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自分の道。自分だけの道。

更新日:2021年12月29日


大掃除、そして、「終わり良ければ、全て良し」。



ブルックリンのアパートからの夕暮れ時の眺め

あと 2 日でブルックリンを離れる。

旅仕度に加えて、1 年間アパートを他人に貸す事になった為、今、私は荷物の整理や大掃除に忙しい。意外とこまごました物を溜め込んでいるものである。余り物を持たないが、それでも不必要な物を処分し、埃を払う。


ブルックリンでは、1 人の時間を満喫すべく、色々なプランを立てて全部楽しみ、抱え切れないほどの作品を携えてスウェーデンに飛び立つ予定だった。何しろ、娘の誕生以来初めて、私はたった 1 人で 3 週間も過ごせる恩恵にあずかってしまったのだから。

ところが、予定は未定、妄想しただけに終わった・・・(チーン)。

美術館やギャラリーを巡ったり、古い友人とお茶をしたり、作品の制作に充てる筈だった時間は、殆どがセッションの仕事と、自分の頭の掃除に費やしてしまった。

夏に予定している城跡での展覧会は、一緒に展示する主人に作品を沢山出して貰おうと、早くも妥協に走っている私である。


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頭の掃除はいい。

私は 44 年の人生で、今が最も頭が掃除された状態だと思う。

振り返れば、人生には必ず幾つかの大きな転機があって、そういう時はいつも頭の大掃除を余儀なくされてきた・・・と、後になると分かる時がある。


ところが、掃除しようにもこびり付いたまま頭から追い出す事のできない大きなシミの 1 つが、長い長い年月、数年前まで私を苛んでいた。

そして、数日前に、それがやっと払拭できた事に氣付いた。


そのシミというのは、私が高校時代に“やらかした”不登校である。

多分、高校 2 年の時は、20 日ぐらい休んだ。3 年の時は、全体の 3 分の 2 ぐらいしか出席しなかったと思う。


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私が生まれ育った環境は、何を隠そう”教育一家”だった。

同居の父方の祖父母も、父母も、全員教師だった。祖父は小学校の校長、父は高校の校長や大阪府教育委員会の課長も勤め上げ、2 人とも皇居で教育者表彰を受けた。

通った学校の先生方は私の出どころを熟知し、私は”できて当たり前”の生徒だった(=暗黙の了解で、そうでなければならなかった)。


小中学校では、色々な事を相当頑張った。

ピアノの伴奏者を決める日には、絶対暗譜で完璧に弾ける様に練習したし、習字も授業の前日には風呂場近くの床の上で何度も納得するまで筆を動かした。中学校では陸上に打ち込み、休日には自主トレで近所を何キロも走り込んだりしながら、沢山の表彰状を貰った。

でも、私は、陰でしている努力を誰にも知られたくなかった。私は、ひっそりと自分の能力の限界にチャレンジして、更なる能力を手にする事に、素直に喜びを感じていた(・・・と思っていた)。


そうではありながら、私はいつも先生や友人達に不思議がられていた。

というのも、私は全校集会などで決まって貧血で倒れたりして、保健室の常連になっていたし、中学校の最初の離任式では、あろう事に保健の先生の離任挨拶の時に目の前で貧血でぶっ倒れ、顎をかち割り、舌を噛み切り掛けるという(顎 4 針、舌 5 針縫う)流血事件を起こして、入学 3 日目にして中学校の”時の人”になってしまった。

そのくせ、スポーツが得意で、「弱いのか強いのかよく分からない」と言われ続けた。


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ところで、私には 2 つ歳下の弟がいる。とても仲が良い。

私の人生は、このソウル・メイトとも言うべき弟なくしては成り立たない。

弟は、脳性麻痺でこの世に登場した。生まれた時から足が悪い。それなのに、自由の利かない足で杖をついてびっこを引きながら歩き、家族の中では 1 番行動範囲が広い。

その弟は就学前、障害者施設に週末以外は預けられていたが、私は彼が家にいる時はいつも一緒に時間を過ごした。彼が小学校に上がると、着替えを手伝い、朝食時には彼をおんぶして台所に連れて行った。小学校の登下校は、私が彼をバギーに乗せて一緒にした。放課後もよく一緒にバギーで連れ出した。


弟には不公平だと文句を言われそうだが、私にとっては、弟は人間や社会の色々な側面について、共鳴・共感について、身近で教えてくれる教師の様な存在だったと思う。

子どもの時から、身体的社会的弱者と言われる様な人々との交流が、私には普通だった。けれども、弟の様な存在は、社会ではやはり少数派なのだった。

世の中の子どもは、かなり辛辣で、意地悪だという事に、それどころか、世の大人達も無関心で冷淡だという事に、彼を通して早くから身に染みて知る事となった。幼少の私は、その事に深く傷付き、憤っていた。


