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松山 太 という 生き方 - その 1

更新日:2020年3月12日


TOKIKO インタビュー 14

Extraordinary Ordinary People / 人並み外れた身近な人々



私には、数あるお氣に入りの映画の中でも、特別思い入れのある映画が 2 つある。今までに何度観たのか分からない。

1 つは、黒澤 明 (くろさわあきら / こちら) 監督作品の[赤ひげ (こちら)]であり、もう 1 つは、黒澤 明 脚本・小泉 堯史 (こいずみたかし / こちら) 監督作品の [雨上がる (こちら)]である。


黒澤ワールドに躍動する、三船 敏郎 ( みふねとしろう/ こちら) や 仲代 達也 (なかだいたつや / こちら) や 寺尾 聰 (てらおあきら / こちら) といった名優たちが演じる 質実剛健・清廉潔白、強く逞しくも純粋でたおやかで優しい心根の人間味溢れる男たちに、子どもの頃から痺れ、女の身でありながら「こんな人になりたい〜!」とひたすら憧憬した。


それは流石に難しく、「こんな人に会ってみたい〜!」と思いながらも、「こんな人は、なかなかいないに違いない!」と諦め、「でも、日本のどこかに、まだ絶滅の危機に瀕しながらも、そんな氣骨のある人が存在しているに違いない!」と一縷の望みを失わず、人生も半分は過ぎたであろう昨今、何と! 見付けてしまった〜!


こんなご紹介の仕方をしたら、非常に失礼極まりないのは承知であるが、松山 太 (まつやま ふとし) 先生は、私の中学 3 年生の娘の脊柱側弯症を治癒していただける方だという強い確信をもって娘を託す事にした、骨格矯正をされている施術師の先生である。


ご自分で開発された<二刀無現流松山式正忍骨聖體術(にとうむげんりゅうまつやましきおしほねせいたいじゅつ)> により、通常なら非常に困難な骨格矯正を実現されている。


事前に娘のレントゲンを撮りに行ったクリニックで、「ああ、松山先生に診ていただくのですか。良かったですね! 先生は ”神の手を持っている”んですよ。業界で知らない人はいません!」と告げられた。



最初にお会いした瞬間に、三船 敏郎 が演じた”赤ひげ”こと、新出 去定 (にいで きょじょう)が 20 歳若返って出て来られた様な氣さえしたほどだ。

にこやかにご挨拶しながらも、内心、「いた〜!」と興奮しながら、お部屋に通された。


松山先生は、いつもお着物や作務衣を召されている。艶やかな黒髪を髷に結われ、端正なお顔立ちと鍛えられた身体付きが印象深い。


不動の意志と、両足で大地を踏み固めて進まれる生き様と、両手を広げて柔軟に全てを受け入れ掌握しながら全てを宇宙の摂理に委ねられている開かれた心を強く感じ、その人生物語を紐解きたい衝動に駆られた私であった。


ーーーーー

松山 太 (まつやま ふとし) 先生は、1973 年 10 月 30 日大阪生まれ。


鹿児島育ち、現在大阪市在住。

20歳までに、3 人の父と 3 人の母に育てられ、転居 31 回。

高校卒業後、鹿児島県庁に 16 年勤務後、カイロプラクティックと出会う。


自身の脊柱側弯症を自分で矯正する試み中で、“教えの矯正”である<骨士道 (こつしどう)>、“肉体の矯正” である<二刀無現流 松山式正忍骨聖體術>を独学にて創始。

松山骨格矯正院 院長

日々、紹介制のみの施術と、後継者育成道場を運営している。


ブログ:


 


松山 先生 インタビュー / その1 < "暗闇と向き合う" 編 >




【 松山先生、いつも大変お世話になっております。今日は改めましてよろしくお願いいたしますね。】


はい、私も、とても楽しみにしておりました。よろしくお願いいたします。


【 松山先生とは、私の娘の脊柱側弯症の問題がなければきっとお会いしていなかった・・・という、不思議なご縁があります。】


はい、そうですね。不思議ですね。


【 松山先生を拝見していると、もう”無私・無我”の世界で生きていらっしゃる様な感じがしますが、いかがなんでしょうか?】


いや、まだまだ至っていません。”無我夢中”ならあるかとは思いますが(笑)。

でも、もうそういう状態の方が居心地が良くなってきましたよね。”自分・自分”を持たない方が生き易いというかね


【 先生は、”明け渡す”という言い方をブログの中でされていましたね。英語で言うと、”surrender” です。】


そんな感じですね。もう、空っぽになって・・・。


【 その境地は、いつぐらいから意識されたんですか?】


”明け渡す” ということを意識し始めたのは、2014 年の夏だったと思います。

自分の命、自由、時間、未来といった様な、自分が所有していると思い込んでいる様なものを 、”手放す”というよりは ”明け渡し” て、”自由に使っていただく” という様な事を、私が 1 人で部屋の中で勝手に誓いをする様な事になりました。

それが 5 年前なんです


【 その ”誓い” を立て始めたのは、いきなりインスピレーションが湧いてという感じ、それとも、徐々に至ったという感じなのですか?】


徐々にではありますが。

5 年前にその誓いを立ててからは、精神的にも、実生活に於いても、以前よりは幸せを感じる様になっていったんですけれども。


それまでの私の人生は、生まれてからずっと現実的に幸せではないと感じている長い時期が続いていました。

それで、自分が ”骨士道” とか人さまの骨格などをちゃんと矯正する技術を普及させたいといった願いがあっても、なかなか上手くいかなくて、その中でやはりどうすれば上手くいくのだろうという事を思案していたら、”明け渡す”というところに辿り着いていたんですね


【 なるほど。”骨士道” を実践していく中で、力任せではいけないんだ・・・という氣付きがあったと伺いましたが、”自分の力で骨格を屈服させる” という様な力任せではなくて、”より高次で偉大な存在に委ねる”という事だと理解しましたが。】


その通りです。

実は、私はボディービルをしていた時期があったりとかして、無理に重いものを持ち上げる技術というのを教わって実践していたし、だから、そのノリで整体の方に行ったら、最初は自分の力に任せて骨を動かしていたんですよ。

人間のというのは、自分で自分を守ろうとして、逆に反発してくるんですよ。だから、簡単には動かなくて、壊れたのは私の指だったという・・・(笑)!


