伸びる。ひときわ丁寧に折り目を付けたいと思う。

前方にまっすぐ伸ばした首が特徴的な洗練された凛とした形に、前向きでひたむきな日本人の本質を重ねたくなる。

そして、そこに自分自身の姿も重ねてみたくなる。


私は、作品の中の 1 羽 1 羽の折り鶴に、自分の願い事を認めている。

”無償の愛”、”希望”、”内なる平和”、”許し”、”寛容”、”意味深い人生”、”共感”、”信頼”、”情熱”、”愛で満ちた世界”、”美しい言葉で満ちた世界”、”小我の超越”、”魂の自由”、”魂の成長” 、”人生の最後に後悔なく”、”信念を持って生きる”、”誠心誠意の人との関わり”、”私自身が私の求めている愛であるように”、”自己憐憫なく”、などなど、書き始めればキリがないほどたくさんの願いの言葉を、娘の誕生以来 13 年間ずっと作品に書き続けて、私はこの折り鶴の作品を<祈り>シリーズとして発表している。


自分自身が完全な光でないのを知っているが故に私は光を求め、自分の人生の”濁”を知っているからこそそれに向き合い、限りなく”清”の中で生きていたいと切望する。

折る事で自分と向き合う静寂の時間に身を委ね、願いを書き続ける事で、自分の魂をその肯定的なエネルギーで満たす。

そして多分、私は人生の最後迄、きっと鶴を折り続けていくのだと思う。


自分の中に美しい光を見出す為に使う時間、私の指先が創造する私の”子供達”が秘める祈りのエネルギーが、言語や国境を越えて、どうか広く波及しますように。

世界中に羽ばたきますように。



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