だから、本当はとても消極的なのにも拘らず、びくびくしながらも私は無敵で素敵な姉を目指し、いつも弟の側にいて、無言で彼を守っていた。

いや、そんな事を言っては聞こえが良過ぎる。私は、私自身の立場も自分の能力を上げる事で守っていたんだろう。


そんな訳で、今思えば、自宅に教師が5人もいて、私は自分の中でのかなりギリギリのところで自分を鼓舞し続けていた。実際にぶっ倒れつつも、弱みを見せず、文句を言わず、他人の視線を氣にしながらも氣にしない振りをして、トップギアだとバレない様に控え目に突っ走っていた。



余り勉強はしていなかったのに、高校は地元の進学校へ入ってしまった。勉強の良くできる人ばかりが集結していた。

ところが、私は、もう、とっくに力尽きていた。

偏差値で優劣が付けられる体制にうんざりしていた。勉強をしなくなった。陸上部も辞めた。入っていたバンドも辞めた。

大学受験を控えた時期に、何の為の勉強なのか全く意義を見出せなかった。


朝起きると、英語がある日などは特に体が怠く、少しずつ休み始めた。1 度足を踏み入れると、その感覚に慣れて、余り躊躇せずにさぼれる様になった。

家にいた祖父母に氣付かれない様に自室に隠り、両親にも黙っていた。


学校に行く代わりに、私は本を読み漁った。

遠藤周作の著書は殆ど読んだ。"沈黙"にかなり感化され、その後はひたすら彼の本を開き続けた。トルストイ、ヘッセ、山崎豊子、曾野綾子や城山三郎もお氣に入りだった。城山三郎の [硫黄島に死す] は、バロン西こと西竹一中佐の生き様に惚れ込んで、何度も読み返し、愛読書となった。他の人が学校で切磋琢磨している間、私はベッドに伏せて、本を片手に沢山の涙を流していた。

高校 3 年生の時に両親にバレるまで、私は親の本棚の蔵書をほぼ読破した筈だ。

そうして、なかなか答えの見えない洞窟に彷徨い込んで、アイデンティティ・クライシスの夜明けを待った。


結局、高校では唯一、大阪府の読書感想文コンクールで優秀賞を授かった外は、さんざんな成績で不登校児という汚名を自ら選び、その重い荷物を背負いながら卒業した。

そしてその後の何年もの長い年月を、私は羞恥心を持って不名誉な高校時代を振り返っては悲嘆に暮れて過ごした。


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でも・・・、と思う。

私はこの挫折の思春期を通して、体制に流されず、「自分とは何だ」、「人生とは何だ」、「どの様に生きていきたいのか」という事に、必死で向き合っていた様に思う。

学業からは逃げたかもしれないが、<自分らしさ>とは何か、という自分の核の部分を苦しみながら必死で模索し、最終的にはその探求からは逃げなかった。

だから今、きっと私は「社会の常識に迎合する事なく、自分らしい生き方をしよう」と強く思っているのかもしれない。


この暗闇に潜んだ時間がなければ、私が今歩んでいる道は絶対になかった。


そして、私のでこぼこな道の側にいつも立ち続けて見守ってきてくれた家族の理解や支援、与えてくれた多くの氣付きに繋がる示唆には、どう感謝したらいいのだろうかと思う。



私は自分の創り上げた道を、なかなか氣に入っている。

創造的で、自分らしく、快適である。

自分の道を確認する為に、こうして自分の事を書く様になったのも、氣に入っている。

私は今、もう人生の汚点を隠しながら自分の事を必死で守らねばならないという呪縛からも、解放されたんだと思う。


道は、歩けば必ずできる。

高い所から俯瞰すれば、でこぼこでも平でも、橋が架かっていても、亀裂が入っていても、確実に自分の歩いた後には 1 本の筋ができている。

険しい山道を必死で登った後の達成感や、崖から落ちて助かった時の安堵感も、その道には刻まれていく。どんな道であっても、ただ一筋、自分だけの確かな軌跡として残る。途中で寄り道して迷った洞窟も、後で振り返ると、氣分転換になり、方向転換になり、それはそれで実に有意義な発見に満ちていた、と驚く。


私は、今、胸を張って言う事ができる。「終わり良ければ、全て良し」。

道には正解も不正解もなく、負い目を感じる必要もないんだと。恥辱的な汚点の様に感じて疎んでいたけれども、不登校の時期が、確かに私の自己アイデンティティの確立の為の掛け替えのない布石となっていたという事を。だから、失敗ではなくて、私にとっては必然の光明に照らされていた体験だったんだと。


そう思った一瞬に、頭の中から 1 つ大きなシミが消えてなくなった。

あ〜、何てすっきりしたんだろう!



倒れない様に適当に手を抜きながら、適当に精を出しながら、私は自分の前に伸びている筈の曲がりくねったでこぼこの 1 本の道を、スキップしながら進み続けてゆくのである。


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