【 そうなんですね! 力に任せたら、自分に跳ね返るという事でしょうか?】

矯正できないだけでなくて、自分の指が歪んだだけで終わる・・・という笑えない話で(笑)。挙げ句の果てには、自分の背骨も歪むという事になるんです。

松山先生の施術を受ける娘。(2019-07)

【 娘の施術の様子を少しだけ拝見しましたが、なかなか大変な体勢で数時間過ごされるんですね。】

はい、そうですね。その中で、無理に力で押すのではなくて、お客さまの骨が自ら動いて治っていく様な刺激の仕方というか・・・、押すには押しているんですが、”引きながら押す” みたいなイメージですよね

【 中学校の体育の授業で剣道を 1 学期間させられましたが、その時に記憶に残ったのは、力任せに打ち抜くのではなくて最後の瞬間にちょっと ”引き締める” 事によって、ポンッと当りが良くなって軽く跳ね返るという事でしたが、何となくそのイメージが被りました。】


なるほど。

確かに施術は武術と非常に似たところがあって、だから、有名な古武術家である甲野 善紀(こうのよしのり / こちら先生という方がいらっしゃるんですが、その方がおっしゃっている ”力ずくではない” という事がとても腑に落ちましたね。

何しろ自分が壊れ始めていきましたからね。

まあ、だけど、その体験のお陰で大きな学びを得て、結果は良かったんですがね


【 それにしても、難しいお仕事ですよねぇ。”力ずく” ではいけないけれど、適切な力加減は要求される訳でしょう。体のコンデディションやその奥にある精神的な要素なども千差万別でしょうし、”これが正解” という明確なものがない事を、自分の感覚を頼って手探りで調整されるのですよね。】


そうですね。まあ、感覚的な事ですので、常に手探りですよね。

分かっていただけて嬉しいですねぇ。


【 只ただ、尊敬申し上げます。やっぱり、素人なので、下手したら折れるんじゃないか、壊れるんじゃないか・・・という恐れや不安を抱いてしまうんですよ。骨って、意外と脆い様なイメージがあるんですよ。】


そうですよ。特に肋骨や鎖骨は、相手が油断している時にドンッと急に押したら折れます。だから、追突で首がすぐにムチ打ち状態になるのもそうなんですよ。

でも、じわ〜っと押すと、お客さまの脳も体も分かっているので、受け入れ態勢が取られます。そして、お客さまの潜在意識が、危ない方向に押されているな・・・と感じると、筋肉が硬くなって防御してくるんですよ。

ただ、その反力が生じてきたら、「ああ、こっちではないんだな」と理解するんですよ


それを、昔は全体重を乗せてグーッと押していたけれど、動かないんですよ。それは、カイロプラクティックみたいに瞬間的にガンッて押したら、動くんですがね。

要するに、瞬間的に押したら歪める事はできますが、じわ〜っと押したぐらいでは、簡単には動かないですね


【 先生は、カイロプラクティックを勉強されて、施術を始められた訳ですけれど、やはりカイロプラクティックでは納得ができない何かがあったからこそ、”カイロプラクティックよりも骨が 20 倍動く” と言われている今現在の施術の道を開拓されたんですよね。】


その通りです。

私も元もと背骨が歪んでいて、カイロプラクティックや治療院通いをしていたんですよ。

施術を受けると、余り ”長持ちはしない” ですがその時は良くなるので、自分でもカイロプラクティックを学んだ訳です。

1 年間カイロプラクティックで仕事をするんですが、余り骨が動かないので、2 年目からはカイロプラクティックの技術を使わずに、自分で探求して開発したオリジナルのやり方を用い始めたんです。

カイロプラクティックでは、歪みが 2 mm 矯正される。3箇所だと 6 mm という事です。それぐらいだと、周りの骨も歪んでいるし、癖の付いた筋肉に引き戻されてしまうので、数日とかで元に戻って、再発という事になってしまうんですよ。


69歳女性の、変形側弯症という非常に難しいケース。 16ヶ月の間に7回施術した結果。(写真の掲載許可あり)

【 そうらしいですね。】


ところが、20倍ぐらいを動かすと、簡単に再発しなくて、たまに・・・、例えば半年に 1 回だけでもどんどん良くなる。

80歳のお年寄りでも、半年に1回でもどんどん良くなってどんどん若返っています。

そういう風になったんですが、矯正の量が増えれば、それに比例して痛みが消えるし、美しくなるし痩せるし若返る。

それで、あくなき”矯正量”というのに入り込んで、のめり込んでいったんですよね

それで、こうなっちゃいました(笑)。


【 興味深いですね。でも、やっぱり不思議なのは、先生ご自身が脊柱側弯症をお持ちで、それをどうやって自分自身で治そうと思ったか・・・、なんですが。】


自分が 27 − 28 歳の時に自分が側弯症だったというのは、実は 5 年ぐらい前に氣付いたんですよ。40 歳ぐらいで初めて氣付いた。側弯症になっている最中には分からなかったんです。

腰痛、背中痛、肩こり、膝や足首の痛みなどがあって、スクワットができないんですよ。腰を落とせない。だから、後ろへ後ろへと、出っ尻の様に腰を引かないと、膝が曲がってバーベルが下がらない。

その理由が分からなかったんですけど 2 年前にレントゲンを撮ったら、まだ側弯が残っていて、ようやく原因がよく分かったんですけどね。


【 原因が分かって、それを自力で治す試みをされたんですね。】


そうですね。

で、どうやって治したかと言うと、筋トレとストレッチで腰痛や背中痛、肩こりを取ろうと思って、その方法を自分で編み出してやっていったんですよ。

そうしていたら、いつの間にか真っ直ぐに腰が下ろせる様になっていたんです。


【 編出すところが、流石ですね。】


普通の動作ができる様になって、そして殆ど側弯症が消えた・・・と。


【 筋トレとストレッチで治るんですね。】


はい、私の場合は。

でも、側弯症には 58 通りあると言われているので。

世界で 1 番側弯症用のコルセットを作っている会社が貝塚市にあるんですよ。私がそこの社長さんと話したその時で、1 日に 30 個作っていたんですが、その社長さんに教えていただきました。


【 そんなにあるんですね。私は側弯の為の筋トレやストレッチを調べないまま、先生のところに直行してしまいました。】


そして、筋トレやストレッチで良くなる例というもの世界中にたくさんあって、”側弯体操” というのは世界中にあるんです。ただし、1 日 2 時間の運動を毎日しろという体操である事が多くて、時間が取られ、断念する人が多いですね。


【 それに、的確な指導の下で行わなければ、勝手に別の動きをしてしまいそうです。】


そうなんです。間違った運動になってしまうと、逆に歪みが酷くなるリスクがあります。

なので、最低でも週に 1 回は先生に習って、後の 6 日は自分でやるという事になるでしょうが、お嬢さんの様に中学生だったら、自分では教わった通りに再現するのは難しいでしょうね。

全国でそういう運動療法を試みたり、お医者さんのところに通って良くならなかった人々が、私のところに来られるんです


【 きっと、余計に酷くなった状態で来られる人も多いのではないでしょうか?】


そんな感じですね。どんどん進行して、どんどん悪化して。成長期のお子さん達は特にそうですね。

だから、あともう少し早く・・・、あと 1 年早くうちに来てくれていたら良かったのに・・・という人が多いです。歪んだ状態で 4 年ぐらい経って来られる方とかもいます。

固まってから来られる人が、とにかく多いですね


【 いつぐらいから ”固まる” んでしょうか?】


中学校 2 年生でも固まっていましたね。その子は、10 歳の時には明らかに曲がり始めて、14 歳で固まり切ってから来たんですよ。そういうケースは、やっぱり治すのに時間が掛かりますよね。

とき子さんのお嬢さんは、非常に柔らかい方だと思いますね。


【 そうですか。少し安心しました。

ところで、先生のプロフィールには、『 個人の病と社会の病とを同時解決する為の具体的な ”体の矯正” である <二刀無現流松山式正忍骨聖體術> を独学にて創始 』とありますが、まずは、この名称にはどんな由来があるのですか?】


”二刀無現流”というのは、”二天一流 (にてんいちりゅう / こちら) ”という、二つの天を一つの流れにするという意味の宮本武蔵 (みやもと むさし / こちら) の言葉に影響されての事です。

彼は、[地水火風空]という五大元素の本を書いていらっしゃるじゃないですか。私も興味があって、チベット密教をちょっとだけ勉強していて、それもあって、更に宮本武蔵が大好きなんです。

彼は師匠を持たずに独学で完成させた術で全て勝っているし、"神我一体" された素晴らしい方だと尊敬しています。


そこにヒントを得て、”二刀無現流”という事で、2つの刀で無を現す。無光量(むこうりょう)とか無光力(むこうりょく)など、まあ、阿弥陀如来の力だと言いますがね、この無の力を出すには、陰と陽の左右の2つの手刀で歪みや体の部位を挟むとバランスが取れた時に、無の光、エネルギーが高次元から入って来て正される・・・という事ですね。


【 無光量、無光力というのは、”サムハラ” の事ですか?】


あ、そうです。サムハラ! よく勉強してらっしゃいますね。


【 大阪市内にサムハラ神社もありますけれどね。】


そうです。岡山の方にも元がありますよね。


【 そう、奥の院ですね。】


それで、”松山式正忍骨聖體術” というのですが、実は ”忍骨 (おしほね) ” というのは、そういう神さまがいらっしゃるんですよ。

神道の ”骨の神さま” でして、”マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ (正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命 / こちら) ” というアマテラス (天照大神 / こちら) の長男がいらっしゃるんですよ。このオシホミミにはたくさん名前があって、オシホネというものもあって、これは、合氣道 (あいきどう / こちら) の神さまでもあるんです。

謎めいた神さまなのですが、アマテラスからの命で天孫降臨して地球を治めようと思ったら騒がしいので途中で引き返して、天界に帰って来て「お前行け」と、アマテラスからの命で息子のニニギノミコト (瓊瓊杵尊 / こちら) が天下って行っちゃったもんだから、天子が天孫になったという事です。

それで、天子という骨の神さまが降りて来ていないから、地球人の骨が歪むらしいですね。骨を維持するエネルギーが、そもそも地球に降りていないという話です


【 あらま! それはいけませんね。】


そうなんですよ。「降りて来い!」っていう感じでしょう(笑)。

ゴリラもチンパンジーも二足歩行したりするのにそれほど歪みませんが、人間の骨はよく歪みます。


【 動物は、まだ自然の摂理の中で生きていますが、人間は我が強く、それに反して生きているからでしょうか。】


そうですね。

心が曲がると、骨も曲がり易い


【 意識や心の状態は、確かに体の状態に現れるようですね。】


悲観している人、否定的に生きている人は、どれだけ治しても、すぐに猫背になるというか


【 氣を付けないといけませんね・・・(笑)。】


だから、私もしょっちゅう自分で自分の体を治していますね。


【 自分で治せる方はいいですね。私などは何をどうしたらいいのか皆目見当がつきませんから。】


そうそうそう。


【 骨に直接触れるというお仕事をなさっていますが、『教えにより意識に触れる事で魂と意識が同時並行して矯正される事が<真の人づくり>であり、国づくりであると確信』という事をおっしゃっていますが、これは、施術士としての軸になっている事でしょうか?】


はい、本当にそうですね。

神さまは、宇宙創始の時に、”観る側” と ”観られる側” とに分かれたという事です。”観られる側” が "物質" の神さまと”精神" の神さまに分かれたと。

結局、”精神” が歪んではいけないけれど、”もの” も歪んではいけないという事です

物質にも3次元以上の精妙なものもあるんでしょうが・・・。


ですから本来は、施術に於いても、両方同時に治さないといけない。

どちらか片方だけというのは意味がないんです。片方だけだと、治ったと思っても、すぐに引き戻されるんですよね


【 そこは、ごもっともだと思う点ですが、難しいと感じられませんか?】


難しい。


【 おそらく、先生のところに来られる方々は、相当な覚悟をなさって来られると推測できますが、3 次元的な骨格矯正を行いながら、精神の在り方の重要性をどの様にお伝えするのでしょうか?】


そこはね、言葉に出しては余り言ってこなかったんですよねぇ。

だから、よく腰痛が取れないお客さまがいらして、「第 5 番腰椎が動かないけれど、なぜなんだろうなぁ・・・」と思っていると、だんだんと情報が入ってくるんですよ。

本人がポロッ、ポロッと呟く言葉の中に・・・、例えば、自分の人生を省みてマズイ生き方をしているとか、父親が大嫌いだとか、母親が大嫌いだとか、色々とヒントが出てきます。そこを諌める言い方は苦手だったりするし、自分の技術で治せないが為に「あなたのそういう点が原因なんだ」と言うのは憚れるので、心の中で祈る様にしています。

そういう次第で、余り今までは伝えていなかったのですが、この半年 1 年は少しはお伝えする様にしていますね。


【 私のヒプノシスの仕事で言うと、クライアントさんが悩んでいる色々な体の問題も、潜在意識下で思い出す過去の記憶の中にある根本原因が、起こった体験を否定したり悲観している事に起因しているとおっしゃる事が多いですね。その体験を思い出して受け入れ、相手や自分を許した時点で不思議なほど解消されるケースは多い。

なので、逆に、先生のお客さまが何かをポロッと言い始めた時は、「良かったですね、そういう貴重な体験ができて。きっと体に現れているこういう症状も、あなたに何か大事な事を氣付かせる為に現れているのかもしれませんね」、みたいに伝えるといいのかな・・・と思いました。】


なるほど、そうですね。

お客さま本人が、自分の心や過去の事が原因で体の痛みや歪みを引き起こしているのかもしれない・・・と氣付かれる時があるんですよ。「そうなんでしょうかね?」と言われたら、こちらももうちょっと突っ込んでその話をする事ができるんですよ。

だから、言われないうちは、けっこう黙っておく事が多いですね。


【 ご本人も、できる事なら弱みになる様な事は隠しておきたいのが心理でしょうしね。】


でも、やっぱり肉体的に骨の歪みが取れる時は、肉体に投影されている魂の歪みも取れていくという事を感じる様で、ご予約を入れる前に、その事と向き合う覚悟がある程度できている方が多い氣がします

今は殆どのお客さまが、その覚悟を持っていらっしゃっていると実感しています。特にこの2 − 3 年は。

以前はもっと、”自分は変わりませんが、歪みや痛みさえ取れればいい”っていう方が多かったと思いますが。

それを知る方法としては、生活習慣を教えて貰って、「お酒の量を減らしましょう」、「甘いものを減らしましょう」と提案した時に反発があるんですが、そういう人は、まずは自分の心の持ち方を変えようとは思っていないんだなあって・・・。

その辺は、少しずつ徐々にでも変えていただくしかありませんね。


【 先生のブログに、『骨士道(教えの矯正):(1)「原初の教え (先生の独自の理論) 」を学び、現代教育で歪んでしまった意識を矯正する。⑵「八正道 (はっしょうどう / こちら) 」(身・姿・動・衣・住・食・心・神)の中に、"原初の教え”を実践し、理屈ではなく実際の生き方を矯正する。”肉体矯正 + 意識矯正 = 魂の矯正”』とありますが、普通は整体に行っても、心や魂の事には言及されませんし、施術者自身にもその辺の理解や心構えがあるかも疑問です。先生を拝見していると、きっとその理念に基づいて生きていらっしゃるんだと思いますが、その辺はいかがなのでしょう?】


そこは痛いところですね(笑)。

まあ、実際、その様に生きていると思います。私生活全体の歪みを取るというのは、実践しないと・・・と思いますね


【 でも、とかく現代社会では非常に難しい事だと思います。】


”ダラッとする” というのと ”リラックスする” というのは違いますけど、その辺は人によって曖昧ですしね・・・。

骨組みっていうのは、ぱっと見ると直線的なものの集まりに見ますけど、背骨という中心があり、その直線的な骨組みあるからこそ、クラシックバレエなんかでも自由自在に柔らかく螺旋の様に動ける訳なんですよね。

ところが、ヒップホップなどの様に、中心や軸といったものを無い事にしようとして、骨が無いという様な感覚で中心の位置も動かしてしまって球体も軸も無いという風にぐちゃぐちゃに動いてしまうと、実は動けない体になって壊れていくんですよ


【 そうなんですか?】


小・中学校でヒップホップダンスをしている子どもというのは、体に痛いところがいっぱいあって大変です。

そういった意味でも、八正道とか生活態度をきちんとするという言い方をすると、何かとても不自由な事の様に感じる人もけっこういらっしゃいますけど、でも、”原初の教え” というのは ”骨” みたいなもので、”きちっとするべきところはきちっとする” みたいな、中心や球体や軸という様な原則的なところを守れば、あとは柔らかく動けるよ・・・という教えなんですよ

現代でそう言うと、何か不自由で、やりたくない事を無理やりさせられるみたいに取る方が多いので、伝わらないのを承知で書いているのが現状ですね。

ただ、それをどうやって分かり易く、人に受け入れられる様な見せ方や表現の仕方をしていくかは、これからの課題ですね。


【 個人個人で向き合っている課題や氣付きの段階やニーズが違うのでしょうから、それに合わせてちょっとずつお伝えしていかねばならないのでしょうか。】


そうでしょうね。難しいですね。


【 でも、最終的には本人の意識次第ですね。全く無理な訳ではないでしょうが。】


施術を受けられて体の歪みが解消された方は、血や神経の流れも良くなってスッキリしてくるので、生活態度を変えやすい環境は整っていると言えると思います。なので追い風にはなるけれど、でも本人次第ですね。

どっちの道に行きたいかは、本人が選ぶしかありませんよね。本人が ”歪んだ人生を歩む自由” というのも、当然与えられているじゃないですか。

"歪みがなくて循環している宇宙の摂理に沿った 1 つのちゃんとした道" なのか、"宇宙の摂理に反して宇宙から淘汰されてしまうぐちゃぐちゃの道" を行きたいのか。

宇宙からの矯正が掛かって不幸を感じる生き方を生きるよりも、私としては骨士道に出会って自分で納得しながら直していく方が優しいなあ・・・と思っているのですがね


【 生徒さんにも、その様な指導をされていますか?】


生徒さんも、受け入れられない人が多いですね。物理的に押すと骨が動くと思っていますからね。


【 生徒さんは、どの様にして松山先生を見付けられるのですか?】


基本的に全て口コミですね。広告はなく、ブログをたまに書いている程度ですので。


【 私の娘も、いずれ習ってみたいと言っています。自分で体験して実感した事が大きい様ですね。】


ああ〜、それは嬉しいですね。

人体は小宇宙だと言われるので、お嬢さんは宇宙がこういう形で顕現しているという自分の姿を観て、その事をもっと学びたいという事は出てくるでしょうね。宇宙を学びたいんでしょうね


【 そうなんですよ。”フラクタル (こちら) ”ですよね。】


そうですね。まさに。そういう話を親子でされているのですか?


【 はい、そうですね。そういう事は話していますね。どこかに歪みがあると、更に小さい世界や更に広がった世界にも必ず歪みは生じるのは当然ですよね。】


どうも私は ”物質担当” らしくて、物質的な歪みを取る、その中でも、人体の軸となる骨・・・みたいな感じなんでしょうね。

相手が受け入れる時は精神的な話もしますが、でも、私の場合は「本当の道はこっちだよ」という男性的な教え方をして、本人が自分で決意してその道を歩ける様にしてあげる。私は一緒には歩いてあげないのでね(笑)。

やっぱり、骨を動かすとう事だけで、相当な精神的エネルギーを使っているので。


実は、ご予約いただいて施術に来られるお客さまの人生相談をまずはされて、それから施術。その後にまた話し込みたい方が多くて(笑)、カウンセラーみたいな仕事をずっとさせられていて・・・。そのカウンセラーの部分は無償ですよね。

2 時間話して、それから 3 時間施術してヘトヘトになって、更に 2 時間話し込まれて、トータル 7 時間おられた方もいて(笑)、向こうは言いたい事が言えてスッキリするんですけど。

けれども、私がアドバイスした事に対して本当に実行する人はとても少なくて・・・、だから、その辺の施術とカウンセリングは混同せずに分けた方がいいのかなと思う様になってきましたね。

カウンセリングは専門の方にお願いした方が、先生が 1 人だとどうしても甘えになっちゃうんじゃないかと思うんですよ。


【 でも、松山先生なら、ニコニコしてどれだけでもお話を聞いてくれそう・・・と思うんじゃないですか(笑)?】


そうそう(笑)。


【 分かりますよ。私のクライアントさんの多くは、誰にもちょくちょくと悩みを打ち明けられたりできなくて溜め込んで、いっぱいいっぱいになって行き詰まって来られる方が多いですから、ここぞとばかりに打ち明けられますよね。いつも思うのは、日常生活のちょっとした愚痴や本音を親身に聞いてくれる身近な人との人間関係が誰かと構築できていて、悩みが小さいうちに解消していたら、私のところに来なくてもいい人はもっと多いんだろうなあと。でも、今のご時世、皆自分の事で手一杯で人の悩みまで聞けない人、聞く技量のない人がとても多い様に思います。】


聞く側が許せていないと聴けないですよね。だから、話す側も話すべき事を話せない


【 そうですね。ヒプノセラピーでも大事なのは、セッションに移るまでの会話にあるんですよ。評価や批判をしない ”傾聴” によって、クライアントさんとの信頼関係、つまり ”ラポール” を築けるので、後のセッションが非常にスムーズになります。】


まさにそうですよ。私もしっかり聞きますよ。そして、ある程度依存にならない程度にカウンセリングの時間はそれでも大切にしています。

でも、話す事にエネルギーを使い過ぎると、その後の施術で骨が余り動かなくなるな・・・といった懸念が起こりますね。

施術後のカウンセリングが長引くと、2 日後にみえられるお客さまにエネルギーを取っておかないといけないから・・・という打算も入るのは正直なところですね(笑)。ペース配分とか体力を考えちゃいますよね。もう歳ですから(笑)。


【 長距離走みたいな感じですよね。ペース配分は大事ですよね。】


最近は変に賢くなってきているのもあるのでしょうかね。

前は我武者羅にしていました。毎回全力を出し切っていたんですが、やっぱり自分が体を壊し始めたのでね。

下顎の歯の下の骨が腐ってきたりとか・・・。そこは心臓と繋がる部分なので、心臓のエネルギーを相手に出し過ぎているものだから、自分の心臓のエネルギーが欠乏して不具合が出てきました。

その頃は自分自身の骨格ももっと曲がって歪んでいたので、エネルギー調整が上手くできていなかったんですが。

今は施術して疲れる事がそんなになく、翌日まで引っ張る事も余りないので大丈夫ですが。


【 施術後にはきっちりとご自分の骨格をまっすぐに戻す作業を怠らないそうですが、そこもご立派だと思います。

そんな松山先生の生い立ちを少し伺ったら、今現在よくもこんなにまっすぐに生きておられるなあ・・・と感嘆せざるを得ないほど紆余曲折がおありだったんですね。】


そうですね(笑)。

非常に不幸な生い立ちですがね・・・、まあ、物心ついた時に覚えている映像というのは、”母が血だらけ”・・・というものなので。父に殴られて・・・


生い立ちを語られる時の笑顔も笑い声も印象的。

【 そこまで壮絶だったんですか?】


普段はめちゃくちゃいい人なんですよ。でも、父は凄い酒乱で、飲むと豹変するんですよ。

私は基本的に、父も母も嫌いではないし、いい人たちだと思っていて、たまに嫌な思い出を思い出して「あの時は辛かったなぁ」とは思っても、恨む氣持ちは全くありません


私たちは鹿児島市内に住んでいたんですね。

父がものすごい格闘家だったもので、瓦 15 枚ぐらいを素手で割っちゃったりとか。柔道、空手、剣道、ボクシング何でもやっていた人でした。

私の人生を語る時、この父の話から始めなければ、私の生い立ちを語れないんですよ


【 それ程の影響力をお持ちだったんですね。】


父は 3 つ歳上の兄と母親の 3 人暮らしだったんです。

父のお父さん、つまり私の祖父は戦争に行っていたんですが、終戦 8 月 15 日の前日である 14 日に日本ではない国で戦死したらしいですね。

場所はよく存じ上げません。それに何百人の兵隊のうちの 6 人しか生き残れなかったという事ぐらいしか聞いていません。

祖父は数学が得意で、角度計算をしてすぐに大砲の角度を指示していたポジションの人だったという事です。


父の母、つまり私の祖母は小さい子供を 2 人連れて戦死した夫の実家に転がり込むんですよ。その実家は、じいちゃんとばあちゃんの 2 人暮らしだったんです。

この家は松山家なんですけど、祖父にとっては養子先なんですよ。


【 本当の血縁者ではないんですね。】


そうです。

そういう複雑な環境に転がり込んだものの、優しかった義理のばあちゃんがすぐに亡くなってしまうんです。私の父が 10 歳ぐらいの時の事です。

そうなると、取り残されたじいちゃんは寂しいじゃないですか。

嫁である私の祖母は、亡くなったばあちゃんの代わりに身の回りの世話から何から何まで全部しなくちゃいけない上に、多分いじめられたんだと思いますよ。

さんざん嫌な思いをして、そのじいちゃんの家を出るんです。鹿児島市内に出稼ぎに行ったんですよ。その時、弟である私の父はまだ 10 歳ぐらいで、祖母は 3 つ上の父のお兄ちゃんだけを連れて行って、父を血の繋がらないじいちゃんの所に置いて行くんです


【母親に置いて行かれるとは、それは辛い出来事だったでしょうね。】


それから、じいちゃんと父との 2 人暮らしが始まるんですよ。

炊事、洗濯、掃除の全てを、10 歳の父が全部させられる訳なんですよね。そして体罰は当たり前だし。朝早く起きて、寒さに凍えながら野菜畑の野菜を採って来て、水を汲みに行って、じいちゃんに味噌汁作って食べさせる。

父は奴隷の様に扱われて、じいちゃんも嫌な事があったら血の繋がらない父に当たるんでしょうね。焼けた火箸でバンバン叩くし、家から蹴り出されたら戸を閉めて入って来られない様にするので、父は床下で水だけ飲んで 3 日間過ごしたんですって。それで学校にも行って・・・みたいな。


【 過酷ですね。】


中学校 1 年になったら、上級生たちにめちゃくちゃにいじめられたそうですよ。なぜかと言うと、3 つ歳上のお兄さんが、いじめっ子だったらしいんですよ。

いつも 2 − 3 年生の上級生からいじめられて、学校帰りは 5 − 6 人に羽交い締めにされてボコボコに殴られて、家に帰ったらじいちゃんからいじめられて、まともに食べる事もできない状況だったそうです。

その上、父は ”筋炎” という骨の腐る病気を患うんですよ。お尻の骨盤のところにできて、そのせいでびっこを引いている様な父だったので、余計ですよね。その傷跡は、ケロイド状ですごいんですよ。


父は何度も死のうと思っていたらしいんですけど、近所にいた軍鶏(しゃも)という闘鶏用の鶏がいたそうで、昔は、爪にカミソリを付けて戦わせていたのを見たそうです。

お互いの体を引き裂いて腸を引き摺って目を潰された軍鶏が相手を倒す姿を見た時に、「死ぬ氣でやれば、勝てるかも」・・・と思ったそうなんです


【 正気の沙汰ではないですが、そこまで追い詰められていたんですね。もの凄い思春期ですねぇ。】


だから、私の父の師匠は軍鶏ですよ

ニワトリから人生訓を学んだんかいって(笑)。

それで、父はいじめられっ子だったんですけど、”やり返す” という道を選んだんですよ


【それは筋炎になりながらの選択肢なんですか?】


その頃は、だいぶ良くなってきてからの段階だと思います。

その筋炎との戦いも相当すごい話で、その外科処置というのが、家の中で皆が見ている中、麻酔なしでノミで腐っている部分を削り落とすというものだったらしいんですが、何度もされたそうです。

父の悶絶する叫び声が近所中に響き渡っていたらしいです。

左のお尻ですね。


【 凄まじいとしか言いようのない想像を絶する幼少期ですね・・・。】


はい。

で、そんな父なんですが、軍鶏の一件があった後、近くに空手を教えるおっちゃんがいたので空手を習い始めるんですよ。毎朝毎夕、巻藁を 1000 回ずつ突いて、強くなっていく訳です。


【 すごいですね・・・。】


中学校 2 年の時に自信が付いてきて、「仇を取る」って決めるんです。

自分をいじめた奴を 1 人 1 人呼び出して、コテンパンに倒していったんですよ。2 年生を全員倒して、3 年生の先輩も全員倒して、学校で番長になったんですって(笑)。

で、要求したのが、「お前、米、持って来い!」、「お前、野菜、持って来い!」だったっていう(笑)。それで空腹を満たしたという話で・・・。

鹿児島の田舎なのですが、今度は高校生たちに ”すごい奴がいる” という事で呼んできて、それを倒してね。


【 すごい世界ですねぇ・・・。】


自分の拳、腕力だけが自分を自由にしてくれたもんだから、それを父は頑なに信じたんですよ。唯一の身内の母親は兄だけを連れて、自分を見捨てたと思っているから、自分の身一つじゃないですか


父は 19 歳の時に東京に出て働き始めるんですけど、”石鹸カタカタ神田川 ♪ ” じゃないですけど、東京の裏路地で銭湯帰りに、父はヤクザから絡まれて恐喝されている人を見て、正義の心なのか、いじめられていたかつての自分自身に重ねたのか、あっという間にタタタッと倒す訳ですよね。

そうしたら、素人にやられた・・・という事で、当時は会社の寮にまでヤクザが来ていたんですよ。

それを父は全部倒すんですがね。刃物を持った 6 人のヤクザを、19 歳の父は素手で倒すんですよ。


殆ど毎日、そういった目に遭うので、「オレは 20 歳までは生きられない」と父は思っていたそうです。

寝る時は寝室にジャックナイフとか、刀を色んなところに隠し備えていて。生き延びる為に自己流の拳法を考えていたらしいですよ(笑)。


【 暴力と死の危険性が人生の中心にある人生って、想像できないですね・・・。】


うちの父は、一応、堅気の人間なんですがね(笑)。

で、辛い人生だから、「もう 20 歳で死んでもいい」と思いながら、寮の窓際で腰掛けて爪を切っていたんですって。

上から見ていたら会社の門が見えていて、バタバタバタッとヤクザたちがやって来て、「ケンイチ、出て来い〜!」って。


【 あれ、松山ケンイチさんなんですか?】


たまたま(笑)。

でね、友達が、「ケンちゃん、来たぞ! 裏から逃げろっ!」って。

で、父はカチンときて、そのまま降りて行って門から飛び出す訳なんですよ。

そうしたら、門の陰に隠れていたヤクザが 1 kg ほどある鉄の刀を振り下ろしてきたんですが、重いので父を切ろうとしても振り遅れるんですよ。

その隙にバタバタと倒しながら、初めて ”真剣白刃取り” ができたそうなんですよ。切り掛かられた時に、片手で刀を掴むんですよ。

父は、「両手では掴めないぞ、払い除ける様に片手で掴まないとダメだぞ」と言っていましたが、父が刃を掴んだので、相手とあべこべになって、刃先が相手の胸を突き抜けたんですって。その刃はあと 2 − 3 cm で心臓だったらしいと後で判明して。

「でも、おれは殺していないから」って。

あとの 2 人は完全に KO して、残りの 3 人は逃げたらしいんですよ。


それでね、東京駅だか上野駅だかで、そんな闘争の後に返り血を浴びて、どうしようかと思いながら、とにかく駅の階段を駆け上がったんですって。

そうしたら G メンみたいに 5 − 6 人のヤクザが横一直線に並んで階段を降りて来ていてた。

父は、今まさに刃傷沙汰で手傷を負って生き残って、凄い形相で階段を駆け上がりながら、睨み上げたら、そのヤクザたちがたじろいでバッと道を開けたらしい。


父は冷水機で血を洗い流して、冷静になった時に自首しようと決めたんですよ。

そして、拘置所、留置所に 35 日ずつ、計 70 日留め置かれたんですが、太ったらいけないからって、鉄格子の中でめちゃくちゃ腕立てとか筋トレとかをしていたそうです。

それで、無罪。


【 そりゃ、そうでしょう。お父さまは刀で襲われた身なんですから。】


”正当防衛過剰”(笑)! 「オレは無罪だから」って!

でも、父が所帯を持って長男である私の兄が生まれた頃には、やっぱり向こうも素人相手なんで、追い駆けて来なくなったらしい。

19 歳の父ですが、殺しに来られても殺されずに、生き延びて生き延びて、20 代は 27 箇所も職場を変わっているんですよ。逃げまくっているから。


で、話が戻ると、父は淡路島のスナックでも羽交い締めにされて大きな花瓶で頭を殴られて、ヤスで心臓を突いてこようとした時に、足は自由だったから、膝でそのヤスを阻止しているんですよ。だから、膝にヤスで抉れた傷跡がくっきりあります。全身血だらけになったらしいんですけど、それでも 4 − 5 人を素手で倒すんです。

ある飲み屋で、割ったビール瓶で目を抉ろうとしてきた時も、顎を引いたから眉毛のところに当たったらしくて、眉毛が削られて失くなったんですよ。

だから夜、飲んだ時に墨をすって、縫い針にちょんちょんと付けて、飲みながら眉毛を描いているんですよ。”自分刺青” で眉毛を描く親父・・・(笑)。


【 壮絶〜!】


父は飲んだ時に、全身にある傷がどこでどういう風にできたのかを説明するんですよ。で、「オレは全部急所は外しているんだ」とかって威張るんですよ。

去年の 10 月に亡くなったんですけどね、父はそういう風に満身創痍で、とにかく全員を倒し切って、生き切って逝きましたね。

ずっとそういう闘いの人生でしたね。


【 何だか、映画の中にしか存在し得ない人物みたいですね・・・。】


そうそう。だから、知り合いの映画監督に、「ケンちゃんの事を映画にさせてくれないかなぁ」ってすごく言われたって言っていました。

私の母が言ってましたけど、昔、高倉 健 (たかくら けん / こちら) の [仁義なき戦い (こちら)]ってものすごく流行りましたけど、「あんなん、観るもんじゃない。ケンちゃんの方がずっと面白い」って。所帯持ってからも、常に小競り合いはある訳で、余りにも壮絶で、”生”だし。


そんな事ばかりで、移り住んでいく中でも常に、「あいつらそろそろ仕返しに来るな」と、手元に小槍を持って、家の玄関先にジャックナイフを隠して・・・て。昔は車のスプリングで刃物を作れたのでね。父は最初は工場にいたもんだから、金属があったら刀が作れるので、何本も作って隠し持っていましたね。

車から降りて、何人ものヤクザが「ケンイチ〜!」ってドスを持って殴り込みに来たら、父はもう既に自作の刀を持って待ち構えていて、居間から玄関に向かって走り出て行くから、 5 人全員が一氣に逃げるんですよ。


【 氣魄が全然違うんでしょうね。】


そう。

「オレを本当に殺そうと思って来た人間は 1 人もいない」って言っていましたね。

やっぱりビビっているんですって。父は、「オレは間違った事はしていない。オレは正しいと思って突っ込んで行くだけだから」と


話が戻ると、父は酒を飲んだら、そういうバトルの時の記憶が甦るんですよ。本人は余り記憶していないみたいなんですけど、母は毎晩の様にボコボコに殴られるもんだから、夕方になると、私たち兄弟の小さい靴を玄関から勝手口に移動しておいて、夜の 9 − 10 時に父が暴れたら、「逃げるよ!」と言って寝ている私たちを、手を引っ張って逃がすんですよ。それで30mぐらい離れたところにある空き地で 1 時間ぐらい立たされているんですよ。

その間に、「どこに行っていた!」って、母がボコボコに殴られている訳なんですよ。


【 それはどれぐらい続くんですか?】


父が酔い潰れるまで、母に折檻を与え続けるんですよ。今度は母が ”お岩さん” の様な顔になって迎えに来る訳です。母の歯は、ほぼ全部差し歯だったんですよ。

父はもの凄い破壊力の裏拳一発で、見なくても後部から襲ってくるヤクザの下顎を粉砕していたのでね。父は夜中に裏拳を 1 人で練習していたらしいです(笑)。

母も、相当後遺症が出ているでしょうけどね・・・。父は母の髪の毛を引っ張ってぐるぐると宙に回していましたからねぇ・・・。


【 ええっ、そんな事ができるんですか?】


本当に! 母の体が宙に浮いて、メリーゴーランドになっているのを見ました。そして、壁に叩き付けるんですよ。

母は目が腫れて、塞がった瞼で朝ご飯を作ってました。


【 お母さまは、よく耐えられていましたねぇ・・・。なぜそんな事ができたのでしょうか?】


何度も母は死のうと思って、20 − 30 分歩いて行くと登れる裏山があるんですけどね、夜中に 3 歳ぐらいの小さい私たちを連れて、山に登るんですよ。

「え、どこに行くの、お母さん?」って言ったら、「ついて来て」って。

それで飛び降りができそうな山の頂上に連れて行って,「今から死ぬんやで」って言われて・・・、嫌じゃないですかぁ。


【 覚えているんですね。】


もちろんですよ。

そして、妙に鹿児島市内の街の明かりがキラキラと綺麗で、死ぬ前に眺める最後の綺麗な光・・・みたいなイメージでね。

「イヤだイヤだ、怖い怖い、死にたくない〜!」みたいな問答を繰り返して。どれだけ泣きじゃくれたのか・・・と思うほど泣きじゃくると、いつも顔がボコボコに腫れて歪んでいる母も渋々諦めて、山を降りるんですよ。

すると、父が「どこに行ってたんだー!」って凄い形相で酔っ払って待ち構えていて、母はまた殴られているんですよ。

もう、覚えている限り、ずーっとその繰り返しでしたね(笑)。笑うしかありません。


【 うわあ〜。松山先生のご両親の記憶は、そういう風に残っているんですね。切ない。】


そうです。幼少期、私の寝ていた寝室の隣のリビングで夜中にパリーンという音がするんですよ。そうしたら、母が寝室にバタバタバタッて入って来る。毎晩コップが割れていた。


【 お父さまって、松山先生にとってどういう存在なのですか?】


父は最大の恐怖ですね。怖い、その一言に尽きます

世間には、”喧嘩ばっかり、酒ばっかり、博打ばっかり、女ばっかり” みたいな父親はいるけれど、弱っちかったりするじゃないですか。そして、息子が成長して体が大きくなってきたら、”お母さんをいじめやがって” ってなるでしょう。

私も、中学校の頃から柔道やボクシングをして腕っ節は強かったけれど、絶対に勝てないオーラを父は持っていたんですよ。スピードも勝てなかったし。

やっぱり、”生きるか死ぬか” の修羅場をずっとくぐり抜けてきた人間というのは ”自分は正しい” と信じ切れている何かがあるんですよ。


とにかく、私にしてみたら、真夜中の海に放り出された様な深〜い暗さの様な、断崖絶壁の淵に立たされた様な、そういう畏怖も含めた恐怖もあって、そういう父ではあるけれど、同時にどこかで尊敬もしているんですよね

母には相当辛く当たっていましたけれど、他の人は絶対に叩かないし、多分、自分を捨てた母親と重なったんでしょうね。


【 そういう話はお父さまとはされていないんですね。】


していないし、そういう事は全く口に出さない父でした。自分の事は照れ臭くて。

父は背が高く手足も長くてけっこうルックスが良く、喧嘩が強いともてていた時代なので、変な話ですが、毎晩 5 人の女性を相手していたそうなんですよ。とにかく元氣過ぎるというか・・・。

裏を返せば、それぐらい母親の愛情が欠落していて、思考が狂っていたのかもしれませんけど(笑)。

そういう中で本当に大好きな人ができても、父は告白できなかったらしいです。「生涯を通して、オレはもの凄い数の女を知っているけど、好きな女性と結ばれた事は 1 度もない」って言っていました。


【 そんな事言うと、耐え忍んだお母さまの立つ瀬がありませんね。】


本当には好きではなかったんでしょうね(苦笑)。

それがですね、やり方が酷いんですよ。

「どうしても命懸けで結婚して欲しい」と言う母と、もう 1 人の女性とがいて、父がこういう条件を出したそうです。

「先に男の子を産んだ方と、オレは結婚する」だそうです。


【 え〜! そうなんですか?】


そして、3 人で暮らしていたそうです。


【 ええ〜!】


むちゃくちゃでしょう。それで、母が身籠った途端に、もう 1 人の女性は身を引いたんですって。


【 えええ〜! そういうのって、あるんですかぁ?】


なんか、昭和って、そういう時世なんですかね(笑)。


【 いやぁ〜、濃いですねぇ(笑)!】


どんな父親やって、思いますよねぇ・・・!

そういう事が平氣でできたっていうところが、父の実母に対する歪んだ愛情の深さを物語っている氣もするんですよ。母親に捨てられたという思いがずっとあって、そこが捻れに捻れて女性をいじめるというか、”オレの事を絶対に捨てないっていう愛情を見せてみろ” っていう事の投影かもしれないんですけどね


【 お父さまとおばあさまの関係は、修繕される事はなかったのですか?】


晩年はおばあちゃんも氣付いたみたいで、息子である父と一緒に暮らしていましたね。

おばあちゃんは男の様な人で、タバコをスッパスッパ吸って、鹿児島の繁華街のど真ん中でクラブを経営していて、鹿児島の 1 番上の組の組長がお氣に入りで、そのクラブ通いをしていましたね。


【 へぇ〜、逞しいおばあさまですねぇ。】


そうそう。おばあちゃんはキクエっていうんですがね、お店が閉店になって、店の 10 人ぐらいの女の子と、子分を引き連れたヤクザの親分が向かい合っている時に、「おいキクエ、お前そろそろオレの女になれや」って自信満々で言ったらしいんですよ。

「アホか、お前」って私のおばあちゃんがふったそうで(笑)、そういうおばあちゃんなんですよ。


【 もてたんですねぇ。】


おばあちゃんは、もう絶世の美女だったから若い時に就職していた企業では、靴箱がいつもラブレターでいっぱいになって、捨てるのが大変だったというぐらい。


【 面白い家族ですね〜。】


そうですねぇ。

で、おばあちゃんが男勝りだったんですよ。男っぽかったし、戦後だったし、自分の愛していた旦那が戦死しているし、その時に子供 2 人抱えていると男の様に生きていかなくては生き抜けなかった様で、それで命懸けだっただろうと思いますね。

だから、おばあちゃんの性格に父は似ているんだろうと思います。もしかしたら、おばあちゃんの方が氣が強いかもしれませんね。

おばあちゃんは、84 歳まで生きて、最後は胸腺の癌でしたね。


そういう生活の中、余りにも耐えられなくなった私の母は、私が 6 歳、兄が 7 歳の時に大阪に夜行列車に乗って移住したんですよ。こっそり夜逃げです


【 それで大阪に来られたんですね。】


はい。母は前もって計画していたんでしょうが、突然連れて来られましたね。小学校が始まってすぐですよ。7 月。入学して 3 − 4 ヶ月通っただけで。


父は出稼ぎに行っていたんですよ。出稼ぎの収入が大きなお金になっていたので、家を建てていたんですよ。その頃は、ちょっと家に帰って来たら、1 ヶ月出稼ぎに行くという具合でした。

棟上が終わる、殆ど家が建っている状態の時に、母は出て行ったんですよ。


【 十分もう切羽詰まっていましたよね。】


で、家が建った時に、父はそこに 3 日だけ住んだんですって。家族の為に建てた家なのに、その家族がいないんだから、家はすぐに売り飛ばしたそうです。むしゃくしゃしたんでしょうね。

「男が家を建てる時に、家族が協力せずに逃げやがって」ってなもんだと思います。

家を売った金を手にして、真面目に働いていた父が、また昔に戻ったんですって。


鹿児島の 1 番ヤクザが集まる繁華街の飲み屋に 1 人で座って、カウンターでガンガン酒を飲んで、入って来るお客さんをことごとく斜め 45 ° で睨め付けて、目で喧嘩を売るんですよ。それで乗ってきた人たちをボコボコに倒す。

何度も殺され掛けるけど死なないものだから、もっと腕のきく人が東京から雇われて、父はいよいよ殺される寸前だったらしいですよ。


【 どういう事ですか?】


10 人が船に武器を積んで、父親を殺す為に鹿児島まで来た事があるんですよ(笑)。

40 歳を過ぎていましたが、父はその頃はトレーニングもしていませんでしたが、ものすごい格闘のセンスがあって思い切りがいいから、全部倒していたんですよね。


【 何者・・・?】


父から逃げて親子 3 人で出て来た大阪で、母は、キャバレー勤めだったんですよ

そこで働いたお金で私たち兄弟を育てたんですよ。キャバレーの長屋寮に住み込んで。

朝起きたら、母が寝ているから、自分で食パン焼いて学校へ行き、帰って来たら、夕食は母がその辺のスーパーで買って来た惣菜を並べているだけ。サランラップをピィーッと開けて食べるだけ。それが晩ご飯。母とは余り目を合わさずに・・・。


【 まあ。】


そのうち、母が、勤めているキャバレーに通っているヤクザに捕まって、「オレの女になれ」みたいになって、うちの長屋に出入りする様になるんですよ。

そのヤクザっていうのが、昼間でも子供が見ている前でもセックスをするんですよ。酷いもんですよ。泣き叫んでいるのに、母を手篭めにする訳ですよ。

本当に、見たくないものを見てきたっていう 10 歳の頃ですよ。

母は、飲めない酒を飲みながらキャバレーで働くので、肝臓病になって、そうしたら収入がないから、9 歳と 10 歳の私たちを施設に連れて行くんですよ。


【施設ですか。】

そこには、知的障害のある子や色々な事情の子がいて、「学校の雰囲氣っぽいけど家っぽいし、何だろう、これは?」って思っていると、「ここに住むんやでぇ」って言われた。

「ええ、何でやねん?」って訊いたら、「もう、お母さんたちは帰るから」って。

「残っていき、残っていき、もうこれ以上は会えないんだから」って、私たちをそこの施設に捨てようとした

【 お母さまに "捨てられる"・・・というのは、何とも切ない感覚でしょうね。】

はい・・・。私は母の足に噛み付くほどしがみ付いて、もの凄く渾身の抵抗をしたのを覚えているんですけどね。

それで、母が私の祖母である松山キクエに 4 年振りに電話したら、「お前、どこに行ってたのよ〜!」って。こうこうこういう理由で施設に子供を・・・と説明したら、「子どもを施設に入れる事は絶対にならぬ!」とおばあちゃんが言ってくれて、「"オレ" が育てるから、すぐに子どもたちを飛行機に乗せろ!」って、50 万円をすぐに母の口座に振り込んだらしいですよ。

私たちはそんなことを知らないんですけど、そのお金を使って、急に何でも買ってくれるようになりましてね。別れる 2 − 3 日前になって、洋服だとか欲しいもの、食べたいものを急に買ってくれる訳ですよ。

貧乏だったから、そういう事がそれまでに一切なかったんですけど、その日も色々と買ってくれて、突然、夜に、「もう鹿児島に帰るんだよ」って。「もうこれで別れだから」って言われてました

それも刺青が全身にある様なヤクザのおっちゃんと添い遂げるというかで・・・。多分、子どもが邪魔になったそのおっちゃんにそそのかされたのかもしれませんが。


私たち2人は、飛行機に乗せられて鹿児島ですよ。

タクシーに乗せられて。号泣したいんですけどね、母も泣いていたし、尼崎に住んでいる母の兄である叔父さんもいて、タクシーの助手席に乗っているんですね。

おじさんの前で泣くのは恥ずかしいので、10 歳の私は、涙が出ている寸前なのに、何かを押し込んだんですよね。自分の中でロックした様な、そんな事でしょうね。

感覚は思い出せないんですけど、その時、私も兄も、母に捨てられたんだ・・・と、潜在意識に落とし込んだんだと思います


【 それで、鹿児島に久し振りに帰って来るんですね。】


そう。おばあちゃんが父に内緒で 3 日間ぐらいおばあちゃんの家に泊めてくれて、父に電話して、「どうするか、ケンイチ? お前、引き取るか?」って訊くんですよ。

父はもう再婚していたから、「お前が育てられないんだったら、"オレ" が育てるから」っておばあちゃんが言ってくれました。

父は子供は大好きで、子煩悩だから、「いや、引き取る」って言って、すぐに迎えに来てくれて、父と 2 人目の母親との 4 人生活が始まるんですよ。10 歳から


【 あらまあ。】


そうこうしているうちに、私にはお父さんみたいな人が 3 人、お母さんみたいな人が 3 人いる事になっていましたけどね、どのお父さんにもどのお母さんにも大事にして貰いましたよ


【 ヤクザのおっちゃんたちを、”お父さん” って呼ばれていたんですか?】


呼んでた、呼んでた。福知山に 3 ヶ月だけのお父さんもいたけれど。


【 素直に受け入れたんですか?】


受け入れて、甘えて、引っ付いていっていましたよね。


【 それは純粋に素直だったんですか? それとも?】


いや、私は素直だったと思いますよ(笑)。子供って、父親に叱られた時とかに泣きながら素直になるじゃないですか。

でも、そういう事を父から感じ取っていたんだと思いますね。何となく、敬いの氣持ちをもって、大人の男の人には接していたと思いますね

ドラマとかを見ていても、若い世代が父親とかに反抗してとんでもない振る舞いをしたりするけれど、あんな事は自分の中では考えられない事ですよ。


私は子供の時から、どういう訳か、「従わなければならない、この人生」って受け入れていましたね。言い換えれば、「自分は絶対に人生を選択できない」と思っていました



( その2 へ続く・・・)


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骨士道とは下僕道

我々の魂は、大愛なる原初の神仏より造られ、所有された。魂の使用者である我々一人一人は、所有者のための下僕として働くことのみを許され、それを承諾し契約した。


我は喜んで下僕となる。


私以外の人であっても、大愛なる原初の神仏の姿がもし観えたならば、下僕となることを切望するであろう。

松山 太  ”


 

松山先生のブログ: 世界平和のための骨士道


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